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2(承前)

 不破少年が目にしてきたヤクザと違い、近藤の部屋は意外に思えるほど近代的で、そしてなにより家庭的だ。
 六畳間には台所も備わっており、電気冷蔵庫や最新の電気炊飯器、二口のガスコンロにトースターまで揃っている。庶民の憧れである団地と遜色がない。トイレもついているようだ。
 台所の水切りかごにはピカピカの食器類やまな板があり、壁には使い込まれたフライパンや銅製の卵焼き器がかけられている。
 不破少年はため息をついた。
 母は台所がある家で暮らしたいとよく言っていた。そこで料理の腕を磨くのが夢だと。母や不破少年が過ごしてきた住居といえば、ワケアリの連中がよせ集まった下宿所や寮だった。ストリップ小屋の狭い事務所や待機所だったこともある。台所はいつも共同で、簡単な料理しか作れなかった。作る余裕もなかった。
 歓楽街の場末の中華料理店やスナックで、ラーメンや焼きうどんを食べながら、母は不破少年にいつも店屋物ばかりですまないと、よく謝っていた。母が暮らしたがっていたのは、まさにこんな部屋だったと思う。
 若い女がちゃぶ台を置きながら不破少年に声をかけた。
「早くあがって。学生服一枚じゃ寒かったでしょう」
「お、お邪魔します」
 不破少年は靴を脱いだ。肩の力も抜く。少なくともリンチはなさそうだった。
 赤ん坊らしき泣き声が耳に届いた。改めて隣の寝室を覗くと、ベビーベッドがあった。乳児用玩具の大きなモビールが天井にぶら下がっており、ベビーベッドには若い女と同じく、モコモコとした毛布に包まれた赤ん坊が寝ていた。
 近藤が台所の炊飯器のフタを開けた。
「メシがたくさん残ってるな」
「ヒロシとジロウが来るんじゃないかと思って。多めに炊いてたの」
「今夜は来ない。この坊やに握り飯でも作ってやってくれないか。相当腹を減らしてるようだ」
 近藤に顎で指された。
 不破少年の頬が恥ずかしさで火照った。新宿に降り立ったときから、腹の虫がずっと鳴り続けていたのだ。
 ヒロシとジロウは、近藤が連れていた舎弟たちだろう。新宿ブライトネスビルのエレベーターで見かけている。
 若い女は思案顔になった。
「おにぎりでもいいけど……オムライスは好き? 温かいごはんのほうがいいでしょ」
「好きです」
 不破少年は即答した。オムライスは母の数少ない得意料理のひとつだった。冷や飯をケチャップで炒めて卵焼きで包んだだけの簡素なものだったが、どんな店屋物のメシよりも好きだった。
「じゃあ、ちょっと待ってて。自己紹介もしなきゃね。私はあゆ
「お、おれは不破隆次です」
 声が上擦っていた。リンチや袋叩きに遭わずに済みそうだとわかりながらも、まだ自分が緊張しているのに気づく。
「隆次君、座って待ってて」
 歩美に座布団を勧められた。座ろうとする前に、近藤に腕を掴まれた。
「待て。部屋に入ったからにはまず手を洗え。石鹸を使って念入りにな」
「わ、わがりました」
 近藤の顔は真剣だった。冗談ひとつ言わせぬ凄みさえ感じさせた。
 不破少年は何度もうなずいて台所に向かった。水道の水と備えつけの石鹸で手をよく洗った。
 石鹸でしっかり泡立てて手洗いを済ませると、近藤も同じく台所に立ち、爪の間や指の間もしっかり洗う。少し神経質と思えるほどだ。
 手をしっかり洗うヤクザなど初めて見た。不破少年が見てきたヤクザなど、ロクに風呂にも入らない不潔な連中ばかりだった。
 近藤は清潔な布巾で手を拭い、寝室のベビーベッドに向かった。
ててちゃんが帰ってきたぞ。今日はご機嫌そうだな」
 近藤は愛おしそうに赤ん坊を抱きあげると、屈託のない笑顔を浮かべた。赤ん坊の額に口づけをする。
 赤ん坊も父に抱かれて明るい声をあげた。頬は丸く膨らんでいて、寝ぐせがつくほど頭髪が伸びている。母親と同じく頭髪は赤みがかっているのが特徴的だ。
 不破少年は目を見張った。殺し屋みたいな気配が消え、近藤の表情はすっかり緩み切っている。
「半年くらいだべが。たくましそうな男の子になりそうだなっす」
 近藤に言った。彼は意外そうに眉を上げた。
「そのとおりだ。生後六か月。どうして男の子だとわかった?」
「赤ん坊の世話をよく任せらっだがら。母の同僚の子だず。子持ちの嬢が多くて」
「……抱いてみるか?」
