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昭和六十二年

 

 

12(承前)

 

 セダンは新大久保の近藤のマンションに到着した。一時は全国から注目を集める事件現場と化したが、約三週間ほど経った現在は拍子抜けするほど日常に戻っていた。記者や警察官の姿は見えない。

 不破は息を吐いた。ここには足を踏み入れるたびに心が躍った。今は違う。岡谷の心遣いはありがたくはあったが、何杯か酒をひっかけてから訪問したかった。シラフで来るにはあまりにきつい。

「掃除は徹底してやりました。床も畳も貼り替えて。痕跡は残ってません」

「ああ」

 不破は目をつむって深呼吸を繰り返してからセダンを降りた。土居を伴ってマンションへ入る。

 近藤の部屋の玄関まで進むと、待っていたかのようにドアが開かれた。歩美がぎこちない微笑を浮かべて出迎えた。

 彼女は少し痩せたようだった。化粧のおかげもあってか、やつれたようには見えない。カットソーのうえにカーディガンを羽織り、いつもと変わらぬ普段着姿だった。胸のマベパールのペンダントが七色に輝いている。

 彼女は目を丸くした。

「大丈夫なの。食べてないとは聞いてたけど、骨と皮みたいじゃない」

「姐さん、大変申し訳ありませんでした。おれが兄貴を──」

 不破は外廊下の床に跪こうとした。

「ダメ」

 歩美はきっぱりとした口調で告げた。不破の腕を掴んで引っ張り上げる。

「謝らないで。あなたのせいなんかじゃない。あの人だって絶対にそう思ってる」

「いや、でも……」

「誰のせいでもない。強いて言うなら、あの疫病神みたいな台湾人のせいだけど、どのみちこんな稼業についていたら、まっとうな死に方は望めないだろうと、私も近藤も腹をくくってたから。これ以上、自分を責めようとはしないで」

「わ、わかりました」

 曖昧な相槌を打ちながら部屋に入った。土居を隣の部屋で待機させる。

 不破は戸惑いを覚えた。想像していた展開と違っている。

 打ちひしがれている歩美をなんとか慰めなければならない。移動中の車のなかであれこれと考えていた。しかし、気を遣われたのは不破のほうだった。

 ダイニングへと入った途端、線香の香りが鼻に届いた。ダイニングや和室はリフォームしたかのような真新しさに包まれていた。

 ダイニングのフローリングの床材は新しく、ボウリング場のレーンのような光沢を放っている。食卓のテーブルも新品に買い替えられていた。

 和室の畳も張り替えられていた。線香に混じってイグサの香ばしい匂いがする。あの惨劇を思わせる痕跡はない。安心するとともに、ある種の寂しさを覚えた。知らない家に上がり込んだときに似たよそよそしさも感じる。

 不破が勾留されている間も、外の世界は着々と前に進んでおり、置き去りにされていたかのような寂寥が湧いてくる。この部屋の主人はもういないのだと改めて思い知らされる。

 和室には三段の祭壇が設けられてあった。最上段には額縁入りの遺影が飾られてある。王智文の娘の結婚披露宴に参加したときの写真だ。近藤がブラックスーツを着て柔和な笑みを浮かべている。プロのカメラマンが撮っただけあって、いい表情を捉えている。それだけに直視するのが辛い。

 祭壇の前に座って線香を上げ、りんを小さく鳴らした。りん棒を持つ手が震えた。まだ悪い夢のなかをさまよっている気がした。兄の死を無理やり承認させられているようだ。

 二段目に置かれた骨壺を見つめた。金襴生地の大きな菊の模様があしらわれた骨覆に包まれている。歩美の苦悩は計り知れない。愛する者の死を受け入れる暇も与えられないまま通夜や葬式が行われたのだ。不破は右目をつむって合掌した。

