7
左下の奥歯が痛みを訴えた。
痛むのは奥歯だけではない。唇もズタズタに裂け、右目は乾いてショボついていた。それでも映像を見続けずにはいられない。
不破はリモコンでビデオテープを巻き戻した。テープに収められている防犯カメラの映像を最初から再生する。黒檀の社長机に置かれたテレビのブラウン管に顔を近づける。雄也の本葬から戻ってから寝ずにそうしていた。
雄也が殺害されてから五日が経ち、歌舞伎町で発生した惨殺事件として、大がかりな捜査本部が新宿署に設置された。若松がマメに捜査情報を不破にリークしてきたが、判明しているのは犯人たちの侵入経路ぐらいだった。
犯人たちは正面玄関から鍵を使って堂々と忍び込んだ。そのため、『アカプルコ』で働いていた現役従業員や、過去に働いた経歴のあるパートやアルバイトを虱潰しで調べているという。裏ロムを仕掛けるゴト師が、報酬をちらつかせて従業員を抱きこむ手法は珍しくない。
若松は病院の霊安室で宣言したとおり、防犯カメラの映像をコピーしたビデオテープをごっそり持ってきた。事件が発生した日の開店時間から、雄也たちが襲撃されて警察官が駆けつけるまでの店内の様子が収まっていた。
トラブルを起こす客やゴト師を監視しているだけあって、最新式の防犯カメラが複数箇所に設置されていた。ストッキングをかぶった犯人たちの姿も映っていた。
一階の人気CR機が並ぶ一角で雄也たちと遭遇し、取り押さえようとする彼らに対し、犯人たちは軍人が使うような刃が肉厚のサバイバルナイフで執拗に刺しまくるところも。
犯人たちは店員と鉢合わせして恐慌をきたしたのか、それとも単に血も涙もない冷血漢だったのかはわからない。いずれにしろ雄也は着ていた制服を切り裂かれ、数えきれないほどの刺し傷を身体に負い、血の池に顔を浸すようにして倒れた。連中は店長の顔と指を切って抵抗力を奪い取ると、正面玄関へと踵を返し、スクーターで逃亡した。
凶刃に倒れる瞬間の雄也を初めて見たときは胃液を吐き出した。自分までがめった刺しにされたような痛みが走った。とても正視できる映像ではないが、それを見るのが不破に科せられた罰のような気がした。同時に使命だと覚悟を決め、何度も繰り返して見返し、そのたびに不破は唇を歯で噛み破り、顎の筋肉が痛むほど歯を食い縛った。
画面は開店時間を迎えた朝の『アカプルコ』を映し出した。朝から並んでいた殺気立った客を笑顔で出迎え、常連客と軽く会話をする雄也の姿がいる。
彼の葬儀にはブライトネスの社員だけでなく、この店で遊んでいたという常連客も大勢参列した。そのなかには、雄也がいたからこそ『アカプルコ』に通っていたと涙ながらに話す者もおり、彼がどれほど多くの人間に愛されていたのかを知った。
組長室のドアがノックされた。不破が短く返事をすると、南場が室内に入ってきた。
「ひどい顔だ……昨夜から一睡もせずに見続けてるのか?」
「一昨日の夜からだ」
南場は唖然とした顔で口を開けた。
「気持ちはわかるが、そいつはいかにもまずい。メシだってロクに食ってないだろう。そんな様子じゃいつ足をすくわれるかわかったもんじゃない」
「母親みたいな口を利くじゃないか。放っといてくれ」
不破は歯を剥いて睨みつけた。
「岡谷が引退した今、お前に意見ができるのはおれだけだ。おれはおれで組の行く末ってもんを案じてるし、今度の件だって、キチンとカタをつけるためならなんでもする気だ」
南場が血走った目で答えた。彼もロクに寝てはいないのだ。雄也は南場にとっても宝であり、近藤の大切な忘れ形見だった。
不破はテレビの電源を切った。椅子から立ち上がる。
「南場、すまない。あんたが一番損な役割を担うのに」
小声で南場に詫びた。
