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3(承前)

 昭和三十年に入ってから歌舞伎町は急激な発展を遂げた。映画といった娯楽産業の盛り上がりもあって、王大偉の会社は一転して驚異的な売上を誇った。十二歳の近藤はもっと高度な教育を受けたいと、名門私立中学への進学を両親に訴えたが、その願いもすげなく却下された。腹違いの兄ふたりとは、決して同じ道を歩ませてもらえないのだと理解した。
 近藤は実業家の夢を捨てた。中学校にも行かずに渋谷の巨大愚連隊であるとう組こと『渋谷興業』に属した。組織のトップは矢頭のぼるといい、のちに債権回収の件をめぐって大物財界人とトラブルとなり、そいつに銃弾を浴びせて世間を驚愕させた。現在は映画スターとなって活躍している人物だ。
『渋谷興業』は従来のヤクザ組織とは異なり、背広の着用が推奨された。その流行の最先端を行く方針が、不良学生や若者たちから絶大な支持を集めていたのだという。
 近藤は同社でお茶汲みをしながら、幹部たちからケンカの作法や修羅場のくぐり抜け方を学んだ。挫折感を怒りに変えて無軌道なケンカを繰り返し、シャバと教護院を行き来する青春を送った。愚連隊やヤクザとの抗争に明け暮れ、ついには父親と昵懇の仲にあった岡谷健吉率いる岡谷組にまでケンカを売った。
 渋谷に一大勢力を築いた『渋谷興業』だったが、トップの矢頭は大物財界人を撃った罪で長期刑を言い渡されて収監された。六本木の博徒系組織や任侠右翼にも狙われ、警察組織の集中攻撃にも遭って衰退の一途をたどった。
 近藤は子分の裏切りに遭い、岡谷組に捕まって激しい拷問を受けた。息子がリンチを受けていると知った王大偉は、組長の岡谷に頭を下げて助命を嘆願した。
 王大偉は近藤を引き取って自宅で看病した。都内には近藤の命を狙う者が多くいたため、彼のケガが癒えると国民党とのコネを使って台湾に逃がした。台湾陸軍で一年間兵役に就かせ、ほとぼりが冷めるのを待ってから帰国させた。
 矢頭組が解散したのを機に、近藤は王大偉と岡谷健吉に詫びを入れた。裏から王国を支えると誓い、岡谷と盃を交わして子分になったのだという。
 南場や徳山の話がどこまで本当なのかはわからない。ふたりも近藤から直に聞いたわけではなかったからだ。岡谷組の古株組員や噂好きなキャバレーの従業員から耳にしたのだという。
 この舎弟たちは東映のヤクザ映画を三度のメシよりも好み、今では銀幕のスターとなった矢頭昇の熱狂的なファンだった。自分の尊敬する兄貴分は伝説的な組織に所属していたのだという願望のようなものが透けて見えた。
 近藤の過去については真偽不明な点はあるものの、近藤のケンカの強さは本物だった。半月前に彼の強さを目の当たりにしたからだ。
 不破少年がボウリング場での労働を深夜に終え、ブライトネスビルを出たときだった。ひとりで歌舞伎町を歩いていた近藤とバッタリ出会ったのだった。ふたりとも夕飯がまだだったために『つるかめ食堂』へ向かった。名曲喫茶の『スカラ座』や『珈琲王城』がある通りに差しかかったとき、鞭馬会のチンピラ三名と鉢合わせしてしまった。
 鞭馬会は戦後闇市時代に結成された新宿の愚連隊で、かつては進駐軍の物資の横流しなどをシノギとしていた。最盛時は二百人もの構成員がいたというが、新宿は古くからのテキ屋系組織や博徒系ヤクザの結束が強く、新興の愚連隊が入りこめる余地はなかった。鞭馬会も例外ではなく、新宿二丁目のヌードスタジオといった売春宿をシノギとする小規模なグループに過ぎなかった。
 だが、近年になって状況が変わった。東海道から横浜を縄張りとする巨大組織のきんじよう連合が東京進出を目論んだためだ。
 錦城連合は鞭馬会を傘下に収めると、同会の尻を叩いて新宿一帯で暴れさせた。構成員たちは錦城連合のバッジを胸につけると、巨大組織の威光を笠に着て、歌舞伎町でも大きな顔をして歩くようになった。
 鞭馬会は台湾系華僑の構成員が多く、トップの村上むらかみ建策けんさくも基隆出身の華僑だった。そのため王一族といった台湾出身の成功者に対して執拗に絡んでいるという。日本のヤクザなどとつるむのではなく、同胞のおれたちと交流を深めるべきではないかと。
 鞭馬会の嫌がらせは日に日にひどくなっていった。鉢合わせしたチンピラたちも、相手が敵の幹部とわかるなり、道いっぱいに広がって近藤たちの行く手をふさいだ。
 ――近藤、通りてえんなら通行料払えや。ここはもうてめえの縄張りシマじゃねえぞ!
