4(承前)
不破少年は王智文と上階へ向かった。
ふたりきりでエレベーターのなかにいるのは居心地悪く、階床表示灯を見上げて重苦しい時間をやり過ごす。
王智文が訊いてきた。
「ケンカはどこで覚えたんだ」
「飯坂温泉のストリップ小屋だべ。そこに元ボクサーのおじさんが働いでだがら、その人がら少し」
「ボクサーから習ったくせに、この前はパンチを一度も出してねえだろ。聞いたぜ」
「教えてもらったのは頭突きと肘打ちだがら」
「いい師匠に恵まれたな」
王智文が小さく笑った。彼は不破少年の眼帯を見やった。
「片目でも相手やっつけちまうなんて、まるで斎藤清作だな」
「誰だべが」
「お前と同じでガキのころに左目を失明したってのに、それをひた隠しにしてプロボクサーになった。日本チャンピオンにまでなったんだぜ。今は芸人をやってる」
「片目でチャンピオンに……そだな人が」
「王一族の男も強くなきゃならねえ。こんな無秩序な街で生きていくにはな」
「あの……どこに行くんだべが」
「こっちだ」
王智文は肥った身体を揺すって七階で降りた。
七階には中華料理店と日本料理店があった。どちらも内装に力を入れた高級店であり、王一族が客をもてなすときや一族で集まるときは、もっぱらこのふたつの店が使われ、二次会として最上階の会員制クラブに流れるのだという。
それらは近藤から耳にした話であり、不破少年は一度も訪れたことはない。どちらの料理店も営業時間前であり、ひっそりと静まり返ってはいる。
王智文は中華料理店『富貴菜館』へと入っていった。こちらはすでに照明が煌々とついていた。
「うわ……」
不破少年は感嘆の声をあげた。
赤い絨毯が敷かれており、細かな彫刻が入った中国風の衝立があった。壁には気品に満ちた水墨画が掲げられ、天井には中国風の提灯の形をしたライトが据えつけられてあった。豪華で上品な空間が広がっている。
王一族の迎賓館でもあるだけあって異国の王宮のようだった。大きな回転式のテーブルをじっさいに見るのは初めてだ。
まだ客の姿は見当たらなかったが、調理場のほうはもう忙しそうだった。包丁でなにかを刻む音や重そうな中華鍋を振るう音がした。ニンニクのいい香りがする。黒の背広をきっちりと着こなした中年の店員が、王智文を見かけると丁寧に頭を下げた。
「智文さん、これを」
店員の手には濃紺のジャケットがあった。王智文は額を叩いた。
「助かる。どやされるところだったぜ」
彼は店員にジャケットを着せてもらい、襟を正すと再び店の奥へと歩く。
不破少年は黙って兄の後ろをついていった。しかし、当惑も隠せなかった。ボウリング場に代わってここに就かせるつもりなのだろうか。確かにコックであれば、顔を見られずに働けるかもしれないが、もう麻里と一緒に働けなくなるのが寂しかった。
王智文は店の奥にある扉をノックしてから開けた。
「連れてきました」
彼は一礼してから入室した。
不破少年は目を見張った。
扉の先は広々とした個室だった。こちらはさらに贅を尽くした造りで、天井には巨大な木彫りの照明が嵌め込まれてあった。四方の壁には色とりどりの花鳥画が描かれてある。
個室の中央には十人掛けの円卓が置かれてあった。そこには七人の男たちが顔を揃えていた。何人かは不破少年もよく知る人物だ。
男たちは午前中から大皿の中華料理を囲み、ビールや台湾産の焼酎を飲んでいた。丸テーブルのあたりはタバコの紫煙で空気が霞んでいる。背広にネクタイ姿の近藤もおり、彼は黙々とビールを口にしていた。
近藤の隣には親分の岡谷健吉がいた。近藤とは対照的に背が低かった。足も短い。それでも新宿一帯を歩けば、誰もが道を譲る街の顔役だった。不破少年も歌舞伎町や三光町で、お供を連れた彼の姿を何度も目撃していた。
角刈りにした岡谷の頭髪はすでに真っ白だったが、装甲車みたいな体つきをしており、彫りの深い顔立ちと額の大きな傷痕が迫力を醸し出している――中国戦線で砲撃の破片で負ったものだという。
ふだんの岡谷は明るい色のジャケットを好み、トレンチコートを肩にかけるなど、新宿の伊達男として知られていた。近藤もこの親分の影響を受けて衣服に凝るようになったという。しかし、今の岡谷は紋付き袴の和装だった。
大人たちに交じって、ひとりだけ子供の姿があった。その子はブレザージャケットに半ズボンという格好で、まだ小学生だというのにネクタイをキチンと結んでいる。前髪を眉にかかるくらいに伸ばしており、長めの箸を器用に使いながら料理を口に運んでいる。王英輝の長男の王心賢だ。
