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昭和六十二年

4(承前)

 石国豪が功労者なのは間違いない。この男が岡谷組のために暗殺した人間の数は相当なものだろう。
 その一方で、破天荒な生き方ゆえに方々で恨みを買っているはずだ。生きた火薬庫であることには変わらず、新宿で野放しにしていればどんなトラブルが起きるかわからない。警察組織に捕らえられて、過去に犯した罪を全部ぶちまける可能性さえある。岡谷組の監視下に置く必要があった。
 近藤がカウンターに両手をついた。
「国豪、頼む」
「すまねえな。もう少し時間をくれねえか。おれにもプライドってもんがある。これまでさんざん生意気な口叩いてきたんだ。こんな無様な姿をさらしたくねえ」
「……わかった。今日はお前に会えただけで満足だ」
 近藤はジャケットの内ポケットに手を伸ばした。
 分厚く膨らんだ茶封筒を取り出すと、それをカウンターのうえに置いた。中身は厚さからして百万円の現金だとわかった。
「心ばかりだが、受け取ってくれ」
「すまねえな」
 石国豪は懸賞金を受け取る力士のように手刀を切り、茶封筒を鷲掴みにした。その顔には卑屈な笑みが浮かんでいた。九年前には見られなかった顔つきだ。
 不破の腹が熱くなる。なにがプライドだ。近藤にはしっかり連絡を取ってタカっておきながら、組に面倒を見られるのを嫌がるとは。
 不破とも少なからぬ因縁があったが、この男は他の岡谷組組員にも横柄きわまる態度を取ってきた。岡谷組の本部長となった南場には、実銃の銃口を突きつけた過去もある。他にもメンツを潰された者もいるだろう。組員たちの報復を恐れているのかもしれなかった。
「わかった。いつでも連絡してくれ。何度も言ったが、お前は組の功労者だ。遠慮はいらない」
「さっそく病院に行くとするよ。これ以上ひどくなって足をちょん切るのはごめんだからよ」
 近藤と石国豪は固い握手を交わした。
 近藤と不破は店の出入口に向かった。不破が玄関ドアのロックを外して扉を開ける。
 近藤が先に店を出たところで、石国豪が声をひそめて不破に声をかけてきた。
「不破さん」
「なんでしょう」
 不破は口元を引き締めた。
 石国豪からさん付けで呼ばれ、油断すると軽侮の感情が露骨に出てしまいそうだった。この男の勘はバカにできない。
「その節は無礼ばっかりやらかしちまって申し訳なかった。あんたの名前は高雄まで聞こえてるよ」
 不破は両膝に手をついて頭を下げた。
「とんでもない。こちらこそとんだ失礼を」
「世話になるね」
 石国豪は両手を合わせた。不破は会釈をして店を後にした。
 近藤とともに通路へ出ると、ドアの内側からガチャガチャと金属音がし、再び施錠がなされた。
 近藤と顔を見合わせた。彼の顔から笑みが消え、渋い表情を見せながらエレベーターへと向かった。兄の背中が寂しげに映った。
 雑居ビルから外に出た。運転手の土居がベンツからすばやく降り、いつもよりキビキビとした動作で後部ドアを開けた。不破たちの不機嫌そうな匂いを察知したらしい。
 近藤は眉根を寄せながらタバコをくわえた。不破がライターで火をつける。兄は若頭になってから喫煙本数がかなり増えた。
 彼は思い直したようにタバコを地面に落とした。長いままのタバコを革靴でもみ消す。
「控えるとするか。喫煙は糖尿のリスクが上がるんだそうだ」
「いいかもしれません」
 中国語を話す若い女たちが横を通り過ぎた。
 ピンクのパンツや黄色のワンピースなど派手な色の私服に身を包み、それぞれ買い物袋を手にしていた。実母散やビタミン剤といった薬がぎっしり詰まっている。台湾クラブで働いている女たちと思われた。
 台湾には日本のような国民皆保険制度がまだない。気軽に医者には頼れないため、日本の常備薬が故郷への土産として喜ばれるという。西武新宿駅前の大きな薬局は、外国人女性たちでいつも賑わっている。
 近藤は彼女たちの後ろ姿を見やった。
「国豪を見守ってくれ。あの姉ちゃんたちのヒモのなかには、あいつを死ぬほど恨んでるやつもいるだろう」
「心得てます」
「それにしても……兄弟ほどの男でもヤキが回るものなのか。あいつだけは別格で、死ぬまで野獣のままと思ってた」
「おれもですよ」
 この兄の言うとおり、自分も同じく石国豪を人間を超えた存在と見なしていた。冷静に考えれば、あれほど無茶な生き方を送っている男が、いつまでも最盛期のままでいられるはずがないのだ。
 とはいえ、油断は禁物だ。石国豪は凶暴だけが売りの単細胞ではない。狡猾さも持っている。近藤を頼って歌舞伎町に逃れてきても、腹の底では相変わらず兄や岡谷組をコケにしていても不思議ではないのだ。
「目を光らせておきます」
 不破は雑居ビルの四階を見上げ、近藤とともにベンツに乗りこんだ。



