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横須賀の借家に着いたときには、夜中の十一時を回っていた。
もっと早い時間に訪れるつもりだったが、義光一家の定例会に加えて、船橋市にある天仁会系の最高顧問が急死したため、通夜に参列しなければならなくなった。
借家は久里浜海岸に近い閑静な住宅街にあり、この時間帯はひっそりと静まり返っていた。借家の前にベントレーを停め、護衛の紺野とともに車から降りた。海辺とあって潮の香りが鼻に届く。いささか風が強いため、波の音がことさら大きく感じられる。
家は王英輝のために借りたもので、3LDKの二階建ての一軒家だった。築年数こそ経ってはいるが、リフォームされたばかりで洒落たカフェのような造りだ。
玄関の呼び鈴を押す前に、ジャージ姿の塩屋がドアを開けて声を張り上げた。
「お疲れさまです!」
紺野がすかさず塩屋の頭を叩いた。
「場所考えろ。歌舞伎町じゃねえんだぞ」
「あ……すみません」
塩屋はズレたメガネのフレームを直して謝った。不破は二階を指して塩屋に訊いた。
「王英輝はまだ起きてるか」
「起きてらっしゃいます。最近は早寝早起きの生活をしてますが、今夜は不破が来るからと」
「ご苦労さん」
不破は塩屋の頭をなでて家に入った。塩屋と紺野に命じる。
「お前らはゲームでもして待ってろ」
「よっしゃ。『バーチャ』やろうぜ。腕磨いてきたからよ」
紺野が塩屋の尻を叩いた。塩屋は嫌そうに顔をしかめた。
「相手してあげてもいいですけど、紺野は負けがこむとリアルに殴ってくるじゃないですか」
「んなことしねえよ。準備しろ、準備」
塩屋がテレビの前に置かれたセガサターンの電源を入れた。彼は岡谷組の新人組員で、ヤクザになったくせに博奕を好まぬ変わり種だった。いわゆるオタクというやつで、アニメやゲーム、インターネットを好む今時の若者だ。
少年時代は学校でクラスメイトから根暗と相当コケにされたらしく、いじめっ子の頸動脈をカッターナイフで切断して殺害した経歴があった。暴走やケンカで鬱憤を晴らした不良少年と毛色こそ違うものの、部屋住み修行に耐え抜いて礼儀作法をきちんと学んだ。なにより博奕に興味がないため、ギャンブル依存症の王英輝の世話役に抜擢された。
不破は台所の冷蔵庫のドアを開けた。缶ビールをふたつ手にして二階に上がった。扉をノックして室内に入った。
「遅くなってすまない、兄さん」
「なにを言う。はるばるすまないな」
王英輝の部屋は八畳の和室だった。不破は右目をすばやく走らせた。
室内は整然としていた。脱ぎっぱなしの衣服はなく、酒瓶も転がってはいない。ヘビースモーカーだったはずだが、タバコの臭いもしなければ、座卓には灰皿すら置かれていない。彼は缶の烏龍茶を口にしながら、なにか書類を書いていた。その手を止めてボールペンを置く。
王英輝が博奕にどっぷり浸かっていたころ、彼の西新宿にあるマンションの部屋は惨憺たる有様だった。部屋は酒の空き缶とペットボトルでゴミ溜めと化し、ろくに足の踏み場もなかったほどだ。王英輝本人も頭髪やひげを伸ばしっぱなしにし、風呂にもほとんど入っていなかったため悪臭を漂わせていた。バブル崩壊の生きた象徴とさえいえた。
現在の王英輝は社長時代を思わせるほど回復したようだ。きちんと散髪をし、ヒゲもきれいに剃っている。近くにある医療センターにも定期的に通って依存症の治療を受け、今では海岸でジョギングもしているらしく体も締まってきていた。いつもは就寝の時間らしいが、ノリの利いたワイシャツを着用し、ビジネス向けの濃紺のスラックスを穿いていた。
不破は座卓の前に腰を下ろした。座卓のうえに缶ビールを置く。
「ふだんはもう寝る時間だと聞いてた」
「パジャマで出迎えるわけにはいかんからな」
王英輝は使っていた座布団を脇にどかした。
改まった様子で畳のうえに正座し、不破に向かって深々と土下座をした。
「隆次……いや、二代目。今回は大変世話になった。今のおれには頭を下げることしかできない。本当に感謝している」
「兄さん、頭を上げてくれ。おれはほんの恩返しをしたかっただけだ。弟として当然のことをしたまでさ」
不破は王英輝の傍に寄って、彼の肩と腕を掴んだ。王英輝はなかなか頭を上げようとせず、しばらく額を畳につけ続けた。
「感謝だけじゃない。おれは謝罪しなけりゃならないんだ。覚えているか? お前が初めてうちを訪れたときのことを。どこのガキかもわからないと罵って、おれはお前の頬を引っ叩いて追い出そうとした。それなのにお前はおれを何度も助けてくれた。間抜けな美人局に引っかかったときも、こうして博奕にどっぷり浸かったときも」
「家族を助けるのは当然のことじゃないか。それに昔のことはよく覚えていない」
不破はとぼけて続けた。
「おれを弟としてなにくれと目をかけてくれたし、バブルのときは大儲けさせてもらった。世話になったのはお互いさまさ。若い者から聞いてはいたが、だいぶ元気になったみたいで安心したよ。乾杯しよう」
不破は缶ビールを手にした。王英輝は軽く手を振った。
「止めたんだ。タバコだけじゃなくてな」
「そうなのか。健康に気を遣うのはいいが、極端にやりすぎると心が持たない」
