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4(承前)


『ブライトネス』は王大偉ひとりで築き上げた会社ではなく、妻の徐慧華の助力で成長したと言われている。彼女の父親は台中の商業銀行の頭取だったらしく、王家をしのぐほどの資産家だったという。
 戦争で焼け野原と化した角筈の住宅地に、王大偉が思い切って投資できたのは徐家の財産によるところが大きいらしい。
『ブライトネス』の筆頭株主は創業者の王大偉だが、徐慧華も大株主として時には経営にしばしば物申すなど、現在も陰の女王として君臨していた。
 この宴席で初めて会ったふたりの男たちにしても、徐慧華の弟の息子たちであり、社内には徐家の口利きで入った者が多く、ボウリング場の主任だった下川も徐家のコネで入社したのだという。
 王大偉が大衆劇場『モンマルトル』の経営に失敗して苦境にあえいでいたときも、徐慧華は親戚中を駆けずり回って融資の約束を取りつけた。糟糠の妻として敬意を集める一方、ふたりの息子たちに徹底した英才教育を叩きこんでアメリカの一流大学に留学させ、夫の愛人を探し出して新宿から追放するなど、王国屈指の猛女として恐れられてもいた。
 徐慧華は息子たちの女性関係にも口出しした。嫡男の王英輝には学生時代から交際していた日本人女性がいたが、その女性が平凡なサラリーマン家庭で育った“平民”だと知ると、徐慧華は半ば強引に別れさせては皇太子にふさわしい嫁探しに取りかかった。息子に数回の見合いをさせ、ついには財閥系不動産企業の役員の娘をめとらせた。
 自分の腹を痛めて産んだ息子たちは丁寧に育ててコントロールし、近藤のような血のつながりのない愛人の子は冷遇した。不破少年が王大偉に目をかけられてエリート教育を受けたり、幹部候補の正社員として迎えられれば、徐慧華が黙っているとは思えなかった。
 王大偉がため息をついた。
「そこまで考えていたのか」
「この街はもっと大きくなってぐはずだべ。錦城連合がまた狙って来るがもしんねえし、関西のヤクザはもっと荒っぽいごどをやるって噂だべ。おれは傑志兄さんみてえに、身体張って一族を守りてえんです」
 不破少年は絨毯のうえに跪いて土下座をした。
 自分はもうしんとく丸になれたのだ。悪い継母に呪いをかけられて失明し、物乞いにまで落ちぶれたしんとく丸は、善人の娘の助力や観音さまのご加護もあって、ついに父との再会を果たして幸福な人生を送ったという。
 不破少年も同じだ。新宿に来た当初こそひどい目に遭い、危うく浮浪児になりかけた。しかし、近藤や歩美に助けられたばかりか、父たちに温かく迎えられたのだ。
 しんとく丸はお人好しだったわけではない。自分に呪いをかけた継母とその子供の首を切り落として復讐を遂げた。母からは決して恨んではならないと諭されているが、徐慧華に対してわだかまりがないわけではない。
 ボウリング場で働いているときは、一度も彼女には会わなかった。だが、正社員として雇われれば、彼女と顔を合わせる日も来るだろう。そのときに自分がなにをしでかすかわからなかった。
「確かにおふくろはいい顔しないだろうが……」
 王英輝の声が耳に届いた。
「隆次、顔を上げなさい。椅子に座り直すんだ」
 王大偉に命じられて再び円卓の席についた。
 近藤はビールを手酌でぐいぐいと飲んでいた。さきほどまでの陽気な酒とは違って荒れた飲み方だ。苦々しい顔つきをしたまま、不破少年とは目を合わせようともしない。
 不破少年の胸が苦しくなった。極道の道に進むなど嫌がるだろうと踏んではいたが、これほど怒るとは思っていなかった。弟の行く末を本気で案じてくれていたのだ。
 王大偉は岡谷に声をかけた。
「親分、どうだろうか。息子をあんたのところで預かってもらえないだろうか。坊ちゃん揃いの学校へ行くより、そちらで修行をさせるほうが学ぶことも多いかもしれん」
「本気ですか」
 岡谷がタバコの煙でむせた。王大偉はうなずいた。
「好きな道を選べと言ったばかりだ。隆次が望むのなら止められん」
 不破少年は岡谷に向かって頭を下げた。岡谷はしばらく腕組みをして天井を見上げた。
「親子の対面を果たしたばかりでしょうに。天国の有紀子さんになんて言えばいいのか」
 岡谷は根負けしたように肩を落としつつも不破少年を手招きした。岡谷は『モンマルトル』のタニマチでもあった。酒宴ではよく笑う明るいおじさんで、酒臭い息を吐きながら母のタップダンスの巧さについて語ってくれた。しかし、今は混沌の街を仕切る親分の顔つきに変わっていた。和服の襟を正して表情を引き締める。
「稼業人の道を選んだからには、父親は王会長ではなくなるよ。私こそが親だ」
「わがってます」
 不破少年は岡谷の視線をそらさずに答えた。岡谷は高粱酒のボトルを手にして、空いたショットグラスに酒を注いだ。円卓の男たちに言う。
「みなさんには立会人になってもらいます。盃の準備はしてこなかったので、こいつは仮盃ということになりますが、仮であろうが本物だろうが盃の重みは変わりません」
「重々承知している」
 王大偉が円卓の男たちを代表するように答えた。
 岡谷が高粱酒をわずかに含み、ショットグラスを不破少年に渡した。
「あれこれと口上を述べるつもりはないよ。どうせ決意はもう固まっているんだろう。その酒を一度に飲み干して、そのグラスは大事に持っておくんだ」
 不破少年はショットグラスを両手で持つと、残りの高粱酒を一度に口に入れた。
 炎の塊を口に入れたかのように舌や口内が痛み、強烈な刺激で涙がこみ上げてくる。無理やり飲み下すと、火酒が喉と食道を滑り落ちていくのがわかった。胃袋がカッと熱くなる。
「我が一族と岡谷組は身内同然。我が息子の新たな門出を祝おう」
 王大偉が拍手をした。円卓の男たちがそれに合わせて手を打つ。王智文が指笛を鳴らす。
「お前ほどの度胸があれば、きっと新宿ジユクの顔役になれるぜ。マーシとお前の二枚看板だ」
 王英輝が歩み寄ってシワひとつないハンカチをよこした。不破少年は一礼してそれを受け取り、親子盃となったショットグラスをハンカチで包んだ。
 万雷の拍手のなかで、近藤だけは違っていた。不承知と言わんばかりにビールをあおり続けている。この兄に認めてもらうためにはより励まなければならないと思う。
 近藤のような男になって一族を守ってみせる。不破少年は己に誓い、ショットグラスをポケットにしまった。

 

(つづく)