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 南場がクラクションを何度も鳴らした。千鳥足の酔っ払いが慌てて脇に飛びのく。
 カローラバンは紙屑や嘔吐物を踏みつけながら、歌舞伎町を猛スピードで突っ走った。
 この街がわずかな眠りにつく夜明けの時刻とあって、街を歩く人の数は少ない。しかし、朝まで飲んだくれてた酔っ払いや行き場のない浮浪者がうろついている。ギリギリのところでかわす。
 車内は小便の臭いが充満していた。暴走族のガキが失禁して後部座席を汚したが、それを拭き取っている時間がなかった。不破たちは仕切場から歌舞伎町へと急いで向かったのだった。
 土居たちをたっぷり脅し上げたうえで解放した。岡谷組にケンカを売ったうえに鞭馬会まで裏切ったのだ。少年たちも新宿でグレていた以上、その意味を熟知していたようだった。当分は北海道の繁華街あたりまで逃げると宣言し、青い顔をしながらほうほうの体で仕切場から逃げ出していった。
岡谷オヤジだ……英輝社長もいます」
 南場が前方を指さした。
 コマ劇場の傍にあるブライトネスビルが見えてくる。静かになった歌舞伎町で、同ビルの周りにだけ人だかりができていた。南場の言うとおり、そのなかには寝間着のうえからトレンチコートを羽織った組長の岡谷と、ジャンパー姿で運動靴の王英輝がいた。その他に岡谷組の部屋住みの若衆たちが、ブライトネスビルの壁や窓ガラスと向き合って作業をしていた。
 カローラバンがブライトネスビルの前に乗りつけた。車が停止すると同時に、近藤や不破が降り立った。
「お疲れ様です!」
 部屋住みの若衆たちが近藤に頭を下げた。顔を鼻血まみれにさせた不破にぎょっとしながらも作業に戻る。
 若衆たちはブライトネスビルの壁や窓のあちこちに貼られたポスターを懸命に剥がしていた。
 A4サイズのポスターにデカデカと写っているのは、王英輝と杉若善一の全裸写真だった。ブライトネスビルの壁や一階の喫茶店の窓ガラスに何十枚と貼られてあった。
 粘着力の強い接着剤が使用されているようで、若衆たちは剥ぎ取るのに苦労していた。焼きそば用の金属製のヘラでこそげ取っている者もいる。路上には剥がしたポスターの紙屑が山をなしていた。この深夜の間に何者かがベタベタと貼りまくったらしい。
「ご苦労様です」
「おう」
 不破たちは岡谷に挨拶した。岡谷はタバコをくわえながら、忌々しそうにブライトネスビルを見つめていた。
「どうした、そのツラ」
 岡谷が血にまみれた不破の顔を心配そうに覗きこんだ。
「一発いいのをもらっちまって」
「お前にそんだけの傷を負わせたのか。暴走族なんてのは騒音出すだけしか能のねえ連中と思ってたが……鼻骨までは折れてねえようだな」
「手を焼かせるガキどもでした」
 不破はとっさに嘘をついた。近藤の鉄拳制裁によるものだとは言えない。
 不破は岡谷になにかと目をかけてもらっていた。部屋住み時代もオジ貴や兄貴分にはひどくしごかれたが、岡谷に叱られた記憶はほとんどない。盟友である王大偉の息子だからかもしれなかった。自分だけ特別扱いされているようでかえって居心地が悪かった。
「見るなあ! あっちへ行け」
 悲鳴のような声があがった。
 声の主は王英輝だった。サラリーマン風の中年男ふたりに金属製のヘラを振りかざしていた。中年男たちが目を三角にして怒るものの、ヘラを持ったヤクザたちに睨まれて、逃げるようにその場から立ち去った。
 王英輝もポスター剥がしに加わりつつ、野次馬根性で近寄ろうとする者を警戒していた。その目には追い詰められた者特有の危うい光があった。
 岡谷がまずそうにタバコを吸った。
「王会長や徐さんには知らせてない。智文社長にもだ。本当は一族が結束して事にあたるべきだが、みんなに知られちまったら英輝社長のプライドが粉々だ」
「どうされますか?」
 近藤が岡谷に小声で尋ねた。すでに犯人は鞭馬会の新井と判明し、その情報は岡谷の耳に届いている。
「消すよ。是非もねえ」
 岡谷は即答した。吸いかけのタバコを地面に捨て、サンダルで忌々しそうに踏みしめて消した。
 近藤は面食らった様子だった。無政府状態だった戦後闇市時代ならともかく、岡谷は派手なドンパチを好まない。
 岡谷は歌舞伎町を外国人も観光に訪れるような一大娯楽街にしようと汗を掻いた者たちの考えに共鳴し、銃弾が飛び交うような荒事を極力避けようと力を尽くした。彼らが思い描いていた未来とは異なり、健全な娯楽街に成長したとは言い難いが、今もその考えは変わっていない。他の組織が揉め事を起こせば、すぐに間に入って火消しも行ってきた。
 もし火の粉が飛んでくるときは王大偉とタッグを組み、政官界を動かすなどして寝技で退かせてきた。新井に長い懲役生活を送らせたのがいい例だ。
 昭和三十九年から始まった警察組織の暴力団壊滅作戦により、ヤクザ組織のトップや最高幹部が逮捕され、大組織が次々に解散に追いやられた。
 錦城連合も約四百人もの逮捕者を出し、一時的とはいえ当局の圧力に屈して組の看板を下ろした。そんな嵐のような時代に入ってからも、岡谷は当局の目を巧みにかわし、歌舞伎町の首領として君臨し続けたのだ。
 岡谷が近藤に小声で尋ねた。
「やつに連絡取れるか?」
「すぐにでも」
 近藤がうなずいた。
 岡谷たちの目が鋭くなった。やつとは誰なのか。軽々しく聞けそうにはなかった。
「お前はひとまず顔を洗ってこい」
 近藤が白のハンカチを取り出した。歩美がいつもアイロンをかけ、シワひとつなく四つ折りにしたものだ。それを不破に渡した。
「兄貴を守るぞ。おれたちで」
「なんでもやるよ。おれも一族の男だ」
「いいぞ」
 近藤に頭をなでられた。
 これから修羅場が待っているのだと悟る。弟を巻きこみたくはなかった。近藤のそんな本音まで伝わってくる。彼の目が潤んでいるようにも見えた。