彼は名門と名高い私立小学校に通っており、まだ十歳にもかかわらず英語と中国語をマスターしているという。過去に一度だけ職場のボウリング場で見かけたことがあった。
王心賢は運動神経もよく、支配人からボールの投げ方を教わると、何度かストライクを取ってみせては従業員たちをも驚かせた。スコアは百二十を突破したが、本人はこの娯楽の楽しさを見出せなかったらしい。熱狂する他の客たちとは違い、最後のほうは退屈そうに6ポンドのボールを転がし、たった一ゲームで帰ってしまったのが印象的だった。
他にも王一族と思しき男たちが座っていた。一目で上等とわかる背広を着て、頭髪をポマードで固めている。首にネッカチーフを巻いたり、ワイシャツの袖に派手なカフスボタンをつけたりして、己を派手に飾り立てている。
錚々たる面々が顔を揃えているが、とりわけ奥の上座にいる老人が際立った存在感を放っていた。王大偉がそこにいた。
実物は初めてだ。王大偉は思った以上に痩せており、母のスクラップブックの写真とはずいぶんと違う。頭髪をきれいにそり落として禿頭にし、代わりに仙人のような白い髭をたくわえていた。想像以上に威厳があり身体が強張る。
彼の顔に刻まれたシワはより深く、実年齢よりも老けてみえるが、絹織物で仕立てたと思しき上等な唐服が似合っていた。黒地に銀の龍の刺繍が施されており、新宿の王としての風格を感じさせた。度数の強そうな焼酎を飲んでいる。
その王大偉が不破少年に声をかけた。張りのある声だった。
「こちらに来なさい」
「は、はい――」
なんとか返事こそしたものの、足が思うように動いてくれない。個室の出入口で立ち止まったままだ。
出入口の横には男性店員が控えていた。彼からも円卓につくよう促される。
「ほれ、どうしたよ。待ち望んだご対面だぜ」
王智文に背中を叩かれた。
自分でも不思議だった。この父と会うため新宿に来たのだ。面会を拒まれても、意地を通していつか会える日を待ち続けた。
いざとなると怯んでしまう。王大偉を始めとして、一族の男たちが眩しかった。服装はもちろん、所作のひとつひとつが洗練されている。地方をさすらっていた自分とあまりに違い過ぎた。
不破少年は己に活を入れた。気おくれする必要はない。お前だって王一族の立派な一員で、この王の由緒ある血を引く貴種なのだと。
貴種なのだ。そう念じると足が動いてくれた。
王大偉の右隣は空いており、彼は椅子の座面を軽く叩いた。店員が椅子まですばやく歩み寄り、不破少年のために椅子を引いてくれた。店員に注意を払いながらおそるおそる慎重に腰を下ろした。
この店員が不破少年を罠に嵌めるはずがなかった。そうわかっていながらも、警戒せずにはいられない。転校先の学校では椅子に座ろうとするたび、同級生に椅子を引かれて何度も尻や腰を床に打ちつけて痛い目に遭った。
不破少年は椅子に座ると、王大偉と向き合って頭を深々と下げた。
「不破隆次です」
言いたいことは山ほどあったはずだった。いつか父と会えた日には、あれもこれも伝えようと事前にセリフを練ってさえいたのだ。それが急に思い出せなくなる。
円卓の男たちが食事の手を止めていた。グラスや箸を置き、吸いかけのタバコをもみ消しては、不破少年と王大偉のやりとりを見守っている。
王大偉も椅子を動かして不破少年と向き合った。彼の前頭部や顔にはシワだけでなく、細かな縫い跡や火傷の痕があると気づく。
「頭を上げなさい」
不破少年は意を決して頭を上げて父の目を直視した。
王大偉の目は鋭かった。初めて近藤と会ったときと同じような圧力を感じる。
「肋骨の具合はどうだね」
「大したごどはねえです。こだなのは昔からよくあったんで」
「そうか……」
王大偉が左手を伸ばしてきた。不破少年の額に触れる。彼の左手は骨ばっていた。
「この頑丈な額でならず者たちを叩きのめしたのか」
「申し訳なぐ思ってます。せっかくのボウリング場を血で汚す真似をしちまっで」
王大偉は首を横に振った。左手を広げてみせる。
「私もかつて店を守るために戦った。ゴロツキ相手に煮えた油をかけたりしてな。包丁で斬り合いもした」
彼の左手の中指と人差し指は短い。闇市時代に愚連隊と衝突し、学生ヤクザのナイフで指を切られたという。
王大偉が距離をさらに縮めた。お互いの膝がぶつかりそうになり、彼は真剣な顔つきになって訊いてきた。