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7(承前)

 

 任海狼が真顔になった。彼の取り巻きたちが顔を見合わせ、エアジョーダンの若者はあからさまに目を丸くする。

 不破はスーツの内ポケットから特定線引小切手を取り出した。振出日は今日の日付で、支払人として新宿区にある信用金庫の支店名が明記されている。一億は想定の範囲内だ。

 振出人は岡谷組の企業舎弟である『岡健おかけん商事』と社長だ。社長は会計士の資格を持つカタギだ。金額の欄には一億円と印字され、銀行印の割印も押されてある。不破は小切手をテーブルに置いた。

 任海狼が小切手に目を落とした。

「おれは現金ゲンナマしか信じねえ。こんなもん見せつけられてもな。いくらでも偽造できるじゃねえか」

「お気に召さないか」

 不破は土居に目で命じた。土居がテーブルの小切手を回収して内ポケットにしまう。

「おれとしては温情をかけたつもりだ。お前は歌舞伎町の賭場をいつまで閉じていられる。あの事件以来、あの街は未だにピリついたままで、中国人クラブも閑古鳥が鳴いてる。あんまり客が来ないんで、出稼ぎに来た女たちがテレクラやダイヤルQ2で客をじか引きしてるとも聞く。警察サツの目もあってゴト師稼業も当分は無理だ」

 土居がパイプ椅子に座ったまま、テーブルの天板を革靴で踏んだ。銃声のような音が室内に響き渡った。長椅子の傍にいた大男たちがビクリと反応する。

不破オヤジをこんなきたねえとこまで呼び出して、法外な報酬までありつけるってのに、偽造だなんだと因縁アヤつけようってのか?」

 不破はパイプ椅子から立ち上がった。土居に声をかける。

「帰るぞ。アメよりムチのほうがお好きのようだ」

「救えねえやつらだ。今度はビール瓶じゃ済まねえぞ」

 土居が床に唾を吐いた。任海狼が根負けしたように両手を軽く上げた。

「わかった、わかった。申し訳なかったよ。あんまりでかい金額だったんで、つい疑ってかかっちまった。おれたちも降りかかった火の粉を振り払うために必死に情報を集めて回ったさ。おかげで警察サツも知らねえ情報ネタを掴んだ」

「どんな?」

 不破は立ったまま尋ねた。任海狼はもったいつけるように、二本目のタバコに火をつけた。

「やらかしたのはフージエンの連中だ」

 不破はパイプ椅子に座り直した。任海狼は煙を吐きながら続けた。

「『アカプルコ』を襲ったのは、蛇頭を通じて密入国した福建の田舎者だ。埼玉の建設現場で働いてたらしいが、きついイジメと労働でケツ割って逃げたところで、福建幇のゴト師グループに拾われたってわけだ。もうひとりも横浜の自動車工場からバックレた野郎だ」

「そいつだという証拠は?」

「あるよ」

 任海狼はスケーター風に中国語で指図した。

 スケーター風が古いテレビのスイッチを入れた。テレビは二十年前くらいの古い型で、スイッチを入れても画面は真っ暗なままだった。しばらくしてから砂嵐が映し出される。スケーター風がビデオデッキの再生ボタンを押した。ガチャリと音がして、画面が切り替わった。

 映像には横線のノイズが入り、画質も大してよくはなかった。ダビングされまくった裏ビデオのようだったが、なにが映っているのかはわかった。

 下着姿の太った中年男がコンクリートの床にへたりこんでいた。彼の頭はデスマッチをやり遂げたプロレスラーのように血まみれだ。

 中年男の白のタンクトップやブリーフは血で赤く染まっており、顔を相当殴打されたらしく、両目が腫れあがって糸のように細くなっていた。前歯も何本か折れており、牛のようにヨダレを垂らしている。顔以外もしたたかに打ちのめされたらしく、露出している肩や首も打撲の痕が見えた。場所は空き店舗か廃工場のようで、ガランとした空間が広がっている。

 中年男は中国人のようだった。ガサゴソという雑音に混じって、さかんに「許してくださいチンユアンリヤンウオン」と震えた声で訴えている。しかし、聞き入れられずに顔をブーツで蹴り上げられる。

 中年男の体型は肥えており、雄也を襲った犯人と体型が一致しない。不破が画面を睨みながら訊いた。

「誰だ、こいつは」

「ゴト師グループの幹部さ。おれらがこしらえた人気機種の裏ロムや変造パッキーカードをこいつが仕入れて、福建の出稼ぎ労働者を打ち子として雇ったり、裏ロムを仕掛けるためにパチンコ屋に忍び込ませる。情けないおっさんにしか見えねえだろうが、性格はけっこうイケイケなほうでね。これまでもえげつない真似を散々やってきた。店の外壁をドリルで穴開けさせたり、店が閉まるまで天井裏に潜ませて裏ロムを仕掛けたりな。『アカプルコ』の事件があってから、他のゴト師どもは関西や北海道にガラをかわしたってのに、こいつはまだまだ稼ぐつもりで宇都宮のホールを下見してやがった。欲深い野郎さ」

