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昭和六十二年



 昼の歌舞伎町は炭酸の抜けたコーラのようだった。
 ノーパン喫茶、のぞき部屋、ソープランド、裏ビデオ屋、ファッションヘルスなどがひしめき、昼間からけばけばしいネオン看板を光らせているものの、夏の強烈な陽光にさらされて勢いが削がれている。
「このあたりだ。停めてくれ」
 後部座席の近藤が命じた。
 近藤たちを乗せたベンツは区役所通りを南に走り、風林会館のある交差点を左に曲がっていた。運転手の土居がベンツを路肩に寄せて停車した。
 狭い道の両側には飲食店が入った雑居ビルがそそり立っているため、道路は一日中日陰に覆われている。路肩には酒屋やおしぼり業者のトラックが停まり、キャップ姿の配達人がプラスチックケースを担いでいる。
 助手席の不破が先に降り、あたりをチェックした。不審者の有無はもちろん、警察官や私服刑事がうろついていないかを確かめる。不破は今日も麻のスーツを着ていたが、その懐には小型拳銃のコルト・コブラを忍ばせていた。
 不審者も警察官もいないのを確かめてから、不破は後部ドアを開け放った。シルク生地のテーラードジャケットを着た近藤が降り立った。彼の手には和菓子店の紙袋があり、なかにはどら焼きと豆大福の詰め合わせが入っている。
 配達人たちが近藤や不破の姿に気づき、キャップを脱いで挨拶してきた。
 不破たちは雑居ビルのひとつに足を踏み入れた。スナックやバー、クラブといった業態の夜の飲食店が入っている。飲食店のうちのいくつかは台湾クラブや台湾バー、コリアンクラブだ。
 ここ数年の歌舞伎町は急速に国際色を帯びていた。台湾や韓国、東南アジアから来た若い女たちだ。観光ビザで来日した彼女たちは、これらの店で男性客と会話やカラオケを楽しみ、近くのラブホテルにしけこむのだ。
 店側はあくまで客同士の自由恋愛というていで商売しているが、売春を目的としているのは明々白々であり、地元ヤクザに納めるみかじめ料も高額になる。
 雑居ビルの四階にある台湾クラブ『にちげつたん』も、その手の店のひとつで、岡谷組が面倒を見ているところだった。通路に小さな袖看板を掲げているが、昼の一時とあって灯はともっていない。フロア全体がひっそりと静まり返っていた。
 近藤が『日月潭』のドアをノックすると、ややあってから店内で物音がした。不破はわずかに顎の筋肉を緩めた。緊張で無意識に奥歯を強く噛み締めていた。
 ロックが外れる音がし、おそるおそるといった調子でドアが開いた。近藤がドアの隙間からなかを覗く。
「兄弟」
 近藤がドアを開いて店内へと入りこんだ。不破も後に続く。
 店内はどこにでもあるスナックと同じ造りだ。さほど大きくはなく、八つのカウンター席とふたりがけのボックス席があるのみだ。
 台湾らしさを感じさせる調度品はとくに見当たらない。バックバーには甲類焼酎や国産ウイスキーの瓶が並び、カラオケ用のモニターが二台置いてあった。開店してから一年も経ってないはずだが、赤い別珍のソファやテーブルはだいぶ使い込まれていた。前の店の調度品をそのまま利用しているようだった。
 近藤が旧友の姿をまじまじと見つめた。日本語で話しかける。
「こいつは驚いた。えらくすっきりしたじゃないか」
「まあな」
 不破も右目を見開いた。
 石国豪は別人のようだった。九年前は腹にたっぷりと贅肉をつけて相撲取りのようだった。だが、その鎧のような脂肪が消えてなくなり、今は貧相と思えるほど痩せていた。ランニングシャツに短パンというラフな格好のおかげで、胸板の薄さや太腿の細さがより強調されている。皮膚が弾力性をなくして、首や顎の肌がたるんで見える。
 近藤が石国豪を抱擁しようと両腕を広げた。彼は軽く手をあげて旧友を待たせ、いたようにドアへ向かって施錠した。チェーンロックまでかける。
 旧友の焦りさえ感じさせる所作に、近藤も少なからず衝撃を受けたようだった。近藤の表情がわずかに強張る。
