昭和四十五年




 十五歳の不破少年は夜の国鉄新宿駅東口を出た。
 駅員の話によれば、歌舞伎町は新宿駅から徒歩で五分ほどかかるという。西武新宿駅のほうを目指せばいいと教えられた。
「うわ……」
 不破少年は空を見上げた。
 真冬の太陽は早々に没したというのに、街は明るさを失ってはいなかった。
二幸にこう』と記されたビルには、新春大売り出しと大きく記された巨大な垂れ幕が下がり、隣には『東芝カラーテレビ』の看板が光り輝いていた。看板の下には時計が設置されてあり、もう夜の九時を過ぎていることを知らせていた。
 西のほうに目をやると、軍艦のような巨大なデパートが駅の傍に立っている。その後ろには、まるで天にまで届きそうな建設中のビルがある。
 不破少年は圧倒された。母はかつてこんなところで生活していたのかと。
 母は新宿についてよく話してくれた。大きなマーケットに加えて、劇場やパチンコ店といった娯楽施設がいくつもあり、いつも大勢の人で賑わっていたという。
 不破少年が過ごしてきた地方の歓楽街も、温泉宿の浴衣を着た団体客や地元の酔っ払いで溢れかえっていた。ある程度の覚悟はしていたものの、想像以上の活気とエネルギーに目を見張るしかなかった。
 不破少年は咳払いをした。東京駅を降りたときから喉の調子がおかしく、右目がなにやらチカチカと痛む。空気がだいぶ悪いようだ。街全体がコンクリートで覆われていて、目の前の大通りを、トラックや乗用車が間断なく走っている。タバコの煙と排気ガスが、冬の乾燥した空気と混ざり合い、肺のなかに押し寄せてくる。
 不破少年は深呼吸をした。健康にはよくないだろうが、汚れた空気は決して嫌いではない。むしろ、稲わらや土の臭いのほうが憎らしかった。肥溜めに突き落とされた屈辱や、左目に当たった石礫の痛みを思い出させるからだ。この街に来るのが、かねてから不破少年の夢でもあった。
 手にしていた風呂敷包みの結び目が緩みそうになった。駅前広場の芝生がある一角に移動する。そこはグリーンハウスなどと言われているらしく、流行に敏感な若者が集まる場所だという。小屋で若い漫才師が読んでいた『平凡パンチ』に書いてあった。
 グリーンハウスは“フーテン”と呼ばれる風来坊でいっぱいだった。ある者は段ボールに包まり、ある者はビニール袋を口に当てている。シンナーの甘ったるい臭いが鼻に届く。
 風来坊たちは髪もヒゲも伸びっぱなしだ。風呂にはろくに入っていないようで、汚れた雑巾みたいな悪臭もする。自分がいた田舎町でこんな格好でいれば、まず間違いなく異物として扱われ、惨いイジメに遭うだろう。
 彼らは寒さに身を縮めてはいるが、周りを警戒する様子は見られず、みんな伸び伸びと過ごしている。むしろ、学帽に学生服姿の不破少年のほうが異質なようだったが、不破少年に関心を抱く者はとくに見当たらず、シンナーや安ウイスキーでその場をしのいでいる。お世辞にも清潔とはいえないが、それぞれ自由を謳歌しているように見える。
 不破少年は芝生の隅に膝をついてひと息ついた。溜まりに溜まっていた疲労が、身体に重くのしかかってはいたが、ここからが大事なのだと気合を入れなおす。
 本来なら昼のうちにつく予定だった。山形の温泉地を早朝に発って、東京まで鈍行列車に乗ってやって来た。大雪と風の影響で福島県の県境で列車が四時間もストップし、ずっと車両内に十三時間以上も固いシートのうえで過ごしたため、背中や腰の筋肉がひどく強ばっている。
 ――あの人はきっとあなたを大事にしてくれる。だって、あなたは父親にそっくりだもの。
 母の声がふいによみがえる。
 母はずっと不破少年を父親に会わせたがっていた。息を引き取る最期の最期まで不破少年の身を案じていた。天国にいる母を安心させたかった。
「学生さん」
 後ろから声をかけられた。割れ鐘のような太くて濁った声だ。不破少年は振り返った。
 鳥打ち帽をかぶった中年男が咥えタバコで笑っていた。着古した革のジャケットを着て、黄色いレンズのメガネをかけている。
「学生さん、あんたどこから出て来た」
「……すぐ近くだげんど」
「嘘言っちゃいけねえよ。すごい訛りじゃねえの。東北あたりの金の卵か?」
「どうだべ」
 不破少年は言葉を濁してごまかした。いかにも怪しい風体の男相手に、バカ正直に答える必要はない。早く歌舞伎町に向かわなければならない。
