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2(承前)

 病院にはすでに何度も見舞いで訪れていた。王大偉は二年前に心臓発作で倒れて以来、自宅よりも長い時間をこの病院で過ごしていた。
 正面玄関から入って階段を上り、二階の喫茶室へと向かった。多くの見舞客や外来患者で賑わい、病衣を着た入院患者がうまそうにタバコをくゆらせている。
 端のテーブル席に近藤がいた。彼だけではなく妻の歩美と息子の雄也もいる。
 近藤は日頃ダークスーツを好んでいるが、見舞いのときは明色の衣服を選んでいた。今日もベージュのスーツに茶色のワイシャツを合わせていた。
 歩美も白いブラウスのうえに淡いピンクのカーディガンを羽織っていた。雄也が着ている白いセーターも普段着より上等そうなものだった。
 衣服こそ明るくはあったが、近藤も歩美も表情は暗かった。雄也だけはソーダ水のさくらんぼをうまそうに食べていた。
 雄也は活発な性格で巨人軍が好きな野球少年だ。学校から帰るとバットやグローブを担ぎ、西新宿の空き地で友人たちと野球ばかりやっていた。不破ともよくキャッチボールをするが、小林繁のフォームを真似てサイドスローで鋭い球を投げ込んでくる。
「隆次兄ちゃん」
 雄也が椅子を下りて駆けよってきた。
 見えないライトセーバーを握りながら「ピシューン、ブイーンブイーン」と効果音を口で発しながら斬りかかってくる。
「ぐわっ」
 不破は斬られたフリをしながら身体をよろけさせた。今夏に『スター・ウォーズ』を見せてから、ジェダイの騎士気取りでちゃんばらを挑んでくる。SF映画に関心などなかった不破だが、父のような立派な騎士になると誓う主人公に共感して、もう四度も劇場に足を運んでいた。
 歩美が息子に注意をした。
「雄也っ」
「ここは騒いじゃダメだからおとなしくしてような」
 不破は雄也を抱えて椅子に座り直させた。近藤に一礼する。
「すみません。ギリギリになりました」
「座れ」
 近藤は鋭い口調で命じてきた。
 不破は神妙な顔をして腰かけた。女性店員が注文を取りに来たが、近藤の怒気を感じ取ったらしい。声が震えていた。今日はお洒落なカタギのファッションだというのに、他人を震え上がらせる迫力は健在だった。
「ワイシャツのボタンをとめろ。いくらネクタイでごまかそうが、首のたるみはごまかせねえぞ。どういうつもりだ」
「ボタンが取れちまって」
「縫ってこいよ。裁縫は得意だろうが。それになんだそのスーツは。まるで全身タイツだ。サーカス団員にでもなる気か?」
「身体のほうがでかくなっちまって。すみませんでした」
新宿ジユクの暮らしに慣れきっちまって、少しばかりたるんでんじゃねえのか? そんな性根でいたら同業者だけじゃなく、カタギからだって鼻で笑われる。お前ももうガキじゃねえんだ。バカのひとつ覚えみてえに、腕っぷしばかり鍛えりゃいいってもんじゃねえ。もっとあらゆることに注意を払え。王一族の一員でありたいのならな」
「すみませんでした」
 不破は頬が火照るのを感じながら頭を深々と下げた。返す言葉がない。穴があったら入りたいくらいだ。すでに王英輝や王智文は家族を連れ、病床の父親を見舞っているだろう。母親の徐慧華とともに。
 王大偉にはふたつの家族があった。本妻の徐慧華は未だ健在であり、彼女が一族の集会に顔を出しているときは、妾腹の近藤や不破は彼女が去るまで待つのが不文律となっていた。王一族の一員とはいっても、不破たちが見舞いに行けるのは、本妻の血を受け継いだ者が帰ってからだ。
 時間厳守ばかり頭にあって、服装は二の次になっていた。こんな格好を父が見たらひどく落胆するだろう。
「あの……今から服屋に行ってきます」
「このあたりにスーツを売ってる服屋があるのか?」
「わかりません。でも……探せばどこかに」
「悪あがきはよせ。もうすぐ兄貴たちが帰る。親父にも小言のひとつでももらえ。スーツとシャツは明日にでも新調しろ」
「……わかりました」
 近藤は隣の歩美に目くばせをした。
 彼女はハンドバッグを開けると、茶封筒を取り出して不破に渡した。
「はい、これ」
 茶封筒を受け取って中身を確かめた。手の切れるような十万円のピン札が入っている。
 不破は慌てて突き返そうとした。
「こんな大金、受け取れませんよ」
「拒んでる場合か」
 近藤に脛を蹴飛ばされた。歩美も夫に同調するようにうなずく。
「その体格だと吊るしのスーツで合うサイズなんかないでしょう。オーダーメイドでしっかりいいものを作ってもらいなさい」
 近藤が声のトーンを落とした。
「礼服もだぞ。遠くないうちに着ることになりそうなんだ」
「明日の朝一番に仕立て屋に駆け込みます。兄貴、姐さん。いつもすみません」
 不破は椅子から立って最敬礼をした。
 その瞬間、尻のあたりでビリっと布が破ける音がした。横の雄也が目を丸くした。
「兄ちゃんのズボン……」
「えっ」
 尻に手を伸ばした。スラックスの尻の生地が破け、縫い目に沿って縦に裂けている。指がなかの下着に触れた。顔から血の気が引くのを感じた。
 近藤が噴き出した。それまでずっと厳しい表情をしていたが、こらえきれなくなったかのように腹を抱えて爆笑した。歩美や雄也もつられて笑いだす。
 不破は両手で尻を隠した。冷たい汗が流れだす。
「ど、どうしましょう」
「お前はつくづく大物だな。予想外なことばかりやらかしやがる。今日だってキリトリに手こずって、弱り顔でツラ出すもんだと思っていたんだ。きっちり仕事を済ませたかと思えば、とんでもねえ一発芸までかましやがって」
 近藤が涙を拭いていた。彼がこれほど大笑いするのは珍しい。歩美もクスクスと笑い続ける。
「本当は心配してたのよ。今度ばかりは相手が相手だから厳しいかもしれないって。なんだったらケガでもして、ここに来ることさえままならないと思ってたんだから」
「南場の兄貴のおかげです。おれは言われたことをやっただけなんで。それよりスーツのほうはどうしましょう」
 不破は椅子に座って尻の破れ目を隠した。弟の焦りをよそに、近藤は平然とコーヒーを飲む。
「そのままでいいだろう。親父にも姿を見せてやれ。きっと笑うぞ。倅が衣服破いちまうほどでかくなるんだ。喜ばねえ父親はいねえよ」
 歩美が頬杖をして不破を見つめる。しみじみとした調子で言った。
「それにしても大きくなったわよねえ。身長だってうちの人と変わらないくらい伸びたし、厚みが増して業務用の金庫みたい」
 雄也が口を挟んだ。
「藤波辰巳より筋肉がすごいもん」
 近藤に指を差された。
「今のお前にゴロを巻かせたら、互角に渡り合えるやつは組にだっているかどうか」
「それは違います。兄貴がいるじゃないですか」
 近藤のケンカをしばらく見ていなかった。

 

(つづく)