 不破たちが知る石国豪は、セキュリティなど気にする男ではなかった。かりに不意打ちを仕掛けられても、待ってましたとばかりにひねり潰すのを目論む根っからの人殺しだ。
 不破は目をこらした。別人のようなのではなく、石国豪の名を騙った偽者ではないのかと。しかし、いくら体重を急激に減らして、行動に変化があったとはいえ、これほど強烈な男を見間違うはずがない。
 近藤が石国豪を抱きしめた。彼の背中を軽く叩いた。
「会いたかったぜ。台湾へ行くたびにお前を捜した。高雄まで足を延ばしたこともある」
「それじゃ山ほど武勇伝を耳にしただろう。さんざん暴れてやったからな」
イーチン運動のことも聞いた。大変だったな」
「大したことじゃねえ。いつものことさ。腹が立っておまわりを一匹散弾銃で吹き飛ばしてやった。ダブルオーバックでな。肝臓やら大腸やらを道端に撒き散らしてピーピー泣いてやがった。あれは最高だった」
 石国豪は不敵な笑みを浮かべた。
 昔を彷彿とさせる凶暴な発言だったが、周囲への警戒ぶりを見せた今では迫力に欠ける。
 一清運動は一九八四年から一九八五年にかけて、中華民国政府が行った暴力団の粛清と組織犯罪規制を目的とした治安政策だ。
 その黒社会狩りは苛烈を極め、裏社会の大物たちが次々に投獄され、リウマンはちりぢりになって香港や日本へと逃亡した。この新宿だけでも数百人の台湾ヤクザが逃げこみ、こうした台湾クラブの女たちのヒモとなっている。
 高雄を地盤とする三山幇も例外ではなかったらしい。台北の組織との抗争を理由に、ボスが殺人教唆で逮捕されて三山幇も壊滅状態に陥った。石国豪も組織犯罪への関与を当局から疑われ、指名手配犯として郷里を追われる身となっていた。石国豪は高雄から香港へ逃れ、偽造パスポートでインドネシア系中国人になりすまし、日本への入国を果たした。
 ソファにはしわくちゃのタオルケットと枕があった。テーブルはアイスペールと冷水筒、それに吸い殻で山盛りになった灰皿や空き缶で支配されていた。石国豪はここで寝泊まりしていたようだ。
「適当に座れよ」
 石国豪に促された。不破たちはカウンターのスツールに腰をかけた。
 石国豪はカウンターのなかに入り、冷蔵庫から瓶ビールと烏龍茶の缶を手にした。バーテンのように三つのグラスに手際よく注ぐ。酒を飲まない石国豪は烏龍茶だった。
「再会を祝うとするか」
 三人はグラスをぶつけあった。石国豪が一息にグラスの烏龍茶を飲み干した。不破が缶を手にしてグラスに注いでやる。
 近藤がビールに口をつけてから言った。
「具合がだいぶ悪そうだな。医者に診てもらってるのか」
「おれはいつだって絶好調だぜ。ただのダイエットだよ」
「国豪」
 近藤が眉尻を下げて旧友を見つめた。石国豪が視線をそらして頭を掻いた。
「……糖尿だよ。甘いもんをたらふく食ってきたツケだ。ここがお前の縄張りシマなのは重々承知してたけどよ、兄弟分だからこそこんなみっともねえ姿を見せられなかったのさ」
「よく打ち明けてくれた」
 近藤がカウンター越しに石国豪の腕を叩いた。
 石国豪が節制などするはずがなかった。健康のために過食を控えろと忠告されても馬耳東風どころか、より一層菓子をたいらげてみせるような男だ。
 石国豪のようなヤクザはこれまでも腐るほど見て来た。己の欲望に忠実に従い、太く短く生きることをモットーとし、“飲む打つ買う”こそ男のたしなみだと固く信じるタイプだ。ヤクザの大半はそんな思想で生きている。
 好き放題に暴れた挙句に誰かに刺され、きれいさっぱりとこの世から退場すれば、ヤクザの生き様をまっとうしたとして評価されるだろうが、そう都合よく人はくたばれないものだ。
 浴びるように酒を飲んでは内臓を壊し、宵越しのカネも持っていないために治療費も払えない。脅しもハッタリも利かなくなり、みじめったらしく安アパートの万年床でくたばるか、落ちぶれた現実に耐え切れなくなってシャブに手を出し、仲間からも煙たがられて孤独にくすぶって生きるのが相場といえた。