 感情が昂って胸が熱くなるが、もはや涙は出なかった。留置場で涙は出し尽くしてしまった。

 不破が祈りを終えると、歩美に声をかけられた。

「お腹すいてない? お粥かうどんだったら胃腸も受けつけられると思うけど」

「いえ、事務所に向かわないと──」

 不破は言いかけてから口を閉じた。

 近藤の死に直面してから、食欲がまるで湧いてこなかった。歩美は不破の肉体を“骨と皮”と形容した。そこまで大袈裟ではないにしろ、差し入れの弁当にもほとんど手がつけられず、かなり体重を減らしたのは事実だった。だが、今の歩美の申し出を断れるはずがない。

「オムライスを、いいですか」

「え?」

 歩美が虚をつかれたように目を丸くした。

 しかし、彼女は任せろといわんばかりに胸を叩いてキッチンに立った。やがてフライパンからバターのいい香りがした。しゃもじでメシを炒める。

 彼女は料理を拵えながら、シャバでのことを話してくれた。雄也は父や若い衆の遺体を目にし、しばらく熱を出して寝込んだ。ようやく最近になって学業への意欲を取り戻し、夏休みを終えてから通学しているという。

 通夜の席には王一族が集まった。妾腹の近藤を一族の人間として厚く弔ったばかりか、八十四歳になる王大偉の妻の徐慧華も涙を流して歩美を慰めてくれた。

 徐慧華は近藤をずっと息子と見なしていなかった。彼女は己の偏狭な態度を詫びると、老齢であるにもかかわらず、葬式の接待係を買って出て、親族の女たちとともに酒や料理の準備を率先して行ったという。にわかには信じがたい話だった。ヤクザとは距離を置くと宣言していた王心賢も、有給休暇を取って岡谷組の組員とともに香典の集計係を担当した。

 青山の葬儀所には二千名を超える弔問客が参列。香典の数は膨大なものとなり、冠婚葬祭に慣れているはずのヤクザたちも混乱しかけたが、王心賢による厳格なチェックのおかげで手違いは起きず、全員分の香典の計算と管理をきっちりと済ませた。

 王心賢もまた少年時代は、両親の夫婦喧嘩に耐えられなくなると家から避難し、歩美の手料理に舌鼓を打っていた。近藤夫妻には家柄の垣根を越えて人を惹きつける魅力があった。

 揉めていた鞭馬会にしても、近藤をひとりの極道として高く買っていたらしい。会長の村上建策と理事長の丹下だけでなく、近藤夫妻と交流のあった組員たちが弔問に訪れた。彼らの香典だけで、高級外車が買える金額になったという。

 鞭馬会は岡谷組を疑った。自分たちの縄張りを荒らしたと勘繰り、岡谷邸まで乗りこんで迫った。しかし、石国豪がヤクザ組織をひっかき回していた事実を知り、近藤が命を賭してケジメをつけると、岡谷組に詫びを入れて水に流した。

