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 不破は驚きを通り越して呆れていた。
 小男は食べる手を止めなかった。前菜のバンバンジーピータンを皮切りに、蒸しアワビやフカヒレの姿煮といった高級料理を平らげても、満腹になる様子を見せない。
 彼は不器用な手つきでカオヤーピンを巻くと、北京ダックを愛おしそうに口に入れた。両目をつむって感慨深そうに噛み締める。
「こんなうまい料理がこの世にはあるんですな。私の安月給じゃ一生ありつけなかった」
 小男はうっとりと中空を見つめ、グラスのビールをあおった。
「失礼します」
 横にいた不破がビール瓶を手に取り、小男のグラスにビールを注ぐ。彼は恐縮したように首をすくめた。
「や、どうもどうも。あの王大偉さんのご子息たちからこんなによくしてもらうとは。自分が皇帝になった気分ですわ」
 近藤も小男の対面に座り、さかんに酒と料理を勧めた。
「今度はご家族も連れていらっしゃってください。ざきさんとは家族ぐるみでおつきあいしたい。兄たちもあなたには感謝しきれないと常々言っています」
 不破たちがいるのは中華料理店『富貴菜館』の個室だ。ブライトネスビル内にある王一族の迎賓館であり、この小男こと尾崎いさおに値の張る料理を次々に提供し続けている。
 不破は背広を着て給仕係に徹していた。スラックスの破れは仕立て屋のミシン刺しでひとまず補修してもらったが、相変わらず窮屈でまた破けてもおかしくはない。
 尾崎がメニュー表を開いた。
「不破君、このラオチユーをもらってもいいかな」
「わかりました。ぬる癇にすると香りが増しますよ」
「いいねえ。お願いできるかな」
 不破は個室を出ると、店員に温めた老酒を持ってくるよう頼んだ。尾崎が頼んだのは十五年も熟成された酒で、この料理店でもっとも値の張る中国酒だ。
 尾崎は大酒飲みだった。すでにひとりで四本のビールを空にしていたが、まだまだ飲み足りなさそうだった。ペースが落ちる様子はまったくない。グラスのビールをうまそうに飲む。
 不破が個室に戻ると、近藤が尾崎に頭を下げていた。
「今度もあなたにはお世話になった。改めてお礼を言わせてください」
「そう畏まらんでください。当然のことをしたまでですよ。桜の人間とはいえ、私の気持ちはいつも歌舞伎町のここにあります。お役に立ててよかった」
 尾崎は新宿署防犯課の刑事だ。色白で胸板は薄く、公務員とはいっても、区役所にいる小役人に映った。頭髪は白いものがかなり交じっており、頭頂部が薄くなっているため、三十八歳という実年齢よりもずっと老けて見えた。
 新宿署は東洋最大の繁華街が管轄であるだけに、刑事のほとんどは体力自慢の猛者揃いだ。野獣のような集団で、左翼学生やヤクザを取調室に引っ張り、徹底的に痛めつけたと自慢げに胸を張るやつまでいる。
 尾崎はといえば、そんな肉食獣たちとは対照的だ。王一族のメンバーに対して異様に腰が低く、ヤクザの近藤たちに対してもへりくだる。公僕としての信念はなく、カネをくれる者にのみ奉仕する腐った警察官だ。唾棄すべき犬野郎ではあったが、『ブライトネス』や岡谷組にとっては有用な男だった。
 不破は近藤の傍に置かれた大型封筒に目をやった。そのなかには非行歴や逮捕歴のある悪ガキたちの身上調書の写しが入っている。尾崎のいる防犯課は少年犯罪を扱う部署だ。
 鑑別所か少年院に入った経歴があり、年少リングを入れた暴走族のメンバーを洗い出してほしい。近藤が尾崎にそう頼むと、彼は嬉々として仕事をこなした。
「今後ともよろしくお願いいたします」
 不破が頃合いを見て白封筒を差し出した。なかには十万円が入っている。
「こちらこそ、こちらこそ。いつでも仰ってくださいね」
 尾崎は北京ダックを三人分平らげた。
 彼は指についた甜麺醤を舐め取り、近藤と不破に頭を何度も下げて白封筒を受け取った。警察手帳が入った背広の内ポケットに無造作に突っ込む。
「少し前までは学生どもが大きな顔して暴れ回ってたんですが、今度は暴走族なんてガキどもがデカい顔してる。厄介なもんですわ」
「体力が有り余ってるんでしょう。戦前生まれの我々とは食べてるものが違う」
「そうですな。私なんかは進駐軍のGIにチョコレートをねだってたもんです。年がら年中腹すかしていましたし、ろくなもんを食べてなかったんで、こんなうまいもんがあるのかと腰抜かしたもんです。今時のガキどもはあんなのを当たり前のように食ってるんですからな」