 親分衆のなかには、健康を損なって行き腰をなくした仲間を多く目にし、自分の実力やカリスマ性を維持するため、ジョギングやゴルフに汗を流す者も少なくなかった。
 鞭馬会幹部の新井を思い出した。商品の覚せい剤に手を出し、一発逆転を狙って王英輝と代議士を美人局で嵌めようとした。最後は親分からも見放され、九年前に不破と石国豪の手によって始末された。
 この男の怪物じみた実力と唯我独尊の態度に怯んだものだが、こんな化け物でも絶頂期は長く続かず、やはりひとりの人間なのだと思わされる。
 かつての石国豪は水のようにコーラを飲み、異常な量の菓子を頬張っていた。今の彼が使っていたテーブルに菓子の包み紙はなく、空き缶はすべて無糖の烏龍茶だった。傍若無人に振る舞ってきたこの男でも、節度のない人生を送れば燃えかすのような姿をさらす羽目になるのだろう。
 この男はそんな運命とは無縁なのではないかと、この九年間をずっと警戒して過ごしていた。なにかあれば近藤の盾となり、長い懲役生活もいとわず、今度こそためらわずに殺害する。そう固く誓いながら生きてきた。とはいえ、まともに考えればこの男が暴飲暴食の果てに自滅するのは言わずもがなだった。
 一清運動でお尋ね者となり、国外へと脱出しても警戒を解かないあたりを見ると、他の台湾ヤクザからも相当な恨みを抱かれているのだろう。
 全身から力が抜けそうになる。いつか近藤や王一族に災厄をもたらすと過剰に反応し、来るべき再戦に備えて武道家のごとく鍛錬を積んだ。ただの杞憂と徒労に過ぎなかったのかと思うと虚しさにさえ襲われる。
 近藤が石国豪に訊いた。
「糖尿病の治療薬は持ってるのか?」
「そんなもんねえよ。大丈夫だろ。こうしてガラにもなく、好物のコーラも菓子も控えてんだ。血糖値だってちっとはよくなってるだろう」
 石国豪はグラスの烏龍茶を瞬く間に空けた。
 再び冷蔵庫のドアを開けて、烏龍茶の缶をふたつ取り出した。缶のプルタブを引っ張るさい、彼はいまいましそうに顔をしかめた。不破はそれを見逃さなかった。
 組長の岡谷を始めとして、義光一家の親分衆の何人かは同じ病に苦しんでいる。それだけに石国豪の口ぶりとは裏腹に、病の深刻さがわかった。
 プルタブを引くのにも苦労するのは、糖尿病神経障害で手足の先がしびれるように痛むからだろう。喉がやたらと渇き、水分をたくさん摂取しようとする。急激に体重が減っていくこと自体、病が重症であるのを示している。
 石国豪が近藤の隣のスツールを顎で差した。スツールのうえには和菓子屋の紙袋がある。
「そいつはおれへの土産だよな」
「別のにすればよかったな」
「そいつでいい。ちょうど腹が減ってた」
「そりゃかまわないが……」
 近藤がカウンターに菓子箱を置くと、石国豪はすかさずフタを開けた。どら焼きの包みを開けてかぶりつくと、烏龍茶でそれを流し込んだ。その意地汚い食べ方はいかにもこの男らしかった。
 近藤が切り出した。
「うちの客分として来てくれないか。ここのソファよりも寝心地のいいベッドもあれば、顎でこきつかえる若い衆も用意する。きちんとした医者に診てもらったうえで静養したほうがいい。岡谷組の庇護下にあるとわかれば、このへんをうろつく流氓もおいそれと手出しはできない」
「考えておくよ」
「兄弟、お前は岡谷組にとって大切な功労者だ。お前が身体を張ってくれたおかげで、おれたちは肩で風を切ってここを歩ける。世話させてくれねえか」
 不破もスツールから降りて頭を下げた。
「私からもお願いします」
 この男が新宿に現れたと知り、ゴジラの襲来のようにうろたえたものだった。
 久々に姿を見せた石国豪は、ゴジラどころか憐れな病人でしかない。糖尿病の諸症状に苦しめられてもなお自分を制御できずにいる。柄にもなく烏龍茶など飲んでいるが、欲望を抑え切れずにいるのは明らかだ。彼は早くも二個目のどら焼きに手を伸ばしていた。寿命もそう長くはないだろう。

 

(つづく)