「お待たせ」

 歩美が皿に盛ったオムライスをテーブルに置いた。カブと油揚げのみそ汁付きだった。

 オムライスはケチャップと塩コショウで味付けがなされた素朴なもので、十五歳のときに彼らのアパートに招かれたときと同じ匂いだ。サイズはまるで違っていたが。

 空腹だった不破少年は、女の二の腕くらいもありそうな特大サイズのオムライスに目を見張った。今はあのときの三分の一ほどの量だが、平らげられるかどうかは怪しかった。

「いただきます」

 不破はスプーンを握ってオムライスを口に運んだ。

 薄く焼かれた卵焼きにケチャップライスの味が混ざり合う。胃袋に拒まれるかと思ったが、意外にもすんなりと収まってくれた。熱いみそ汁をすする。

「久々です。こんなに食えるのは」

「無理はしなくていいから」

 歩美はテーブルの対面に座った。不破の食べっぷりを微笑ましそうに見つめる。

 不破はオムライスをきれいに食べ終えた。みそ汁まできれいに飲み干す。胃袋だけでなく、心までが満たされたような温かな気持ちになる。

 歩美が緑茶を淹れてくれた。

「隣の部屋を売りに出そうと思ってるの。あの人がいないんじゃ、若い子を住まわせる理由はないし。もっとも、あんな事件が起きた後じゃ売れるかどうかはわからないけれど」

「若いもんならもう少し住まわせておいたほうがいいんじゃないですか。派手に報道されたと聞いてます。まだやじ馬や記者がやって来るかもしれない。護衛や門番だと思っていただければ。連中の食費や光熱費なら任せておいてください」

 歩美は首を横に振った。

「……辛くてね。“姐さん”をやるのが。もし若い子にまたなにかあったら、私はたぶん耐えられない」

 そんなことは起こさせやしない。不破は口に出そうとして言葉を呑み込んだ。

 屈強な組員たちに護衛を任せた。拳銃も持たせた。今の石国豪であれば、充分な備えだと踏んでいた。その結果、近藤は命を奪われ、危うく歩美や雄也までが餌食になるところだった。若い者も無残に死んだ。

 歩美は石国豪の狂気に怯まなかった。拳銃を突きつけられながらも、石国豪を睨み返すだけでなく、あの男の隙をついて手首に噛みついた。彼女の度胸と機転がなければ、もっと多くの死傷者を出しただろう。不破も撃たれていたかもしれない。

 弁護士から聞いた話によれば、歩美は葬儀でも気丈に振る舞い、参列者を感服させたという。極道の妻の鑑だと称賛された。しかし、彼女もまた悲しみの底に沈んでおり、その顔にいつのまにか疲労の色が現れ出す。

 歩美が祭壇のほうを見やった。

「あの人と結婚したとき、私なりに腹をくくってた。ヤクザの女房になるからには幸せとは無縁の暮らしを送らなきゃならないって。あの人の腕っぷしがいくら強くても、ずっと無事でいられるはずはないし、長い懲役に行って何年も会えなくなるかもしれない。一緒になれただけで充分。それ以上の幸福なんか望んだら罰が当たる。毎日毎日ずっと自分に言い聞かせてた」

「そうでしたか……」

 不破は相槌を打ってみせた。

 歩美は不破たちにとって癒しの存在だった。いつも底抜けに明るく、ケンカや犯罪でささくれだったはぐれ者の魂を救ってくれた。彼女が張りつめた日々を送っていることに気づかなかった。

「月日が経つにつれて、その心構えも忘れそうになってた。立派過ぎる息子を持てて、こんないい部屋で贅沢に暮らせて、あなたのような義弟おとうとにもめぐり会えたから。でも、お天道様が許してくれるはずがないよね。来るべきものが来てしまった。不謹慎かもしれないけれど、ホッとしている部分もあるの。これでもう気を張らなくて済むから」

「知りませんでした」

 歩美の本音に触れて胸のつかえが下りた気がした。その一方で、彼女がどれほどの重圧に耐えて生きていたのかを知った。そうと気づかぬまま、彼女に甘えて生きてきたのだ。

「おれになにかできることはありますか?」

「そうね」

 歩美がふいに真顔になった。

「隆次君、ヤクザから足を洗えない?」

「えっ」

 不破はたじろいだ。椅子の脚が床をこする。

「簡単なことじゃないのは百も承知よ。だけど、隆次君までいなくなったら耐えられない。私の支えはあなたと雄也だから」

 不破の頭が真っ白になった。なにを喋っていいのかわからない。

 歩美は冗談を言っているのではない。それは痛いほど伝わってくる。彼女は本気だ。

 歩美の力になりたかった。近藤があのような逝き方をした以上、彼女と雄也を支えるのは己の責務だ。彼女たちにはなにがあっても幸せな人生を送らせる。しかし……。

 不破は言葉を絞り出した。

「それだけはできかねます。おれにあるのは腕っぷしぐらいなんです」

「それと血筋ね」

「ええ。遊び相手のダンサーの子のおれを、父は自分の子だと認めてくれた。おれには学歴もない。商売ができるほどの頭もない。そんなおれでも、ようやく一族の力になれるようになったんです。ボウリング場の小僧じゃなく、億のカネを動かせる極道になった。もっと身体を張って一族を繁栄させたいです」