 尾崎はしみじみと語った。この男の底なしの食欲はあの時代に育まれたものかもしれない。尾崎あたりの世代は総じて食に対する執着がきわめて強い。
 尾崎は大型封筒を見やった。
「しかし、一体どういうわけで暴走族のガキどもなんかを?」
「いろいろ訳がありましてね」
 近藤は微笑を湛えながら言葉を濁した。理由など教える気はないと暗に示す。
 尾崎は大げさに手を振った。
「こりゃ失礼。なにも聞きますまい。私らも連中には手を焼かされっぱなしでしてね。騒音まき散らすだけじゃなく、白バイにレースを挑むわ、交番にまで襲いかかるわで。本職の怖さを叩きこんでやってください」
「警察官がヤクザをけしかけてどうするんです」
「煮るなり焼くなり、好きにしてもらってかまいません。クソガキどもにはガツンと拳骨を食らわす父親のような存在が必要なのです。左翼の教師どもが個性の尊重だのとやたら子供をつけあがらせるからあんな連中が出てくるんです」
 尾崎は酒が回ったらしく、話題は暴走族から戦後教育のあり方についてまで滔々と語り出した。放っておけば天下国家について、いつまでも持論を展開しそうだ。
 不破が適当なところで尾崎に告げた。
「このあたりでどうでしょう。うちのキャバレーで遊んでいってくれませんか。今の話、若い女たちにも聞かせてやってください」
「いいですなあ。名案、名案」
 尾崎が締まりのない笑みを浮かべた。不破は断りを入れて個室を出た。
『富貴菜館』は盛況だった。西新宿に次々と超高層ビルが建ち、そこで働き終えたサラリーマンが歌舞伎町になだれこんでくる。出勤前のホステスと経営者風の身なりのアベックも目立つ。休日よりも平日のほうが賑わいを見せる。
 徳山次郎がテーブル席の端にいた。ザーサイを肴にビールをちびちび飲んでいた。襟がやたらと大きなロングポイントカラーの赤いシャツに白のスーツを着ていた。頭は具志堅用高よりも大きなアフロで、いかにもディスコ好きな遊び人といった格好だ。しかし、淋病で股間が痛むせいか表情は冴えない。
「次郎兄」
 不破が徳山に声をかけた。徳山が大儀そうに立ち上がった。
「ようやく終わったか。今夜の仕事は長引きそうだな」
「待たせてすみません。兄貴にあんなチンケな警官ヒネの案内を任せちまって」
「バカ言うな。こういうのは夜に生きるおれの仕事だ。キャバレーにはあいつの好みも伝えてある」
 徳山が不破の胸をつついた。
「それに、おれはあいつがチンケだとは思ってねえ。自分の欲望のためならなんでもやる男だ。そういうやつが一番厄介なんだ。油断するんじゃねえぞ」
「わかりました」
 尾崎と近藤も個室から出て来た。尾崎はペコペコと近藤に頭を下げて礼を口にしていた。
「やあ、尾崎さん! お久しぶりです」
 徳山が一転して晴れやかな顔を見せた。両腕を大げさに広げてみせる。
「徳山君じゃないか。久しぶりだなあ。君が連れてってくれるの?」
「任せておいてください。新宿ジユクの伊達男が尾崎さん好みのスケを選び抜いておきましたから」
 尾崎が疑わしそうに徳山の腕を肘で突いた。
「本当だろうね。ブスだったら逮捕パクっちゃうよ」
「どうぞどうぞ」
 徳山は自信満々な態度で尾崎とともに店の出入口に向かった。
 彼はエレベーターに乗りこむ寸前、不破に真剣な目で合図を送ってきた。気を緩めるなと言いたげだった。不破も表情を引き締めた。
 徳山は女絡みの軟派なシノギを手がけており、不破と一緒に仕事をする機会こそ減ったが、王一族や岡谷組にとってなくてはならぬ存在となりつつある。
 徳山の相手は尾崎のような悪徳警官や自治体の役人、それに『ブライトネス』の得意先などだ。彼が用意した女にすっかり骨抜きにされ、こちらの思い通りに動く者も少なくはない。
 王英輝もどこの馬の骨だかわからぬ女衒ではなく、徳山のような身内同然の組員を頼っていれば、あのような美人局に合わなかっただろう。
 尾崎が店を出ると、近藤の顔から笑みが消えた。尾崎から入手した大型封筒を持っている。
「おれたちも行こう」
「兄貴も?」
 不破は意外そうに近藤の顔を見た。
 近藤はすでに岡谷組の大幹部だ。荒事など不破のような下っ端に任せておけばいい。そう言いかけてすぐに考えを改めた。長兄を嵌めた連中の正体を暴くまではとても気は抜けない。
「行きましょう」
 不破は心のなかで自分を叱りつけた。
 徳山からも油断するなと警告されたばかりだというのに。王一族の存亡にかかわる事態なのだと気合を入れ直した。

 

(つづく)