現在の岡谷組のトップは不破で、舎弟頭の南場は彼の弟分にあたる。しかし、南場は不破に助言や忠告を与える貴重なアドバイザーであり、不破に極道のしきたりや生き残り方を教えてくれた先輩であることには変わりなかった。
「わかりゃいい。これからのことを考えるだけでノイローゼになりそうだ。大久保彦左衛門のポジションを与えられてもいいだろう」
「進展があったのか?」
「龍星軍の創設メンバーと連絡がついた。天仁会系のなんとかって組にいるやつだ。そいつを通じて、うちの二代目が大至急で任海狼と会いたがっていると伝えた。じきになんらかの反応があるはずだ」
「助かるよ」
不破は組員に東北幇のボスである任海狼を捜させていた。普段の歌舞伎町であれば、嫌でも中国人マフィアと顔を合わせる羽目になる。
しかし、『アカプルコ』で起きた殺人事件の犯人が中国人らしいとの噂が瞬く間に広がり、新宿とその周辺で暮らす中国人社会を揺るがした。
中国人クラブのなかにはとばっちりを避けるために店を休業するところもあれば、首都圏で荒稼ぎしていたゴト師グループは、関東を離れて散り散りになった。中国人向けの賭場のほとんどは営業を止めている。
歌舞伎町を肩で風を切って歩いていた流氓も雲隠れし、任海狼もどこかに行方をくらませている。彼が根城にしていた『翡翠苑』に流氓は誰一人姿を現さず、店は閑古鳥が鳴いているという。
社長机の電話が鳴った。不破は受話器を取ると、当番の若衆が硬い声で告げた。
〈任海狼からです〉
電話を繋ぐように命じて、不破はスピーカーフォンに切り替えた。
「連絡をくれてありがとう、老板」
〈おれはなんの関係もねえ〉
任海狼が開口一番に告げた。彼のふてぶてしい声が組長室内に響き渡る。南場が怒りで眉を吊り上げた。
不破は傷だらけの唇を噛み締めた。血の生臭い味が口内に広がる。
「おれもそう信じたいよ。しかし、警察も世間もそうは見てくれない。あんたとおれがトップ会談で睨み合った後に、もっともおれが大切にしていた人物が、中国語を口にする悪党に理不尽な殺され方をした。うちの若い者のなかには、おれへの当てつけのために、あんたが殺し屋を放ちやがったと盛んに吠えるやつもいる」
〈知らねえよ。今の日本に中国語を話すやつがどれだけ住んでると思ってる。上海や福建もいりゃ、北京の留学生崩れやマレーシア系だっている。ベトナム難民を装って潜り込んだ野郎もな〉
「今の歌舞伎町の中国人社会を仕切っているのは、あんたら東北幇だ。殺し屋説とは別に、裏ロムを仕掛けるつもりで侵入し、店員と鉢合わせして凶行に及んだという説を唱えるやつもいる。裏ロムのゴト師稼業はあんたらのシノギだ。どこの出身の人間だろうが、歌舞伎町のパチンコ店を狙うのなら、あんたらが関わっているはず――」
〈知らねえってんだよ!〉
任海狼に大声で言葉を遮られた。
〈じゃあ訊くがな、江戸川区の施設に押し込められてたころ、おれたちの仲間が惨たらしく輪姦されても、ひでえイジメに遭って首をくくる羽目になっても、日本人は誰ひとり謝罪なんかしに来なかったし、弁解をしに来るやつだっていなかった。警察も動きゃしねえ。あんたの理屈からいえば、土地の親分や都知事が小指詰めるか、詫びを入れにこなきゃならねえはずだろうが。てめえらがひでえ目に遭ったときだけ、おれたちよそ者に罪なすりつけて、頭を下げろ靴を舐めろと言い腐る。被害者ヅラするんじゃねえ〉
「そんな話は新聞記者かジャーナリストにでもしろ。今は『アカプルコ』の件だ」
任海狼が露骨に舌打ちした。
この連中が常人では想像できないほど理不尽な人生を歩まされたのは事実だろう。それを打破するためには暴力しかなかったのも。だからといって、雄也が惨殺されるいわれはなく、不破や歩美を生き地獄に堕としていいはずがない。