 歩美が憐れむように不破を見つめた。

「でも、あなたは一族の血を引いていない」

「なっ」

 不破は息を詰まらせた。肌が粟立つのを感じながら、前のめりになって抗う。テーブルに両手をついた。

「なんで、そんなことを。おれはれっきとした一族の男だ。近藤アニキと同じく妾腹だけど、おれは王大偉の息子なんですよ! 血液型だって同じだ」

「落ち着いて。あなたの実の父親が誰かなんて関係ない。近藤だって気にしていなかった」

「……近藤アニキが」

「九年前の夜中よ。あなたは脚を刺されて病院に担ぎ込まれた。あなたの意識はなくて、おまけに出血もひどかった。病院で血液型を調べたら、あなたから聞いていたのと違うとわかって、あの人も相当焦っていたみたい。私に電話してきて、すぐに病院に来るよう言われたわ。あなたと同じB型だったから。あんなに慌てふためいたあの人を見たことがない。病院に着いたときには、すでに血液センターから輸血用の血液が届いて、間一髪で間に合ったみたいだった」

 不破の視界が揺らいだ。

 秘密を知るのは近藤だけと考えていた。新井の情婦に刺されて意識を失っている間、そんな騒動が起きていたとは。

 ──安心しろ。この事実を知ってるのはおれだけだ。

 崇拝の対象ですらあった近藤とはいえ、彼の言葉を鵜呑みにはできず、しばらくは怯えて過ごした。病院関係者に偽の血液型証明書まで作らせた。あれから長い年月が経ち、近藤が真実を言っていると信じた。

 歩美がふいに左手を伸ばしてきた。不破の右手のうえに重ねた。彼女の手は温かかった。

「あなたは王大偉の息子。近藤傑志が誇りに思った弟よ。その事実はなにも変わらない。だけど、あなたには血なんかに縛られないで生きてほしいの。あなたは一族のために尽くすでしょう。近藤がこの世を去ったからには、さらに無理に無理を重ねるはず。これまでもこれからも。ただ、これだけは覚えていてほしいの。あなたにはもっと自由に生きてほしい。この手を一族のために汚す必要なんかない。日陰でたおれるのは近藤だけで充分よ。だから──」

 不破は右手を引いた。歩美の手の温もりが消える。

「今さら引き返せない」

 不破は首を横に振った。

「おれの手は血みどろですよ。人だって殺した。いくら洗っても取れやしないし、もうこのやり方しか知らない。近藤アニキと同じく陰から一族を支えるのが、おれに与えられた役割なんだ」

「一族があなたを必要としなくなるかもしれない」

「姐さん!」

 不破は微笑を浮かべようとした。しかし、頬の筋肉が引きつるばかりだった。歯がみっともなくカチカチと鳴る。

「あなたがたをお守りします。おれはくたばらない。それどころか、おれはもっと大きくなる。誰も手が出せないくらいに。姐さんにも心配させないくらいに。それがおれの宿命だ」

「隆次君──」

 歩美が口を開きかける。

 不破はテーブルに拳を振り下ろした。けたたましい音を立てて、彼女との会話を強引に打ち切った。大男の拳やジャックナイフよりも、彼女の言葉が恐ろしかった。

 近藤邸を後にした。涸れていたはずの涙が頬を伝った。

 

※本作には「妾腹」など、現在では不適切とされている用語・表現が使用されていますが、作品の時代性を鑑みてそのままにしております。

 

 

(つづく)