終 令和六年 春
近藤歩美は靖国通りでタクシーを降りた。右手で杖をつきながら歩む。世田谷の老人ホームから新宿歌舞伎町へと向かったのだ。
黄砂による影響で空は霞んで見えるが、新宿の街は穏やかな陽光に包まれていた。Tシャツ姿の外国人観光客もいる。冬の間はぎくしゃくと痛む左膝も、今日は不思議と滑らかに動いてくれた。
歌舞伎町の『ドン・キホーテ』には多くの客が出入りし、平日にもかかわらず、“ゴジラロード”は多くの人々が行き交っている。コマ劇場はとうの昔に姿を消し、新宿東宝ビルのゴジラが睨みを利かせていた。
「近藤さん」
細身の老人が声をかけてきた。ツイードのジャケットに白のボタンダウンシャツという清潔感のある格好だ。ショルダーバッグを肩にかけている。
彼は六十代後半に差しかかったはずで、短く刈った頭髪は雪のように白かった。
腕時計に目をやった。まだ昼の午後十二時三十分だ。老人とはこの『ドン・キホーテ』で午後一時に待ち合わせの約束をしていたが、かつて極道だっただけに三十分以上も早く着いていた。
「すみません、早く来過ぎてしまいました」
老人は申し訳なさそうに頭を下げた。歩美は首を横に振った。
「ゆっくり行きましょう。ここに来るのも久しぶりじゃない?」
「はい……約二十年ぶりです。ニュースでいろいろ見聞きしてましたが、やっぱりえらい変わりようだ」
老人はおのぼりさんのようにキョロキョロとあたりを見回し、新宿東宝ビルを見上げてため息をつく。かつてはこの街の“狂王”と恐れられた男の右腕で、彼自身も顔役として名を売った。しかし、今は異国に迷い込んだ旅人のようだった。
老人とともにゴジラロードを北へと歩んだ。道の両側には、あらゆる種類の飲食店や娯楽施設の入ったビルが立ち並ぶ。ケバブやクレープを食べ歩く観光客もいれば、真昼間からチューハイのロング缶をあおる若者もいる。その混沌とした雰囲気は昔と変わっていないものの、街頭スピーカーからは凄まじい音量で、客引きやキャッチについていくなと注意喚起するアナウンスが繰り返し流されていた。
歌舞伎町の中心に近づくと、老人は顔をわずかに強張らせた。
「つらくない?」
歩美は声を張り上げた。老人は首を横に振った。
「ありがとうございます。私から呼びかけたというのに、少しだけ緊張します」
「そうよね」
「……あの事件から、しばらくは荒れた生活を送りました。ですが、今は感謝しかありません。あの人が絞め落としてくれたおかげで、私はシャバで生きられましたし、孫の顔も見ることができた」
老人こと土居泰彦は泣き笑いのような表情で語った。
不破は八王子医療刑務所で肺炎のために死亡した。先週のことで享年六十九の人生だった。
不破は前橋刑務所で六年の懲役生活を送り、その直後に日本国内の治安を揺るがす大事件を起こした。舎弟頭の南場宏とともに、政治家を含めた四名の市民を殺害。警視庁の銃器対策部隊を相手に爆発物と短機関銃で抵抗し、十二名の警察官に重軽傷を負わせたのだ。
十二年にわたる法廷闘争の末、不破と南場の死刑判決が確定した。それから約十年を確定死刑囚として小菅の東京拘置所で過ごした。彼らの死刑執行がずっとなされなかったのは、不破と南場が逮捕後に大物議員の杉若善一とブライトネスによる“政治とカネ”の問題を告白したためだと噂されている。南場は今も確定死刑囚として拘禁されている。
被害者の王心賢は杉若と関係が深く、ブライトネスの常務は杉若の政治資金団体の代表だった。メディアはこぞって、ブライトネスを通した大物国会議員と“歌舞伎町の狂王”の闇の関係を取り上げた。
杉若自身はシラを切り続けたが、事件後の翌年に行われた衆院選において小選挙区で落選。なんとか比例復活を果たすなど、与党自政党のなかで求心力を失った。現在は杉若の三代目にあたる次男が地盤を受け継ぎ、父とは異なる清廉な庶民派を売りにしている。不破の死刑が執行されれば、杉若家のスキャンダルを蒸し返されかねないと、時の内閣は警戒していたという。
土居が涙声で言った。
「子分をコマみたいに使えばいいのに、あの人は自ら乗りこんじまうんですから。極道をやるには優しすぎたんです」