〈歌舞伎町にはほとぼりが冷めるまで近寄らねえ。警察はあんたらヤクザよりもおれたちを嫌ってる〉
「だったら、おれのほうから出向いてやる。埼玉でも神奈川でもどこにでも行く。好きな場所を指定しろ」
〈おれは関係ねえ!〉
「関係あろうがなかろうが、お前は東北幇の首領としてこの街で大きなツラをしていた。とりわけ中国人社会に顔も利くうえに、貴重な情報も入手できる立場にあったはずだ。怒り心頭の我々に協力さえすれば、お前らはいつまでも雲隠れする必要はなくなり、こちらに多大な恩を着せられる。おれは頭を下げるし、礼だってきちんとする。先日とは比べ物にならないカネだ。犯人さえ捕まれば、警察も満足するだろう」
〈……くだらねえアメとムチだ。あんたの要求を呑まなければ潰しにかかる気だろうが〉
「当たり前だ。お前の『翡翠苑』はガス爆発で跡形もなく吹き飛び、中国人クラブにはバキュームカーが突っ込んでクソまみれだ。すべての賭場は誰も寄りつかなくなるほど銃弾が撃ちこまれる」
〈大物ぶりやがって。お上のケツを嗅いでばかりのクソヤクザが。ハッタリこくんじゃねえ!〉
受話器のスピーカーから衝撃音がした。食器が砕けるような甲高い音だった。任海狼が怒りに任せてなにかを壊したらしい。
立腹しているのは任海狼だけではなかった。やり取りを耳にしていた南場が肩で息をしながら歯ぎしりする。
任海狼は吐き捨てるように言った。
〈……また電話する。場所と時間はそのときだ〉
電話が一方的に切られた。南場が応接セットにあった週刊誌を掴んだ。額に青筋を浮かべながら力をこめ、週刊誌をびりびりに引き裂いた。
「ダメだ。二代目、やっぱりおれに行かせてくれ。あんな野郎はおれみたいな手下がやるべき仕事だ」
不破は首を横に振った。
「あいつは南場の言うとおりだったよ。ソロバンをきっちり弾ける悪知恵野郎だ。本人は“危険な男”として名を売りたいんだろうが、この手の悪党はそつなく逃げ回るし、ガードも臆病なくらいにきっちり固める」
「だけどよ……」
「組長自ら大金持って敵陣に赴くというんだ。それぐらいエサを撒かなければ食いついてこない」
ポケットの携帯電話が鳴った。液晶画面には刑事の若松の名前が表示されていた。
不破は通話ボタンを押すなり訊いた。
「どうだったんだ」
携帯電話のスピーカーからは若松の声がした。
警察官は総じて声が大きいはずだが、彼は警察施設にでもいるのか、近くに同僚でもいるのか、ボソボソと小声で話し出した。周りの雑音と混じってよく聞き取れない。
「聞こえないぞ。もっとはっきり話せ」
〈あんたの見立てどおりだったと言ってるんだ。事件のあった翌々日、あんたの言う男たちが成田から大連行きの飛行機に乗ってる。乗客名簿に名前があった〉
「そうかい。よくやってくれた。カネは新宿署にまた持って行かせる」
〈よしてくれ。あんなところに大金持ってくるやつがあるか。なじみにしてる喫茶店がある。そっちに持ってきてくれ。それと……もう情報を回すのはこれが最後だ。これ以上はやばい〉
若松は早口でまくしたてると、代々木の喫茶店を指定してきた。
彼はパチンコで溶かした四百万円を受け取り、子供用の教育資金を使いこんだ事実をなんとかもみ消し、さらに二百万円の情報料を岡谷組の企業舎弟を通じて懐に入れていた。
「わかった。あんたは実際よくやってくれた」
不破は鷹揚に答えた。携帯電話のボタンを押して通話を終える。
若松は以前に漏らしていた。家族崩壊の危機をギリギリ乗り越えられたときは、今度こそ博奕に現を抜かさずまっとうに働くと。