 夕方の大久保通りでその男を出迎えた。タクシーから降り立った男は、米屋か酒屋のオヤジに見えた。
 男の肩は岩のごとく盛り上がっている。胸板も西洋の甲冑みたいに分厚い。頑健そうな体つきこそしているが、腹には脂肪がでっぷりとついていた。身長も不破に比べてずっと低い。前頭部が禿げ上がっているためか実年齢よりも老けて映る。近藤と同年齢とはとても思えない。
 男の服装や持ち物は簡素だった。白のセーターにスラックスという出で立ちで、ガキに人気のマジソンバッグを手にしている。貫禄もへったくれもなかった。
「ご苦労さまです!」
 南場と不破は男に最敬礼をした。
 本当にこの男なのだろうか。不破は頭を深々と下げながら、横の近藤にちらっと目を向けた。彼は男と固い握手を交わした。
「兄弟、よく来てくれた」
「おうおう、出迎えご苦労!」
 男の日本語は流暢だった。訛りが少しあるぐらいだ。台湾人で名をシーグオ ハオといった。
 近藤が台湾で兵役に就いていたころ、彼がもっとも親しくしていた軍隊仲間だった。部隊内で最強の腕を誇ったらしく、士官に凄まじい身体能力を見せつけ、中華民国陸軍の空挺部隊である“シエン ロン シヤオ ズー”への入隊を勧められるほどだったという。
 近藤がそれほど褒め称える男なのだ。ブルース・リーのような鋼の身体の男が来るものと期待していた。
「お持ちします」
 石国豪からマジソンバッグを受け取った。
 中身は衣類が少し入っているだけのようでやけに軽い。ほぼ手ぶらでやって来たようだ。
「ひとまずうちで旅の垢を落としてくれ。女房もお前が来るのを待ってる」
 近藤が笑顔でねぎらった。彼の今の自宅は百人町のマンションだった。大久保通りから路地を北に進んだところにある。
「女は?」
 石国豪はあたりを見回した。太い眉とギョロ目が特徴的で、西郷隆盛の肖像画が頭をよぎった。
 近藤が苦笑した。
「相変わらずだな。ぬかりはない」
「本当だろうな。おれにとって女は一番の関心事だ。頼んだぜ。高雄まで噂が耳に届いてるんだ。こっちじゃサラ金ってのが幅を利かせて、浪費しまくった素人女が次々と風呂、、に沈められてるんだとな。こんな大豊作の時期を見逃すわけにはいかねえ」
 石国豪は大声で笑うと、近藤の肩をなれなれしく叩いた。
 不破は思わず南場を見やった。彼も会うのは初めてのようで、不躾な口を叩く台湾人に眉をひそめる。
 南場が不破に耳打ちした。
「なんなんだ、ありゃ」
「おれもさっぱりです。だけど兄貴の親友ですから」
「『頼むぜ』と言いたいのはこっちのほうだ。豚みたいに肥えやがって。『ゴルゴ13』みたいにビシッとしたやつが来ると思ってたのによ。お前のほうがよっぽどそれらしく見えるぞ。試しに一発殴りに行ってこいよ」
「バカ言わんでください」
 不破は首を横に振った。
 南場の苛立ちは理解できた。近藤は新宿の繁華街を仕切る顔役のひとりであり、不破たちにとってはスーパースターなのだ。そんな近藤に対して石国豪は偉そうな口を叩き、まるで自分が格上であるかのように振る舞った。不破の頭も熱くなりかけた。

 

(つづく)