「いいんだがっす」
 不破少年も隣室に入った。
 そこは一組の布団が敷かれてあり、隅には段ボールに入った赤ん坊用のおもちゃが大量に積まれてあった。ガラガラやマラカス、オバケのQ太郎のぬいぐるみなどだ。キューピーのビニール人形が段ボールからこぼれ落ちている。
 布団やおもちゃを踏まないように気をつけ、近藤から赤ん坊を受け取った。
 赤ん坊を横抱きにした。右腕の肘の内側に赤ん坊の頭を乗せ、胸にぴったりと引き寄せた。赤ん坊を抱くときのコツは、お互いの身体をしっかり密着させる点にあった。左手で赤ん坊のお尻を支える。
 近藤が顎をなでた。
「サマになってるじゃないか」
「この子の名前はなんだべ」
ゆうだ。近藤雄也」
「いい名前だなっす」
 不破少年は赤ん坊の瞳を見つめて言った。
 赤ん坊のぬくもりが不破少年の胸を通して伝わる。頭はずしりと重く、身体の肉づきも丸々としており、すくすくと成長しているのがわかった。なにより自分の甥っ子だと思うと、愛おしさが一段と増す。
「雄くん、おめはめんごいな。ここはあったかくて天国みでえだべ。こんなに父ちゃんからかわいがられで、おめは幸せだなや」
 赤ん坊の雄也に優しく声をかけた。雄也はケラケラと笑って喃語を発した。
「珍しい。ヒロシとジロウのときなんか、火がついたように泣きだしたのに」
 歩美はフライパンを手にしながら不破少年たちを見やった。台所からケチャップとバターのいい香りが漂ってくる。歩美がヘラとフライパンを使ってメシを炒めている。
おかのオヤジのときもだ。おれたち以外でこんなにはしゃぐのは初めてじゃないか?」
「『血は水よりも濃し』って案外本当なのかもね。どことなく似てるもの。ふたりとも。兄弟って感じがする」
 歩美の言葉が胸にしみた。
 その言葉を信じて新宿に出て来た。父親である王大偉との面会は叶わず、兄にあたる王兄弟からはシラを切られ、タカリ屋とまで罵られた。残忍な仕打ちには慣れているつもりだったが、実の兄弟に拒まれるのは、どんな暴力よりもきつかった。弟と認めてくれたのは近藤と歩美だけだ。
 雄也は楽しげに手足を動かしていたが、やがて目をつむって静かに寝息を立て始めた。不破少年は雄也をベビーベッドに戻す。
「近藤さんはヤクザなんだがっす」
 雄也のおかげでだいぶ話しかけやすくなった。不破少年は思い切って訊いた。
「ああ、そうだ」
「岡谷組ですか」
 矢継ぎ早に尋ねる。この兄をもっと知りたかった。
 王大偉は艶福家だ。つねに愛人を抱えては、本妻をひどくいらだたせたという。だが、王兄弟や自分以外にも子がいるのを知らずにいた。
「知ってるのか? 岡谷組を」
「母から聞ぎました。母にとっちゃ新宿で過ごした日々が、人生で一番よがったみでえだから。あのころの話は耳にタコができるぐらい聞がさったんだず。実家の相模原にいだごろのほうが、過ごした時間は長えはずだげんど、そっちはあんまり話したがらねがった」
 岡谷組は新宿に根を張る暴力団だ。
 戦後に“光は新宿より”というキャッチフレーズで巨大マーケットを築き上げた関東尾津おづ組の流れを汲む組織で、組長の岡谷けんきちは闇市で儲けたカネでキャバレーなどを経営しつつ、角筈一丁目や新宿三丁目をおもな縄張りとしていた。
 王大偉とのつながりは深く、岡谷は大衆劇場『モンマルトル』の出資者でもあり、王大偉の歌舞伎町進出を支援したという。母が人伝に聞いた話によれば、昭和三十年代から急速に発展していく歌舞伎町を仕切るなど、新宿の顔役と目されるようになったという。
 近藤が鼻で笑った。
「驚いただろう。あの偉大な王大偉の息子だというのに、一流大学出の兄貴たちと違って、ヤクザ稼業なんかをしているのが」
「そ、そだなごどねえっす」
 不破少年は首を強く振って否定した。
「近藤さんも王一族の血を引く男だって思わされたず。この町のみんながら敬われてだべ。そんだけでねえ。兄さんたちがらも一目置かれてだ」
 不破少年は早口で喋った。台所から歩美の声が飛ぶ。
「傑志さん、弟を脅かしてどうするの?」
「少しからかってみただけだ。お前も変なやつだな。兄貴たちを本気で怒らせても居座っていたくせに、おれとふたりきりになったら急にソワソワしてただろう。痛めつけられるとでも思ったのか?」
「んだっす。近藤さんは……なんか刀みたいな感じがして」

 

(つづく)