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2(承前)

 母の実家は神奈川県相模原市にあった。しかし、母に肉親を頼るという選択肢はなかった。母は実家を飛び出した身であり、そこに戻るくらいなら淫売でもパン助でもなんでもやると決意していたらしい。母は王大偉については饒舌だったが、自分の両親についてはあまり語りたがらなかった。
 母の父親――不破少年の祖父は陸軍の軍人だった。母が物心ついたときから、祖父は家を空けることが多く、中国大陸で日本軍が占領した地域の警備や討伐作戦に従事していた。太平洋戦争が始まると、ビルマに派遣されて、昭和十九年にマラリアで病死した。
 銃後を守る祖母は軍人の妻らしく、地元の国防婦人会の分会長となり、いつも割烹着やモンペを着ては、出征兵士の見送りや留守家族の支援に明け暮れていた。
 夫や兄弟たちが安心して戦場に向かえるよう、女たちは台所をつねに整え、どんな苦しいことになっても、皇国のために身を捧げる。それが祖母の信条であり、母は侍の家に生まれついたようだったと述懐する。
 共産主義や反戦思想といった非国民的な思想に染まっている者を見つければ、祖母はいち早く憲兵に密告して取り締まらせた。竹やり訓練や消火訓練といった行事に積極的でない女がいれば、村八分に追いやるのも辞さない苛烈な愛国婦人だった。
 そんな猛女にハリウッド女優のブロマイドを持っているのがバレて、母は大変な目に遭った。短刀を持った祖母に追いかけ回され、ひそかに隠し持っていた映画誌やブロマイドを庭で燃やされ、祖母は敵性文化に染まった娘を一家の恥だと罵り続けた。
 終戦を迎えると、玉音放送を聴いて泣き崩れた祖母とは違い、母はこれで息の詰まる暮らしから解放されるとはしゃいだという。
 新宿を代表する劇場だった『モンマルトル』は、戦災によって消失してしまうが、紆余曲折を経て王大偉が復活させると知り、母はまだ社会が不安定な時代だったにもかかわらず、実家を飛び出して新宿へと向かったのだ。それ以来、母は祖母と一度も会ってはいないらしい。不破少年も会ったことはなかった。他に頼るべき親族がいたわけではなく、母子ふたりきりの放浪人生が始まった。
 不破少年の一番古い思い出は、福井県の旅館の大浴場だ。しょっぱい味がして、海の香りがする温泉水だった。母は芦原あわら温泉の劇場でストリッパーとして働いていた。
 レビューやミュージカルをこよなく愛した母にとって、ストリップは芸術性のない卑猥な見世物にしか映らなかったようだ。背に腹は代えられず、裸体を温泉客にさらした。かつて多くの文化人を魅了した『モンマルトル』の舞台女優だったという劇場側の触れ込みもあり、けっこうな人気を得たらしい。当時住んでいたアパートの室内は、客からプレゼントされた花束で埋め尽くされていた。
 それでも、母はストリップの仕事に乗り気ではなかったようで、肝臓の具合がよくなったと見るや、福島県郡山市のキャバレーやナイトクラブで働いた。そして、またドクターストップがかかるほど酒を飲んで体調を崩し、福島県内の温泉街でストリッパーの仕事にありつく。その繰り返しだった。
 最後は山形県の上山温泉にある場末の小屋で踊り続けた。そこでの三年間、母は楽天的で陽気だった。嫌々やっていたストリップの仕事にも慣れ、加齢と不摂生で肉体がたるみ、客からひどいヤジを浴びせられても平気の平左だった。朝からアルコールの臭いを漂わせるようになり、主食が酒と化していたが。
 医者から末期のガンと告げられたとき、不破少年はあまり驚かなかった。アパートの共同便所が、母の血便でしょっちゅう真っ赤になるなど、死神がじわじわと近づいているのを感じ取っていたからだ。すぐに入院となったものの、母は二か月もしないうちにあの世へ逝った。
 王英輝はタバコに火をつけた。金色の高そうなライターで、タバコは赤いパッケージの洋モクだ。
「なるほど。君も大変だったな」
「母が死んだごどを王大偉さんにも伝えだくて、朝早くに列車に乗ってこっちに向かいました。だげんど、遅れが出ちまったもんで、こだな時間になっちまっで。もう自宅に帰っちまったんだべが」
 王英輝は壁にかけられたカレンダーに目をやった。
「あいにく会長はここ一週間ほど不在にしていてね。台湾に出張している」
「えっ?」
「会長は今や一企業のトップではないんだ。日本にいる台湾系華僑を代表する人物だ。こちらに戻るのは十日後の予定だが、それも確実とは言えない」
「ま、待ってけろっす」
 不破少年はテーブルに両手をついて前のめりになった。