 チンピラたちは酒の臭いをぷんぷんさせていた。
 だからといって、ケンカ慣れしてそうな大の男たちが三人とあっては多勢に無勢だ。不破少年はとっさに両拳を掲げてファイティングポーズを取った。当の近藤は無防備に立っていた。
 ――なんだ、このガキ。一丁前にやろうってのか!
 近藤の正面にいた坊主頭のチンピラが、不破少年に向かって怒鳴った。
 近藤はその隙を見逃さなかった。前触れなく空手の前蹴りのようなキックを放ち、チンピラの股間を打ったのだ。チンピラは短い悲鳴を上げて内股になり、苦悶の表情を浮かべながら崩れ落ちた。
 他のふたりが慌てて臨戦態勢を取るが、近藤の蹴りのほうが早かった。鞭みたいに脚を再びしなやかに動かすと、二人目のチンピラの顎を豪快に蹴り上げた。チンピラは首を大きく揺らすと、脳震盪を起こしたらしく、身体をふらつかせてから前のめりに倒れた。
 ――近藤! 
 最後のチンピラは近藤の背広の胸を掴もうとしていた。不破少年が拳を振り上げてみせると、チンピラの注意が彼へとそれた。
 近藤の横蹴りがチンピラの胃袋に入った。チンピラは日本酒混じりの反吐を派手にまき散らしながら道路に尻もちをついた。己の嘔吐物にまみれながら身体を丸めて苦悶した。
 不破少年は目を見張った。母との旅暮らしでいろんな荒くれ者や力自慢を目にしてきた。母の職場だったストリップ小屋やキャバレーには、ボクサー崩れや自称空手家といった人間が用心棒をやっていた。しかし、これほど流麗な足技を目にしたことがなかった。
 ――時間食っちまったな。行くぞ。
 近藤はハンカチを取り出すと、革靴についた嘔吐物を拭った。
 ――空手だべが……すげえ技だべ。
 ――ちょっと違うな。テコンドーだ。空手の流れを汲む韓国武術で、台湾の軍隊で教えられた。
 ――おれにも教えてけねがっす。沢村忠よりカッコよかったべ。
 ――いいや。お前はこんなものを覚える必要はない。連中とのいざこざもじきにケリがつく。そんな暇があったら、ボウリング場の仕事をすべて頭に叩きこむんだ。
 近藤にぴしゃりと諭されたものだった。彼にケガはなかったが、厳しい顔を見せた。カタギの弟の前でケンカをしたのを後悔しているようだった。
 不破少年も困惑したものだった。近藤の言葉は間違いなく正しい。王大偉に会うには身を粉にして働き、一刻も早くボウリング経営のプロになることだった。
 だが、鞭馬会の横暴はケリがつくどころか、よりひどくなるばかりだった。先日も『ブライトネス』系列の台湾料理店で騒動が起きたばかりだ。鞭馬会の組員数人が真昼に客としてまぎれこみ、料理にゴキブリの死体を入れて騒ぎ出したのだ。
 ランチタイムで混雑している時間帯に、ゴキブリが混入する不潔な店だと吠え、悪質な営業妨害をやり続けた。その日以来、その台湾料理店は閑古鳥が鳴き続けている。
 営業妨害や嫌がらせを受けているのは、『ブライトネス』系列の店だけではない。岡谷組とつきあいのある飲食店や遊技場は狙い撃ちにされており、岡谷組はだらしがないとこぼす店主さえいるという。
 カタギの道を歩むことだけ考えろ。近藤からはそう教えられているが、この兄の身が心配で仕方がなかった。