歩美は黙って相槌を打ってみせた。同意したわけではない。優しい人間は何人もの生命を奪ったりはしないだろう。
土居の人生も決して楽だったとはいえない。あの事件ではブライトネスビルのエレベーターで失神しているところを、警察官によって発見され、殺人容疑の共犯として逮捕された。しかし、彼自身は一切の武器を所持しておらず、サブマシンガンや手りゅう弾といった武器にしても、南場がひとりでかき集めたと主張したため、検察は土居を不起訴にせざるを得なかった。
釈放された彼に待っていたのは、ヤクザ社会からの厳しい処罰だった。不破の評判は中国人マフィアを退治した義侠の徒から、カタギやお上にまで牙を剥く悪逆非道な凶徒に変わった。上部団体の義光一家は岡谷組を即座に絶縁処分。組長と舎弟頭がもはや一生シャバに出られぬ大罪を犯した以上、当時若頭だった彼が後始末をしなければならなかった。
土居は岡谷組の解散を宣言し、ヤクザ社会から足を洗った。だが、事件から半年後に何者かによって車で拉致され、殴る蹴るの激しい暴行を受けたうえ、鉈で両手の小指を切断された。全治六か月の重傷を負った彼は、妻の親戚を頼って札幌に移住した。すすきののクラブに黒服として雇われ、その後は東京に足を踏み入れずに暮らしてきたという。
歩美たちは突き当たりの新宿東宝ビルの前を左折し、歌舞伎町一番街へと向かった。かつてブライトネスビルと呼ばれた商業ビルが見えてくる。
ビルの外装やなかのテナントはあまり変わっていない。三階には新宿唯一のボウリング場があり、ゲームセンターやカラオケボックス、外国人観光客向けの日本料理店があった。同ビルの傍には、新しいシンボルの東急歌舞伎町タワーがそびえたっている。新しいランドマークが次々に登場するなか、旧ブライトネスビルは昭和のレトロな香りを漂わせている。
ブライトネスも杉若同様に無事では済まされなかった。一族の代表だった王心賢が殺害され、会社の大黒柱を失っただけでなく、メディアの格好のエサとなった。国会議員との黒い癒着だけでなく、王心賢による近藤雄也の謀殺疑惑、そして彼の出生の秘密までもが容赦なく暴かれた。引退していた王英輝や、副社長の王智文の自宅には記者やテレビクルーが詰めかけた。
ブライトネスは機能不全に陥った。業績は急激に悪化していき、事件の翌年には大手不動産企業に買収された。ブライトネスの守護者を自負していた不破が、皮肉にもこの会社の命脈を絶つことになったのだ。王英輝や王智文のふたりも事件による精神的なショックが大きく、会社を売却してからまもなくして世を去った。
旧ブライトネスビルへと入った。土居がエレベーターのボタンを押す。
「近藤さん、あなたのほうこそ大丈夫なのですか?」
「そうね……」
大丈夫とは言いかねた。エレベーターホールは外よりもひんやりと冷たく、雄也が運ばれた病院の霊安室を思わせた。
夫と息子にあのような形で先立たれ、とても生きてはいけないと長く絶望した時期もあった。極道を夫にしたというだけで、これほどの仕打ちを受けなければならないのかと。そして、新たに生きる気力が湧いたとき、不破があの事件を起こした。再び奈落に突き落とされた気がした。
王心賢が不破と同じ苦悩を抱えていたと知り、なにもわかっていなかった自分をひどく責めたものだった。
王心賢少年は両親の不仲に嫌気が差し、たびたび近藤家に逃げ込んでいたのだ。彼の凍てついた魂を溶かしてやれたら、みんな違った人生を歩めていたかもしれない。その思いは約二十年が経っても変わらない。
エレベーターで地下一階に降りた。フロアの隅には管理人室がある。土居が管理人室の鉄扉をノックした。
鉄扉が内側から開かれた。なかから出てきたのは灰色の頭髪をした五十絡みの大男だ。このビルに常駐している管理人で、作業服には金色の糸で社名と名前が記されていた。宇佐美と記されてあり、かつての不破の子分だとわかった。任海狼との抗争で逮捕されたなかに、そんな名前の組員がいたからだ。
「兄貴……ごぶさたしております」
「うん」