しかし、悪銭身に付かずということわざは正しい。渋谷を根城にする親戚団体から、若松が同地のパチンコ店で昨夜大勝ちしていたとの情報が寄せられた。ヤクザに内部情報をリークするという禁忌を犯したにもかかわらず、舌の根の乾かぬうちに賭場へ駆け込んだのだ。岡谷組が放っておいても、いずれ若松のほうから接触してくるものと思われた。
不破は組長室の窓に近づいてブラインドを下ろした。室内の電灯を消しながら南場に告げる。
「少し眠るよ」
「それがいい。なにかあったらいつでも呼んでくれ」
南場が組長室から出て行くと、不破は革靴を脱いで応接セットの長椅子に横たわった。
事務所に詰めている若衆がタオルケットを持ってきて、不破の身体にかけてくれた。アイパッチを外して両目をつむる。
二晩も完徹すれば、さすがに応える年齢になった。奥歯や唇だけでなく、肩や腰の筋肉が強張り、目の奥がズキズキと痛む。蓄積した疲労で身体がシートに沈み込んでいきそうになる。こんな疲れ切った状態では、これから先が思いやられる。回復に努めなければならない。
――叔父さんのせいだ。
雄也がずっと不破をなじっていた。それが幻聴の類なのはわかっていた。
――父さんの命だけじゃ飽き足らないのか。赤の他人のくせに。
不破は長椅子から身を起こし、社長机の引き出しを開けた。なかには名刺サイズの紙きれが入っている。
かつてヤクザ病院に偽造させた血液型検査証明書だ。不破の名前と“O型”と記されている。それをワイシャツの胸ポケットにしまい、再び長椅子に身を横たえた。
8
ベントレーは東池袋の商店街を進んでいた。
元号が平成に変わってそれなりの年月が経つ。しかし、このあたりは都電が現役で活躍しており、電停の傍を走るこの道には個人商店が並んでいた。昭和のような雰囲気が色濃く残っており、昔ながらの八百屋や肉屋、パン屋などが点在している。
夜九時になろうとする現在は、ほとんどの店がシャッターを下ろしており、電化製品の修理で忙しそうな電気屋や、夜は居酒屋と化す食堂の灯りが見える程度だった。不破が上京したてのころの新宿周辺と似たような雰囲気がした。
商店街からさらに一本外れた路地に目的地が見えた。経年劣化した軒先テントには“ヘアーサロン”とかすれた文字が残っており、出入口のそばには埃で汚れたサインポールが放置されていた。
「あそこだ。停めろ」
不破は運転手に命じた。
「押忍」
ハンドルを握っているのは丸坊主の小男だった。宇佐美正直といい、身長は百六十センチ程度しかないが、今の岡谷組でもっともケンカを得意としている猛者だ。
宇佐美は保守系大学の空手部に所属しつつ、歌舞伎町の噴水広場でよその大学の応援団やラグビー部員相手に腕試しをしていた。大山倍達のケンカ空手に憧れた挙句、学生相手の素手喧嘩では満足できず、岡谷組の地回りともやり合うようになった。岡谷組系の準構成員八人を病院送りにしたが、紺野たちに四人がかりで襲われ、ナイフで腹を刺されて重傷を負った。空手愛好家の不破の目に留まり、岡谷組の組員になるよう誘った。
宇佐美はベントレーを閉店中のクリーニング店の前に停めた。助手席の紺野が窓を開けてあたりを警戒する。不破たちの間に漂う緊張感とは裏腹に、商店街はのどかな空気に包まれていた。都電荒川線の電車の走行音が耳に届き、家路に向かうサラリーマンや学生が静かに歩いている。
隣の土居に声をかけられた。
「行きましょうか」
不破は窓に目をやった。
「……お前、残る気ないか。南場の兄弟だけに後事を押しつけるってのは具合がよくない」
「ありません」
土居はきっぱりと答えた。この暴走族出身の男が不破の提案を蹴ることはめったになかった。
かつて近藤と不破にこてんぱんに叩きのめされてから、土居は岡谷組の組員として忠実に任務をこなした。殺しや後始末といった汚れ仕事もいとわない。