 命のやり取りもある稼業とはいえ、まだ生まれたばかりの赤ん坊もいれば、愛すべき妻もいるのだ……シューズ磨きといった単純作業を繰り返していると、よからぬ考えが次々に浮かんでしまう。
 そのときだった。従業員室の出入口のドアがけたたましく開かれた。
 不破少年と下川が一斉に出入口を見やった。夜勤の学生アルバイトが入ってきた。
「な、なんだ」
 下川が眉をひそめて訊いた。男性アルバイトが息を切らせながら言った。
「れ、例のヤクザどもです。鞭馬会とかいう連中が来て、まずいことになってます!」
「本当かよ……うちにまで来やがったのか」
 下川は勢いよく椅子から立ち上がった。
 だが、なにをすべきか迷っているらしく、視線をさまよわせるだけだった。
「主任」
 不破少年が指示を仰いだ。深夜帯は支配人が不在であるため、主任の下川が現場責任者となる。
 下川は電話の受話器を手にした。
「ダンペイ、お前たちはヤクザをなだめて時間を稼げ。おれは支配人と岡谷組に連絡する」
 学生アルバイトが素っ頓狂な声をあげた。
「お、おれらで行けっていうんですか?」
「わがりました」
 不破少年は従業員室を飛び出した。広々とした空間が広がっている。
 ボウリング場は深夜にもかかわらず盛況だ。七割ほどのレーンが稼働している。
 しかし、ピンの倒れる音がしない。ここでの労働でもっともつらいのは騒音だ。ボールに衝突するたびに、ピンが甲高い音を立て鼓膜を震わせる。それが何十レーンで行われて長時間も続くのだ。ここにずっといれば耳鳴りがし、やがて耳の奥がずきずきと痛むようになる。支配人や下川は接客のとき以外、耳栓をしてこの職業病と抗っている。
 異様な気配を感じ取った。客たちの多くがボールを手にしてアプローチで立ち尽くし、恐々と中央のほうを見つめている。
 不破少年は息を呑んだ。ちょうど真ん中のレーンに四人の男性客がいて、野卑で大きな声を張り上げていた。遠くからでもヤクザ者だとわかる。
 彼らも自分たちの素性を隠す様子はなかった。赤いタートルネックのシャツにリーゼント、鯉口シャツに五分刈りの坊主頭、派手なアロハシャツに角刈りといった男たちが麻里を取り囲んでいる。兄貴分と思しき黒のシャツにサングラスの中年男が、ベンチにどっかりと腰をかけてタバコを吹かしていた。
「あいつらは……」
 不破少年はうなった。
 サングラスの中年男は初めて見る。しかし、あとの三人は見覚えがあった。近藤に蹴とばされたチンピラたちだ。あいつらがやられたのは約半月前で、もう傷はすっきり癒えたらしいが、近藤の前蹴りをもらった坊主頭の顎には青黒い痣が残っていた。
 全員が判で押したようなヤクザ者の格好をしていたが、あからさまなのは格好だけではない。乱行ぶりもひどいものだ。ベンチの周りはすでにゴミだらけで、大量のタバコの吸い殻やコーラの瓶、吐き捨てられたガムが落ちている。
 全員がボウリングシューズを履いておらず、雪駄やブーツでアプローチに上がっている。坊主頭などはオイルにまみれたレーンをスケート場のように雪駄で滑ってはしゃいでいる。
 リーゼントは麻里に絡み、背中や腰にベタベタ触れている。麻里は気の強い女性だが、さすがの彼女も身体を縮めて泣きそうな顔をしていた。

 

(つづく)