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1(承前)

 不破少年は頭をさすった。タンコブができているが、出血まではしていないようだ。ポケットからハンカチを取り出して鼻血を拭う。
「あんちゃん、大丈夫かい」
 グリーンハウスにいた風来坊たちが、心配そうに不破少年に近寄って声をかけてきた。
「大丈夫っす」
 不破少年は小鼻の軟骨を押さえた。虚勢を張ったわけではない。不破少年にとって、この程度の暴力は日常茶飯事だ。顔を頻繁に殴られ続けたため、鼻血が出やすくなっている。
 ひげ面の風来坊がやるせなさそうに首を横に振った。
「ついてなかったな。さっきのはタチの悪いポン引きさ。一日中、家出少女や少年を狙ってやがる」
「少年。こ、これやると痛みが和らぐぜ」
 背中まで髪を伸ばしたヒッピー風の男が、シンナー入りのビニール袋を掲げた。焼酎やウイスキーを勧める者もいる。
 風来坊たちは親切そうに心配してはくれたが、やはり中年男と同じく油断はならなかった。こんな真冬の夜を野外で過ごしているだけあり、彼らは一様に不健康そうで、酒や薬物で目つきもなにやら怪しかった。彼らの目は不破少年のアタッシェケースに向けられている。
 風来坊たちの誘いを断って、再び新宿駅に戻って公衆トイレに入った。洗面所で顔と学生服についた血をハンカチで拭い取った。
 これから偉い人と会うというのに、鼻血にまみれた汚い顔で会うわけにはいかない。
 気を取り直して再び新宿駅東口を出た。広場には相変わらず多くの若者や風来坊がたむろしており、さっき声をかけてくれたひげ面やヒッピー風もいたが、何事もなかったかのように酒盛りやシンナー遊びに耽っていた。
 新宿駅東口広場から北へ歩く。『二幸』のビルの脇を通り過ぎると、靖国通りと記された看板と、都電の停留所が見えてくる。路面電車の耳障りなブレーキ音がした。
 不破少年の心が昂ぶった。靖国通りを越えると、歌舞伎町のシンボルであるコマ劇場が目に入った。その大きさに思わず声が漏れそうになる。
 不破少年がこれまで見てきた劇場は、待合や旅館を改築したような二番館のボロい建物ばかりで、大抵は名前負けしていたものだ。なかには隙間風が吹きすさぶ木造の小屋もある。
 コマ劇場はガッシリとしたコンクリート造りの建物で、宝塚歌劇の看板が掲げられていた。まさしく劇場と呼ぶにふわさしい建築物だ。コマ劇場にまで至る大通りには、数え切れないほどの飲食店が並んでおり、まるでお祭りみたいに大勢の人で賑わっている。朝鮮焼肉や焼鳥の煙でうっすらとモヤがかかり、大小のビルにはバーやレストラン、寿司屋に中華料理屋などがびっしりと入っている。キャバレーやパチンコ屋の巨大なネオン看板がギラギラと輝いていた。
 風来坊や学生風だけでなく、会社帰りのサラリーマンから、チンピラヤクザのような怪しげな輩や、母のように夜に生きた女たちもいる。多種多様な人々で賑わってはいたが、不破少年みたいに学生服を着ている者は見当たらない。
 不破少年は大通りの隅をコソコソと歩いた。学生服を脱ぎたかったが、いくら雪のない南の土地に来たからといって、とくに温暖というわけでもない。肌を切り裂くような乾いた寒風が吹きつけている。むしろ、マフラーを巻きたいくらいだ。
 さっきの中年男はロクなやつではなかったが、あいつが言っていたとおり、こんな格好でうろついていたら警官に捕まりかねない。
 ルンペンじみた風来坊の若者とは対照的に、頭髪をきっちりと七三分けにし、紺色のブレザーやスタジャンを着こんだ小ぎれいな若者グループがゴーゴースナックへと入っていく。店内からエレキギターやドラムの生演奏が耳に届く。
 不破少年は東日本各地の歓楽街や温泉街で生きてきた。夜の世界に慣れており、さっきの中年男みたいな輩に絡まれることもしょっちゅうだ。
 しかし、自分が訪れた街とは比較にならない不夜城に来たのだと思い知らされる。ゴーゴースナックやキャバレーから聞こえてくる管楽器やドラムの演奏ひとつ取っても、チューニングさえまともにできない田舎バンドが奏でる音とは質が違っていた。
 大通りから一本外れた路地に目をやると、ツタで絡まった建物や、西洋の城みたいな形をした名曲喫茶がある。モダンジャズやクラシック音楽に浸れるらしい。
 死ぬまで音楽や演劇を愛した母が、なぜこの街のことをよく話すのかがわかった気がした。
 不破少年は王大偉の城へと向かった。それはコマ劇場の傍にある。母がスクラップ帳を開いては、しょっちゅう父の城を自慢していたため、道に迷うことはなさそうだった。