 けいすけが写真を手に取った。
 応接セットのソファの背もたれに身体を預け、彼はひどいダミ声で訊いてきた。
「この肥った男ですか」
「九年前の写真だ。実物は糖尿病を患って痩せ細ってる」
 不破は社長室の窓から外を見下ろした。
 道路を挟んだ向かい側には新宿プリンスホテルの建物がそびえたっていた。路上は西武新宿駅の乗降客でごった返している。
 不破が経営する消費者金融『おうファイナンス』の事務所は、西武新宿駅前通りの雑居ビルの六階にあった。岡谷組のフロント企業であり、社員たちのほとんどはカタギだが、事実上は不破の組事務所となっていた。
 不破は谷田部に訊いた。
「やってくれるかい?」
「そりゃ社長の頼み事ですから、もちろんやらせていただきます。ただ病人ひとり見張るだけなら、そちらの若いさんで充分じゃありませんか?」
 谷田部は写真に目を落としたまま首を傾げた。
 彼が手にしている写真は、九年前に近藤の自宅に石国豪を招いたさいに撮られたものだ。
 ダイニングで宴を催している最中に、歩美がカメラのシャッターを切った。南場や不破が無理やり笑顔を作るなか、主賓の石国豪は豆大福を手したまま偉そうにふんぞり返っていた。
「そいつは台湾から来た生粋のワルだ。台湾ヤクザと鉢合わせするのを恐れてひどく警戒している。餅は餅屋だ。気づかれないように見張るには、あんたのような専門業者に任せるしかない」
「それほどの大物ということですか。新宿ジユクの岡谷組が注意深く動くほどの」
「そんなところだ」
 不破は言葉を濁すと、元警察官の谷田部はさらに興味をそそられたようだった。茶をすすりながら写真をじっと注視する。その視線はヤクザとは異なる鋭さがある。
 谷田部は小さな調査会社の経営者で、かつては警視庁の刑事だった。四谷署の尾崎の紹介で知り合い、これまでにも何件かの調査を任せていた。
 尾崎と同じく防犯畑を歩んでいたらしく、刑事としての立場を利用して管轄内のパチンコホールに出入りし、風営法違反だと因縁をつけて小遣いをせびり、それが警務課にバレて職を追われた。
 腐った警察官ではあったものの、警察組織とのパイプを維持し続け、地上げの対象となった土地所有者の家族構成や愛人の住処をすぐに割り出してみせた。
「こちらも喜んで協力しますよ。最近は台湾や韓国からの売女やヤクザが大量に流れ込んでますからな」
「おれも台湾の血を引くヤクザなんだけどな」
「や、こりゃ失礼。近藤の若頭カシラや不破社長は別格ですとも」
 谷田部は慌てたように両手を振った。
 不破は心のなかで舌打ちした。尾崎と仲がいいだけあって、谷田部も左翼嫌いの反共主義者だ。おまけにアジア人に対して妙に居丈高になる差別主義者でもある。不破のことも心の底では蔑んでいるのだろう。調査の腕がよくなければ、とっくにギャンブル漬けにでもして、女房を風呂に沈めていたはずだ。
 谷田部は写真をテーブルに置いた。
「しかし、二十四時間で監視となると、けっこうな人数を使うことになりますが」
「わかってる」
 不破は部屋の隅にある業務用金庫にキーを挿し、レバーハンドルを回した。重い金庫の扉を開けた。

 

(つづく)