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8(承前)


 シーグオハオはラブホテルを珍しそうに眺めまわした。
「いいねえ、いいねえ。スケベな匂いが漂ってきやがる」
「もうすぐです」
 不破たちは職安通りに差しかかった。
 通りの向こう側は歌舞伎町二丁目だ。バーやナイトクラブ、風俗店のネオンが輝いており、今日も変わらずいかがわしい雰囲気に包まれている。
 信号待ちをしている間、石国豪がタバコをくわえた。不破はライターで火をつけてやる。
 石国豪が煙を深々と吐いた。
「それにしても、つまらん野郎になったもんだ」
「は?」
「近藤だよ。つまらんやつになった」
 不破はゆっくりと呼吸をした。
 隠忍自重せよと己に言い聞かせたばかりだというのに、危うく殴りかかるところだった。
 この男は岡谷組に雇われたフリをしながら、どこかよその組織からも依頼を受けて因縁をふっかけに来たのではないか。かつての新井のように揉め事を起こしたがっているか、もしくは近藤の成功をねたんでいるだけなのか。冷静に考える必要がある。
「どうつまらないって言うんです?」
 不破は他人事のように尋ねてみた。この野蛮人の腹を探らなきゃならない。
 計画はもう仕上げの段階に入っていた。組長の岡谷が惜しみなくカネを撒いて情報収集を行い、黒幕である新井の現況を調べさせた。
 新宿署の尾崎によれば、現在も新宿駅南口の古い安宿を根城にし、売春や覚せい剤をシノギとしているという。
 岡谷組は付近の商人宿や簡易宿泊所に準構成員を潜伏させ、新井の根城を見張らせている。見張りたちによれば、数人の舎弟に売春を仕切らせ、新井は安宿にほとんど籠ったきりらしい。扱っている商品、、は、他店で採用を見送られた年増やブスばかりで、そんなのを集め、細々と食っているとの話だった。
 岡谷自身も新宿の顔役たちと次々に会談。鞭馬会の上部団体である錦城連合の親分衆とも会って根回しを進めているという。
 今の時代、どこの組織もドンパチなどしたがらないのが実情だ。関西や沖縄あたりではマスコミが喜びそうな激しい抗争が絶えないものの、利権が大きい首都圏では共存共栄が暗黙の了解となっている。かりにいざこざが起きれば、トップ同士での話し合いで解決を図る。
 石国豪は吸いかけのタバコを指で弾いた。車道まで飛んだタバコは行き交う車のタイヤに踏みにじられた。
「だってそうだろう。東京の繁華街をひとつ手にしただけで、もう腹いっぱいってツラだ。マンションなんて西洋長屋で、ガキと妻とこぢんまりとした幸せを掴んでやがった。が出そうだ。およそヤクザというより、そのへんのサラリーマンと同じだ。そう思わんかね」
「おれの口からはなんとも……」
「昔のあいつは違った。飢え切った狼だったよ。軍隊なんかに放り込んだ父親を憎んで、上官だろうが先輩だろうが、コケにするやつは片っ端から殴りかかっていた。おれは期待したね。こいつは故郷クニに帰ったら、日本中を火の海にするような戦争を起こすだろうなってな。ところがそうはならなかった。親父を始末して会社を乗っ取るわけでもねえ。ヤクザとして日本をまるまる征服するわけでもねえ。ただただ妾腹として分をわきまえて、警察にも気を配った挙句、ひとつの繁華街を手にしただけで満腹になった。小便みてえな人生だ」
 石国豪は急に横断歩道を歩きだした。目の前の信号はまだ赤だというのに。
「あんた、なにを――」
 不破が止めに入ったが、石国豪は歩み続けた。
 夜の職安通りはタクシーや自家用車が激しく行き交っている。車が次々と急ブレーキをかけ、石国豪にぶつかる寸前でタクシーが停まった。タイヤの焦げた臭いが鼻に届き、運転手が顔を凍りつかせる。
 石国豪は構わずにゆうゆうと横断歩道を渡り続けた。その後もタイヤのスキール音が鳴り、対向車線を走っていたトラックも急停止をし、運転手がクラクションを何度も鳴らした。鼓膜が痛くなるほどの騒音に包まれるなか、石国豪は早く来るよう不破を手招きする。
 不破は車が停止している間に横断歩道を走り抜けた。トラックやタクシーの運転手が窓を開けて怒鳴り声をあげる。
 不破は職安通りを渡り終えた石国豪に追いつく。
「なにを考えてるんです! 危うくはね飛ばされるところだった」
 石国豪は薄笑いを浮かべるだけだった。彼は股間に手をやった。
「待ってられるか。おれは一刻も早くやりたい」
「物見遊山で来たわけじゃないでしょう。大事な仕事だって控えてる。自重してくれ」
「仕事はきっちりやるさ。るのも好きだからな。今は女だ。さっさと案内しろ」
「言われなくともそうする」
 不破は歩道を早足で歩んだ。石国豪の言うとおり風呂、、屋に押し込んでおさらばしたい。
「お前、近藤の女房に惚れてるだろう。人生は短い。稼業人だったらなおさらだ。モタモタしてたら食べごろを逃すぞ」
「てめえ――」
 不破は振り返って右拳を放った。
 脳が急停止を呼びかけた。さっきのタクシーのように。
 しかし、パンチは止まってくれなかった。拳が石国豪の顔面を貫く勢いで突き出される。
 肉を打つ音が鳴った。石国豪が左の掌で平然と拳を受け止めていた。彼の掌はグローブのように分厚い。
「その調子だ。殴りたいやつは殴る。食いたいものは食う。抱きたい女は抱く。それでヤクザやってんじゃねえのか」
 不破は息を呑んだ。この男は危険だと。王一族の一員となってから、鍛錬を積んで拳を磨いてきた。今ではそこいらのボクサー崩れよりもパンチは速く、カラテ映画の影響でコンクリートブロックをも打ち砕いた。それを簡単にふせがれたのだ。
「それで店はどこなんだよ。モタモタしてるとお前にぶちこんじゃうぞ」
 石国豪は笑みを浮かべて不破の胸を押した。
 認識を改めなければならなかった。この男は旧友の成功に嫉妬しているのではない。虚勢を張るために無礼な言動を繰り返しているのでもない。ただ欲望に驚くほど忠実なだけで、そのためなら掟も倫理もお構いなしなだけなのだ。
 この男は要注意だ。肌が粟立つのを感じながら、不破は歌舞伎町の路地へと入った。