「金の卵だったらこんな時間にひとりでいるはずねえわな。行くところねえんだろう? 寝床を紹介してやるぜ」
 中年男の言葉を無視して芝生から立ち上がった。シンナー遊びをしていた集団が『黒ネコのタンゴ』をがなるように歌う。
 不破少年はアタッシェケースのハンドルと風呂敷をきつく握り締めた。自由に満ちた場所であれば、それだけ危険を伴うことを意味していた。
 母と一緒にあちこち旅をした。そのなかには、目の前にいる中年男のような怪しげな手配師に騙され、ひどいピンハネをされた時期もあった。
 グリーンハウスを後にしても、中年男はしつこくつきまとってきた。
「なあ、話くらい聞きなよ。そんな学生セイガク丸出しの恰好じゃ、警察官マツポに捕まるのがオチだぜ。いい眼医者も紹介してやるよ」
 中年男がニヤつきながら不破少年の左目を指さした。
 不破少年の頭がふいに熱くなった。眼帯で隠している左目に不躾に触れられると、頭が怒りでカッと熱くなる。
「うっせえな。しつけえでねえが」
 不破少年は中年男を睨んだ。
「なんだあ?」
 中年男の顔から笑みが消え、不破少年の胸ぐらを掴んだ。
「おい、田舎っぺ! 人様が親切にしてやりゃ図に乗りやがって。その態度はなんだ」
「しつけえからしつけえって言っただけだべ。だったら、言ってやっず。おれは田舎っぺの家出少年なんかでねえ。誰かカモにしてえんなら他をあたってけろや」
 不破少年は気長な性格ではない。それこそ田舎のガキどもに目を潰されてからは、拳で対抗する術を身につけた。普段ならとっくに中年男に鉄拳を叩きこんでいただろう。
 しかし、両手は風呂敷包みとアタッシェケースで塞がれている。そこには不破少年のすべてが入っている。中年男を相手にしている間に、荷物をかっさらわれては目も当てられない。
 中年男に身体を引っ張られた。
「ちょっと来い。大人をからかうとどんな目に遭うのか、この街のルールってやつを教えてやる」
「その必要はねえ。おれはこの街を仕切る王の息子だず」
 中年男は虚を衝かれたようにポカンと口を開けた。短くなったタバコが落ちる。そして腹を抱えて笑い出した。
 ふたりの周りには、信号待ちの人だらけだった。それまで無関心を装っていたが、不破少年の発言が気になったのか、一斉に視線を彼に向ける。
「んだが、んだが。王様の息子だったのがっす。それは大変失礼したっぺ」
 中年男はなおも笑いながら、不破少年の訛りを真似た。なおもおどけた調子で一本足打法のフリをする。
「王は王でも、王貞治の隠し子でねえよな。若様」
 信号待ちの人々の間で笑い声が起きる。不破少年は真顔で答えた。
「そうでねえ。実業家の王だべ。王大偉おうたいいって人だ」
「王大偉だあ?」
 中年男の大笑いがぴたりと止まった。信号が青になり、やじ馬と化した人々が一斉に歩き去る。
 中年男は不破少年を吟味するかのように見回す。彼はやはり母の言葉に間違いはなかったと確信した。王大偉がこの街の顔役であり、とりわけ歌舞伎町の王として君臨しているのだと。
 売女の息子、淫売の倅。母との旅暮らしでは、何千回と悪罵された。母は売女ではなかった。そして父親は由緒ある血を引く大実業家であり、己もまたその血統を受け継いでいると言い聞かせてきた。それを支えに、今日まで生きてきたのだ。
 中年男が顎をなで回した。
「王大偉の息子さんね……」
「そうとわかったら、もう構わねえでけろず。あんたのこどは忘れてやっがらよ」
「そいつは光栄の至りだ」
 中年男は言うやいなや、不破少年の顔面を殴りつけた。
 鼻に拳がまともに当たった。目の前を火花が散り、鼻の奥が熱くなる。顔の下半分が生温かい液体で濡れ、口のなかが生臭い金属の味がした。
 不破少年は前のめりに倒れかけた。地面に血がしたたり落ち、鼻血を流しているのだと気づく。一張羅の学生服まで血に濡れる。
「なにすんだ」
「おめえが王大偉の息子なら、おれはファイティング原田だってんだよ。ふざけやがって」
 中年男に脳天を殴りつけられた。不破少年は片膝をつく。
「王大偉の名前なんぞどこで覚えたのか知らねえが、田舎っぺのクソガキが吹かすんじゃねえ。今度会ったら承知しねえぞ」
 中年男は忌々しそうに唾を吐き、その場から去っていった。

 

(つづく)