この男も不破と同じく近藤家に入り浸り、歩美がこしらえた料理を胃袋に詰め込み、雄也の東大進学や就職を我が事のように喜んでいた。
「野暮な提案だった。行こう」
「はい」
不破たちは車を降りて路地の理髪店へと向かった。
とうの昔に店を閉じたらしく、店舗兼住宅には清潔感がない。店の窓ガラスはサインポール同様に茶色く汚れ、ブラインドも降りていて店内はうかがいしれない。玄関ドアもアルミ製のガラスドアだったが、今はカーテンが引かれている。
任海狼が指定したのはこの場所だった。二時間前に電話で知らせてきた。店舗は十坪程度の大きさのようだが、隣には住居用の玄関が別に設けられてあり、建物自体はちょっとしたアパート並みの大きさだった。理髪店自体は寒々しくなるほど暗いが、住居の窓はどこも煌々と灯りがついている。
理髪店の隣には似たような一軒家があった。そこも元はなにかの店舗だったようで、埃まみれの軒先テントがあった。人が住んでいるのかはわからず、夜になっても灯りひとつついていない。
路地を挟んだ向かい側は四階建ての小さなオフィスビルで、この時間帯はどこのフロアも電灯が消えている。麻雀の洗牌や酒宴の騒音、多少の荒事などが起きても、近隣住民から目をつけられずに済みそうなアジトに見えた。
宇佐美が理髪店の玄関ドアに手をかけた。ドアは施錠されているらしく、ガタガタと音を立てるばかりだった。
玄関ドアのカーテンが勢いよく開かれた。どちらも初めて見る顔だ。任海狼の手下のようで、アディダスのスウェットを来た男と、オーバーサイズのTシャツを着たスケーター風の若者が姿を現す。どちらも耳にピアスをつけ、胸元には太い金色のネックレスをぶらさげている。渋谷のクラブあたりにいそうな男たちで、全員がスーツ姿の不破たちとは対照的だ。
スウェットのほうが不破を睨みながらドアを解錠した。スケーター風がゆっくりとドアを開ける。宇佐美と紺野が先に入ろうとすると、スケーター風が立ちはだかって行く手を阻んだ。
「待てコラ。ボディチェックしてからだ」
「なんだ、このガキ。その汚え手で触ろうってのか?」
紺野が上目遣いになってうなった。
スケーター風がTシャツの裾をたくし上げた。腹に入れた自動拳銃を見せつけてくる。紺野がだからどうしたといわんばかりに顔を近づける。
「よせ」
土居が舎弟分ふたりを止めた。彼は両腕を上げた。不破も同じくそうして告げた。
「とっとと済ませろ」
東北幇のふたりは不破たちのポケットに不躾に手を突っ込んだ。全員の両脇や腰に触れて武器の有無を調べるが、ライターや携帯電話ぐらいしか出てこず、ふたりは無言でそれらを不破たちに返した。
任海狼の警戒ぶりを考えれば、ボディチェックは織り込み済みで、最初から武器の類は持っていない。全員がドスひとつ携えていないのを怪訝に思ったのか、ボディチェックは二度にわたってしつこく行われた。足首や手首まで触られてから店内へと通された。
理髪店は原形を留めてはいた。やはり十坪程度の大きさで、三つの電動式バーバーチェアと陶器製の洗面台が備わっており、壁には業務用の鏡が設置されていた。
収納棚のうえには古いテレビとビデオデッキが置かれ、その横のは人の頭ほどある招き猫の置物がある。部屋の隅には古臭いパーマ機やタオルウォーマー、スツールやステンレス製のワゴンなどがまとめて置かれてあった。
壁の上部には“大入”と赤文字で記された看板や、“商売繁盛”と筆文字で書かれた大型のシャモジが掲げられてある。いかにも昭和の床屋というインテリアで、出入口近くの本棚には『ビー・バップ・ハイスクール』、『あした天気になあれ』『課長 島耕作』といった人気シリーズ漫画がぎっしり並んでいる。