「母の手紙が来っだはずだべ。入院中に何通も王さん宛てに手紙を書いでだんだず。王さんはおれがここを訪れんのも知ってたはずだべ。出張でいねえっていうんなら、誰か言伝ことづてを預かってねえべが」
「我々はなにも聞いていないよ。正直言って、手紙のことも初めて耳にした」
 王英輝は首を横に振った。王智文が兄の腕を肘で突いた。
「兄貴、さっさと言ってやれ。こいつのためにもならねえ」
「な、なんだべが」
 不破少年はふたりを交互に見ながら尋ねた。しかし、王智文はそっぽを向いてスコッチを口にするだけだった。
 王英輝がふいに立ち上がった。奥の金庫に向かうと扉を開けた。輪ゴムで丸められた札束を手にし、応接セットのソファに再び座った。
 王英輝が十万円の札束を五つテーブルに置いた。
「香典代わりだ。受け取りなさい」
「ちょ、ちょっと待ってけろっす。おれはこだなつもりじゃ……」
「この金額じゃ不服か?」
 王英輝はあからさまにため息をついた。友好的に迎えてくれたときのような気配が消え、弟と同じような苛立ちをにじませる。
「そ、そんなんじゃねえっす。おれは王大偉さんに会いだぐて、ここに来たんであって――」
「それが迷惑だって言ってんだ!」
 王智文がグラスの底をテーブルに叩きつけた。
 硬い音が室内に鳴り響き、不破少年は彼の剣幕に息を呑む。
 王英輝が身を屈ませ、上目遣いになった。その目はひどく冷ややかで敵意さえ感じさせる。
「君は自分のことを会長の息子だと言ったそうだね」
「んだっす。母は王大偉さんのお妾さんだったがら」
「初耳だね」
「え?」
 王英輝は洋モクの吸い殻を灰皿に押しつけた。
「初耳だと言ったんだ。会長が艶福家だったのは事実で、これまでも何人かの愛人がいた。しかし、不破有紀子さんとそのような関係にあったかどうかは知らない。会長からもなにも聞いていない」
「そだなわげねえべや!」
 不破少年は思わず声を張り上げた。この男たちの言葉が理解できない。
「母が……母ちゃんが嘘言ってだってのが?」
 不破少年はアタッシェケースを開いた。パンパンに詰めこんだ衣類や時刻表、筆記用具が床に飛び散った。そのなかには数冊のスクラップブック帳がある。
 そのなかから一冊を手に取った。母が王大偉の妾だったときから使っていたもので、一番古いだけに表紙の傷みは激しく、背表紙はボロボロに剥がれかけている。母はそれをセロハンテープで補強し、旅の荷物になっても大切に保管し続けた。
 スクラップ帳をテーブルに置いた。
「これを見てけろや! 王さんが『モンマルトル』の経営に四苦八苦しっだころから、母ちゃんはこうして記事を切り抜いて応援してだんだ。別れるごどになってからも変わってねえ。北陸だろうが東北だろうが、どごさ行っても新聞取って、雑誌も買って、王さんのごどが載ってねえか、いつもマメに確かめでだんだ。王さんが母ちゃんを愛しでだって話も、耳にタコができるほど聞かされだべ。それが全部嘘だって言うのが?」
 古いスクラップ帳を開いて見せた。
 大手紙の文化欄に掲載された『モンマルトル』のミュージカル評や、かつての大衆劇場の熱気を取り戻したいと意気込みを語る王大偉のインタビュー記事が貼られてあった。昭和二十七年のもので、不破少年が生まれる前から、母は王大偉の足跡を追い続けていた。
 王兄弟の態度に頭が熱くなった。涙が勝手にあふれ出す。
 部屋のドアが音を立てて開いた。社員たちが血相を変えて飛びこんでくる。
「大丈夫だ」
 王英輝は社員たちをそっけなく手で追い払った。彼は二本目のタバコに火をつけ、再び悠然と煙をくゆらせた。
「不破さんが会長を慕っていたのは理解した。しかし、会長は不破さんをどう思っていたのかはわからない。繰り返すようだが、ふたりの関係を、我々は関知していないんだ」
 王智文が聞こえよがしに呟いた。
「大体、誰のガキかわかったもんじゃねえ」
「なして……あんたたちは」
 そんなひどいことを言うのか。洟が喉にまで流れ込んで、もはや言葉にならなかった。
 血染めのハンカチで涙を拭い取るが、次から次へとあふれ続ける。なぜ血を分けた弟に、こんな残酷な言葉を投げかけるのか。拳骨や石礫を投げつけてきた田舎の悪ガキたちと同じではないか。
 ――あなたも高貴な王子のひとりよ。それなのに、私のわがままであなたをつらい旅につきあわせた。本当の故郷に戻るの。あの人はきっとあなたを快く迎えてくれるはず。
 母は死の二日前に言った。

 

※本作には「パン助」など、現在では不適切とされている用語・表現が使用されていますが、作品の時代性を鑑みてそのままにしております。

 

(つづく)