「あんたの顧客じゃないか。それを痛めつけたのか?」

 中年男のタンクトップが裁ちバサミで切られた。たるんだ上半身が露になる。鳩尾や胃袋も執拗に痛めつけられたらしく、胸部から下腹まで紫色に変色していた。

 フレームの外からサバイバルナイフが現れ、何者かが中年男の乳房を切りつけた。皮膚をスッパリ切られて血が流れ出たというのに、中年男はとくに反応を示そうとはしなかった。目の焦点が合っておらず、生気を完全に失っていた。まるで変態向けのスナッフビデオのようで胸が悪くなる。

 任海狼はテレビを見やった。

「終わった顧客さ。警察サツにもばっちり目をつけられてた。もし檻にぶちこまれたのなら、刑事デカの機嫌を取るために取引先でも同胞でも平気で売る。欲の皮突っ張らせて関東に残らず、故郷クニで実業家にでもなりゃよかったんだ。じっさい、やっこさんはペラペラとよく喋ってくれたよ」

「犯人はこいつの手下か?」

「そうだよ。そのへんもきっちり聞き出した。住処ヤサや友人関係、故郷クニの実家の住所までな」

 任海狼は自信に満ちた表情で微笑んだ。タバコの煙を盛大に吐いて土居の胸に視線を向ける。

 不破は土居に目で命じた。土居は小切手を抜き出した。それを任海狼に手渡す。

 任海狼が小切手を手に取って見つめながら、ふたりの中国人の名前を口にした。側近のベースボールキャップがバギーパンツのポケットから折り畳まれた紙切れを取り出した。不破が手を伸ばして受け取った。

 紙切れにはボールペンでふたりの中国人の名前と住所が記されてあった。汚い文字だが、判読はできる。住所は宇都宮市某町と書かれてある。

 任海狼が紙切れを指さした。

「そいつらも東京を出れば安全だと考えてる生粋のアホどもだ。宇都宮の安キャバでのんきに遊び回ってる。だが、上司と連絡取れねえんで、さすがにやばいと思ったようだ。あんたらの楽しみを奪って悪いが、今頃おれの手下どもがもうさらってる」

「手際がいいな」

 不破がメモに目を落としたまま言った。任海狼がタバコを床に捨てた。

「龍星軍で学んだのは電撃戦だ。マレー半島を侵攻した日本軍みたいにな。おれたちは敵なしで大丈夫だろうと、相手がタカくくってる間に攻めまくる。その精神は今も変わってねえ。警察サツよりも早く動いて、あんたの甥っ子さんをったクソバカを渡す」

「ふむ」

「あとはそっちで好きに料理すりゃいい」

「意外だな。そこまで協力的になってくれるとは」

 不破は紙切れを胸ポケットにしまった。

「よく言うぜ」

 任海狼がムチを振るう仕草をして続けた。

「歌舞伎町は凶悪な中国人マフィアに乗っ取られただの、暴対法に縛られたヤクザは、もはやおれたちを恐れて道を譲るだの、週刊誌は好き勝手に書いてるが、おれらはワケアリで流れてきた小さな愚連隊の寄せ集めだ。互いに信頼関係もなけりゃ、統制だってまるで取れてねえ。東北幇にしたって一枚岩でもなんでもねえんだ。大組織のヤクザと正面からぶつかりゃ、分が悪いのはこっちのほうだ。あんたに手下どもをビール瓶でどつかれてイラついたが、こっちとしては歌舞伎町での商売をなるべく早く再開させたい」

「賢明な判断だ」

「岡谷組の独眼竜がどれほどの人物かもわかった。こんなところに武器ひとつ持たずに乗りこんでくるんだ。かんの違いってもんを自覚させられたよ」

 任海狼の側近たちも息を吐いて相槌を打った。

 不破は後ろを振り返った。ボディチェックをした男たちが肩をすくめた。老板がそういうなら従うしかないといった態度だ。

 任海狼が手を叩いた。

「犯人どもを捕らえたとして、どこに身柄ガラを運べばいい? ピザ屋のようにすばやく届ける。一億ともなりゃそれぐらいのサービスはしなきゃな」

「わかった」

 不破はうなずいてみせた。土居たちが肩から力を抜く。不破は微笑を浮かべた。

「おれのほうからも訊かせてくれ。先日の『翡翠苑』にいたパーカー姿のあんちゃんだ。今夜は姿を見せていないようだが、どうしたんだ」

「どうしたもなにも。商売に励んでるさ。おれらのホームタウンは江戸川区で、あいつには小岩の風俗エステを任せてる。なんだってそんなことを?」

「ひときわ強くビール瓶で頭をぶっ叩いた。おまけにうちの南場も腹を蹴っ飛ばしてる。打ちどころが悪くて難儀してるんじゃないかと思ってな」

「気にすることはねえよ。頑丈がウリのやつだからな。数時間後にはケロッとしていた」

「挨拶ぐらいさせてくれないか。名前は確か朱宇鵬ヂユユーポンというらしいな。若いもんに土産を持っていかせたい。なんて名の店だ」

「そりゃどうも。店名はなんだっけな……ころころと店名を変えてるからな」

 任海狼はなかなかの役者だった。首を傾げてとぼけてみせる。

 しかし、手下たちまでもが器用に演じられるはずはない。朱宇鵬の名前が出た途端に、顔が強張るのを見逃さなかった。

 

 

(つづく)