しかし、今は不良どもの汚れた巣窟以外の何物でもなかった。バーバーチェアには脱ぎっぱなしの衣服や段ボールが積まれ、洗面台は屑籠と化し、スナック菓子の袋や空き缶の山ができていた。
床は飲み物をこぼしたまま誰も拭かずにいるせいか、ベトベトとした粘液が嫌な輝きを放ち、蟻や甲虫がたむろしている。大麻を吸うやつがいるのか、タバコのカビ臭さに加えて、お香と猫の小便を練り合わせたような悪臭が淀んでいる。
不破たちは店の奥へと進んだ。奥には順番待ち用の長椅子が置かれ、任海狼が中央にどっかり座ってタバコをくゆらせていた。床が灰皿代わりらしく、長椅子の下には大量の吸い殻が落ちていた。丈の低い木製のテーブルに両脚を乗っけていた。
『翡翠苑』で初めて会ったときこそ、不破たちを礼儀正しく迎えたものだが、野犬のような態度を隠そうともしなかった。長椅子の横には隣の住居につながる合板製のドアがある。
任海狼の両脇には、ベースボールキャップの男とエアジョーダンを履いた若者がいた。このふたりは『翡翠苑』にいた連中で、暴走族時代から任海狼とつるむ側近だ。不破にビール瓶で殴打されるといった因縁もあり、不破を恨みがましく上目遣いで睨んでくる。
狂気の武闘派として知られる龍星軍の元メンバーにしては、側近どもの身体の線は細かった。だからといって、ケンカが弱いとは限らない。格闘技に熱を入れているようには見えないが、ボスの任海狼と同じく躊躇せずにナイフで相手の急所を刺すか、平気で目玉に親指をねじ入れてきそうな暗い目つきをしている。
ボディチェックをした男たちが、ふたつのパイプ椅子を任海狼らの対面に設置した。任海狼がそこに座れといわんばかりに手を振った。紺野と宇佐美が汚物でも見るように頬を歪める。
長椅子の横のドアが開いた。角刈りの中年男とスポーツ刈りの若者がのっそりと姿を現した。どちらも身長百八十センチを超える大男で、体重は百キロ以上はありそうだ。冬眠前のヒグマを思わせる。ファッション誌を愛読してそうな垢抜けた格好の任海狼たちとは雰囲気からして違う。どちらも着古したトレーナーの上下という格好だ。衣服に関心が持てるほど余裕のある人生を歩んできたわけではなさそうだ。
任海狼はふたりに中国語で見張っていろと命じた。ふたりはそれぞれ長椅子の傍で仁王立ちした。日本でワルとしてのし上がった任海狼と違い、中国東北部から出稼ぎにきた大陸の男たちのようで、ずっと肉体労働に従事してきたらしい。力は有り余っていそうだった。
任海狼の用心深い性格を考えれば、一ダースくらいの手下で取り囲んでもおかしくはない。たとえヤクザといえども、手ぶらの中年ふたりと手下たちだけなら、この人数で対処できると踏んだのだろう。任海狼の判断はさして間違ってはいない。前回は不破に子分をビール瓶で打ちのめされたとはいえ、東北幇側は抜け目なく銃器まで所持しているやつもいる。武力の差は歴然としている。
不破はパイプ椅子の座面を押した。椅子に細工がされていないのを確かめてから腰かけた。若頭の土居もパイプ椅子を調べてから座った。宇佐美が不破の傍に立ち、紺野が背後を警戒して店の出入口側を向く。
不破が先に口を開いた。
「挨拶や前置きは省く。なにか情報を手に入れてくれたのか?」
「入れたよ。親分さんにこっぴどく脅し上げられたからな。おれなりに同胞相手に聞いて回ったさ」
「なにがわかった」
「いくらで買う」
任海狼が大儀そうにテーブルから足を下ろした。長椅子の背もたれから身体を起こす。
「あんたは頭を下げるし、礼もきちんとするといった。忘れたとは言わせねえぞ」
「コレだ。犯人につながる情報なら」
不破は指を一本立てた。
「レンガひとつかよ」
レンガは一千万円を示す隠語だ。不破は首を横に振った。
「一億だ」