王大偉の息子たちは全員酒好きだった。とくに王英輝と智文は、ヤクザの弟たちよりも飲酒を好んだ。社長室の陳列棚に高級酒をずらりと並べ、仕事が深夜に及んだときなどはブランデーを引っかけながら仕事に打ち込んだ。バブルのころはハブ酒やマムシ酒を取り寄せ、栄養ドリンクのごとく愛飲していたほどだ。
「無理はしていない。無理をしていたのは今までのほうだ。これからは気楽にやらせてもらうさ」
王英輝は座卓の書類を指し示した。それは彼自身の履歴書だった。
「こいつは……」
「見てのとおり履歴書だ。職に就くために書いてる。医療センターで知り合ったんだ。ここらで植木屋をしている同年代のおっさんでな。酒での失敗が多くて減酒治療のために通っていた。何度か顔を合わせてるうちに意気投合した。人手が足りないというから、働かせてもらえないかと頼んでみたんだ」
「兄さんが植木屋って……経験なんてないだろう」
「先方はなくてもいいと言ってくれた。だからジョギングして体力を養ってる」
「兄さんは今もブライトネスの相談役だ。あの王英輝が植木屋だなんて。冗談だろう。また働きたいのなら、兄さんにふさわしい仕事を探す。自分で会社を興すのだっていい。おれが出資させてもらうし、他にも出資者を募ってみる。バブルで大火傷を負ったとはいえ、王英輝の手腕を評価している実業家はいくらでもいる」
王英輝は首を横に振った。
「そうじゃない。もうしまいたいんだ。“ブライトネスの王英輝”って看板を」
「えっ?」
「おれ自身、この世に生を享けてからずっとそれを背負い続けてきた。そのおかげでだいぶ無茶をしてきたし、周りにもひどい迷惑をかけまくった。王大偉のボンボン息子などとは絶対に言わせまい。一族を率いる統領として会社をもっと大きくしてみせるとな」
王英輝は烏龍茶を口にした。深いため息とともに続けた。
「そのためには惚れてもいない女との結婚もいとわなかった。土地が莫大な利益を生み出すとわかれば、法をも無視して土地の買収に明け暮れた。バブルが弾けて巨額の負債を背負っても、おれはまだ負けを認められなかった。先見性のある倅に対抗心を燃やし、再び事業を興そうとみっともなく悪あがきした。なぜならおれは王英輝なんだからとな。失敗をしたのなら汚名返上するのが、一族の王たる役割だと、王大偉からもそう教わった。それ以外の生き方を知らなかったんだ」
「そうだったのか」
王英輝は不破にとって羨望の対象だった。王大偉の嫡男として生まれ、私立の名門校で青春を過ごし、アメリカの大学にも留学した。父親から目をかけられて英才教育を受け、上流階級の貴公子として育てられた。みじめな地方回りをしながら、“淫売の息子”などと罵詈雑言を浴びせられた不破とはあまりに対照的な人生を送ってきた。
「お前に救われてようやく悟った。おれはドン・コルレオーネじゃないんだと。もう“王一族の王英輝”ではなく、還暦を過ぎた一介の老人として過ごしてみようとな。そう考えたら急に気が楽になってな。これまでは寝るのに何杯もの酒や薬が必要だったが、今はシラフで眠りにつける。今のブライトネスがおれを必要としているとは思えんし、己の見栄や自尊心のために事業をやれば必ずヘタを打つ。この選択を認めてくれないだろうか」
「認めるもなにも。おれが願ってるのは兄さんの幸福だ。じっくり聞いてみると、案外悪くないように思えてきた」
不破は微笑を浮かべてみせた。
王英輝の決断は理解できた。不破も組長となってトップの孤独や重責を嫌でも思い知らされている。近藤が生きていたころは、彼の指示に黙って従うだけでよかったのだ。ブライトネスグループを引っ張っていくには、プレッシャーを物ともしない鋼の精神力を維持し続けなければならなかったのだろう。そのために気張ってきたのだ。
その一方で、ひどく贅沢な悩みにも思えた。王英輝が退位したがっているころ、不破は己の血が偽物だと発覚するのを恐れ、隠蔽工作のために岡谷を脅した。自分が妾腹でロクな教育も受けていない以上、王一族の統領にはなれなくとも、全員から一目置かれる存在になるために汚れ仕事に手を染めた。
暴対法のお陰であからさまなブライトネスとのつきあいは控えなければならないが、王心賢や近藤雄也といったかわいい甥っ子たちを陰から支えてやりたかった。岡谷組を継いだからには、それをできる実力もますますついた。退くことなどありえない。この兄のようにはなれないとは思う。
不破は缶ビールのプルタブを開けた。
「新しい門出を祝うよ」
「すまない。息子たちを頼む」
王英輝は缶の烏龍茶を掲げた。缶ビールを軽くぶつけた。兄の宗旨替えには驚かされたが、彼が健康を取り戻してくれればそれでよかった。
ビールをひと口飲んだところで、ポケットの携帯電話が鳴った。取り出して液晶画面を見やる。舎弟頭の南場からだった。
「どうしたんだ、兄弟」
南場はなかなか口を開こうとしなかった。電波が弱くて通話がままならないのかと訝っているとき、彼の声が不破の耳に届いた。
〈二代目、落ち着いて聞いてほしい〉
「なにがあった」
南場の重く沈んだ声を耳にし、緊急事態の発生を覚悟した。身体が金縛りに遭ったかのように強張る。
「早く言え。どうしたってんだ」
〈近藤の息子が……雄也が刺されて死んだ。たった今、新宿署から連絡があった〉