 スクラップ帳には新聞や雑誌の切り抜きが貼られてあり、父に関する記事が几帳面に保存されていた。王大偉と別れる羽目になり、この街を去ってからも、母は彼を称え続けた。
 王大偉の城は、昨年になって様々な娯楽施設が入った高層ビルに生まれ変わった。今ではコマ劇場と並んで、新宿の新しいランドマークとなっているという。
「あれだ……」
 不破少年は高層ビルを見上げた。目的地である『新宿ブライトネスビル』だ。
 ビルは奥行きのあるドッシリとした建築物で、一階はパチンコ屋の黄金色のネオンが輝いている。
 屋上から吊された垂れ幕には、新装開店を謳うサウナや大衆割烹の名が大きく記されてある。ビルの壁面には、“ブライトネスビル”と記されたネオンサインが赤く輝いている。
 パチンコ屋やサウナだけではなく、ビルには『キングピン』という名のボウリング場も設けられてあった。東京でもボウリングはかなり人気なようで、一階の出入口にはカップルや若者グループが列をなしていた。
 ビルの前には噴水広場が設けられてあり、その周りをぐるりと娯楽施設のビルが取り囲んでいる。ブライトネスビルと同じく、映画館やボウリング場やキャバレー、ダンスホールといった娯楽施設が入っている。それらのビルには、迫力のある映画の看板が掲げられていた。噴水広場は平日の夜にもかかわらず、多くの人でごった返している。
 コンクリート造りの大きな建築物に四方を取り囲まれ、その異様な光景に、まるで異国の地に舞い込んだような気持ちになる。母といろんな土地をさすらったが、これほど壮大な歓楽街は初めてだった。
 ブライトネスビルの正面ドアを潜ると、壁に案内板と四基のエレベーターがあった。まだ建てられて間もないせいか、壁や床はピカピカで、真新しい建築材の匂いがする。金属製の案内板に目をやると、五階に『株式会社ブライトネス』の事務所があるとわかった。
『ブライトネス』の前身は『大慶だいけい商事』なる会社だ。このあたりが淀橋区角筈つのはずと呼ばれていた戦後まもない時代、王大偉率いる大慶商事がいち早く大型劇場を建設したのだ。当時は小規模な商店街と住宅、それに野原しかなかったらしい。
 日本人だけでなく、外国人も観光に訪れるような一大娯楽街にする。そんな志に燃えていた復興協会会長の鈴木すずき喜兵衛きへい、東京都の石川いしかわ栄耀ひであき都市計画課長らの考えに共鳴し、王大偉は私財を思い切って投じたのだという。母から童話のように、寝る前によく聞かされた。
 娯楽街の形成はそうそう簡単には行かなかったらしい。新宿という街が急速に拡大していくのに合わせ、大手企業も歌舞伎町へ進出しようと試みるも、金融資産の引き出しを制限する預金封鎖や建築制限令などに悉く阻まれて計画が頓挫してしまう。歌舞伎町という名前を冠しながら、歌舞伎座を誘致できずに終わった。
 後に成功を収める王大偉も、劇場経営にはだいぶ苦戦を強いられた。
 昭和二十三年、軽演劇やレビューの熱烈なファンだった王大偉は、映画館とともに『モンマルトル』という大衆劇場をオープン。フランス仕込みの質の高いレビューの公演を行うも、新宿帝都座の“額縁ショー”をきっかけに始まった過激なヌードショーやストリップの大ブームに押され、『モンマルトル』はたった六年の歴史で幕を閉じてしまった……。
 エレベーターの扉が開いた。不破少年が荷物を抱え直して乗りこむと、他にも男たち三人がドヤドヤと入ってきた。明らかにガラの悪そうな連中だった。さっきの中年男のような怪しげな気配とは少し違う。
 革ジャン姿にサングラスをしたチンピラ、とっくりセーターを着た坊主頭、彼らの兄貴分と思しき痩身の男はギャング映画から抜け出したようなファッションで、カシミヤ製のコートにボルサリーノを斜めにかぶっている。明らかに威嚇と暴力を売りにしている輩たちだ。
 坊主頭と革ジャンの男からぶしつけに凝視され、兄貴分らしき男が首をかしげた。
「あんちゃんも会員なのかい?」
「会員?」
 不破少年はオウム返しに尋ねた。
 兄貴分の男がボタンを指さした。最上階の八階を示すランプだけが灯っており、その横の表示板には『会員制クラブ 波士敦ボストン』と記されてある。
「これは……申しわげねっす」
 ボタンを押すのを忘れていた。エレベーターなどほとんど使ったことがなく、操作の仕方もよくわかっていなかった。
 不破少年は顔が火照るのを感じながら、男たちに頭を下げて五階のボタンを押した。だが、遅かった。エレベーターは五階を通過して上昇し続ける。

 

(つづく)