 夜の新宿四丁目は歌舞伎町と違って静かだった。甲州街道を行き交う車の走行音が耳障りだった。
 国鉄新宿駅の東口方面は日本最大の盛り場を形成し、西口方面はニューヨークの摩天楼を思わせる超高層ビルが次々に建てられ、大規模なオフィス街になりつつある。
 それに比べると新宿駅南口の傍に位置するこの付近は、だいぶ開発が遅れているようで、労働者向けの簡易宿泊所や商人宿、ユースホステルが並んでいる。
 昔ながらの大衆食堂や質屋などがあるものの、この時間帯はどこも灯を落として閉店している。朝が早い地域でもあるため、その分寝静まる時間も早々に訪れる。
 新井の売春宿も同じだった。旅館街の端に位置している二階建ての木造家屋で、かつては『あさひ荘』という名の商人宿だったらしい。経営者が鞭馬会の賭場で全財産を失い、借金のカタとして新井の手に落ちて以来、売春宿へと生まれ変わったのだ。
 客のほとんどが早朝に起き、その日の仕事を探す日雇い労働者であるため、夜十時には営業を終えてしまう。今夜は冷たい秋雨も降っていて客足は鈍く、夜九時半を過ぎたところで門柱の傍に立っていた見張りシキテンも仕事を終え、なかに引っ込んだという。売春宿を見張っている者たちから報告があった。
 不破たちを乗せたカローラバンがやって来たころには、仕事を終えた売春婦が、傘を差して新宿駅へとめいめい帰宅の途についていた。なかには行く当てのない女もいるらしく、この宿に住みこみで働く女もいるという。
 売春宿の斜め向かいは製材所の倉庫だ。新宿貨物駅が傍にあり、新宿四丁目とその南に位置する千駄ヶ谷六丁目は、建設会社の資材置場や運送会社の配送センターなどが立ち並ぶ倉庫街でもある。
 近藤が車を倉庫のシャッターの前で停めた。後部座席にいた不破は売春宿に目を向けた。敷地は板塀でぐるりと囲まれており、古めかしい木造家屋の窓という窓はベニヤ板でふさがれていた。外から屋内の様子はうかがえない。
 門柱に掲げられた看板には未だに『あさひ荘』と記されたままで、そこから灯りが漏れていた。従業員の男たちはまだ誰ひとりとして帰っておらず、翌朝まで麻雀や花札に興じるのが常だという。一日の商売を終えた後も、チンピラが何度も外に出て、近くの自動販売機で酒やタバコを買いに行かされていた。
 後部座席の不破は作業服の胸ポケットからE判の写真を取り出した。
 写っているのは今回の元凶である新井だ。このあたりをブラついている姿が収められていた。ここを見張る岡谷組関係者が一昨日撮ったものだ。
 写真の新井は昔と変わらぬ格好だった。蛇革の靴に黒いワイシャツ、それにサングラスをかけていた。
 いかにもヤクザ者らしい姿だったが、昔と違ってすっかり痩せ細っていた。健康的な痩せ方とは言い難く、顔はやつれて頬骨が浮き出ており、口の周りは無精ひげで覆われていた。監視者たちによれば、この三日間で外出したのはこの一度だけだったという。商品の覚せい剤に手を出している可能性が高かった。
 新井の姿を目に焼きつけた。かつては近藤のライバルとも目され、新宿では知られた顔だったと言われているが、もはやそれは遠い昔の話だった。こんなくすぶりヤクザごときが、無謀にも王一族と岡谷組にケンカを吹っかけてきたのだ。
 覚せい剤をやるとスーパーマンになったような万能感に包まれる。岡谷組では覚せい剤を外道のシノギとして、密売に携わるのを禁止するだけでなく、所持するだけでも厳しく処分していた。
 それでも誘惑に負けて注射針を己の腕に刺す者は後を絶たなかった。クスリの虜となって妻子を飢えさせるだけでなく、覚せい剤を止めさせようと奔走した兄貴分を逆恨みし、包丁で刺した組員がいた。
 新井も破滅の道を突き進んだ。クスリのせいで身の程をわきまえぬ愚行に出たとしか思えない。不破は写真をクシャクシャに握りつぶした。
 不破の隣には同じく黒の作業服に身を包んだ石国豪がいた。敵の城まで来たというのに、彼はドアにもたれたままいびきを掻いて眠っている。


※本作には「妾腹」など、現在では不適切とされている用語・表現が使用されていますが、作品の時代性を鑑みてそのままにしております。

 

(つづく)