宇佐美と土居が抱擁を交わした。それを済ませると、宇佐美は直立不動の姿勢になり、深々と頭を下げて歩美に挨拶をした。彼女はうなずいてみせた。
宇佐美は折り畳み式のミニテーブルを抱えた。
「では、参りましょうか」
「勤務中なんでしょう。大丈夫なの?」
「問題ありません」
宇佐美はきっぱりと答え、管理人室の若いスタッフふたりに声をかけた。
「ちょっと頼むな」
「はい!」
ふたりは宇佐美に相当な敬意を払っているらしく、元気のいい返事をした。
歩美たちは管理人室から再びエレベーターへと向かった。土居が宇佐美を肘で突いた。
「ここじゃいい顔みたいだな」
「いろいろあって、ビルの管理会社に拾ってもらいました。まさか勤務先がここになるとはと、自分でも驚いたもんです。紺野の兄貴も呼びたかったんですが、どこにいるのかは結局わかんなくて」
「いいさ。あいつのことだ。元気にやってんだろう」
エレベーターで最上階へと向かった。
宇佐美が胸ポケットから一枚のカードを取り出した。彼は歩美に差しだす。
「これが例のものです」
歩美はカードを手に取った。紙製でかなりの年月が経っているらしく、角が擦り切れて丸くなり、グニャグニャに波打っている。
老眼がひどくなって細かな文字は読めない。しかし、血液型検査証明書だとわかった。血液型の項目には大きな字で“O型”とあった。
「ああ……」
歩美は思わず声を漏らした。かつて昭和に存在した暴力団御用達の病院名が書かれてある。ヤクザの頼み事をなんでも引き受ける悪徳病院だ。
不破の本当の血液型はB型だ。それは不破本人と近藤、それに歩美だけが知る秘密のはずだった。
それが今では世間に広く知られることとなった。事件後の法廷闘争で、検察側が不破の罪を追及するため、彼の出生の秘密も暴いたからだ。不破は父親が王大偉ではないと知りながら、王一族に近づき、長年にわたってブライトネスを食い物にした希代の悪漢だと指弾された。反社会的勢力との悪しきつながりを断とうとする王心賢を脅し、ついには凶行に及んだとも。
宇佐美が言った。
「自分はあのカチコミに参加させてもらえなかったので、せめて身に着けているものをとねだったんです。そうしたら不破がこれを。大事なお守りなんだと」
当の不破は裁判で一貫して、自分を王一族の守護者だと主張した。本当の父親はあくまで王大偉であり、己の血液型がB型であることさえ頑なに否定した。
エレベーターが最上階についた。土居と宇佐美の手を借りて、屋上へとつながる階段を上った。宇佐美が鍵を開けて、部外者の立ち入りを禁じている屋上に出た。
「うわ、こりゃ凄いな」
土居がぐるりと見回した。
ブライトネスビルは八階建ての建築物だった。建てられた当時はコマ劇場を見下ろすほどの高さを誇った。現在は東西を新宿東宝ビルと東急歌舞伎町タワーのふたつの高層ビルに挟まれている。それでも歌舞伎町のほとんどや新大久保のコリアンタウンが広々と見渡せた。かつて不破や王心賢も訪れた近藤家のマンションや、岡谷組の組事務所があったビルも見下ろせる。
屋上はきちんと清掃がなされていた。古いビルでコンクリートにはところどころにヒビが入っている箇所もあるが、雑草は一本も生えておらず、ゴミも落ちてはいない。
歩美たちは屋上の中央まで進んだ。宇佐美がミニテーブルを設置し、土居がショルダーバッグから写真立てと日本酒の四合瓶を取り出した。それらをミニテーブルのうえに並べる。
写真立てには紋付き袴姿の不破の写真が収まっていた。二代目組長の座に就いたころと思われた。アイパッチをつけた姿で微笑を浮かべている。
「これを使ってください」
土居がブリキ製の新品の灰皿を置いた。
歩美は灰皿のうえに血液型検査証明書を載せた。彼岸にいる不破に語りかける。
「もう不要よね」
宇佐美からライターを受け取り、血液型検査証明書に火をつけた。
「あなたはもう自由だから。縛めるものはなにもない」
歩美たちは手を合わせた。血のために牙を剥き、血に怯えた男のために祈る。
血液型検査証明書はあっという間に火に包まれ、黒い灰となって春風とともに歌舞伎町の空に散っていった。