最初から読む

 

8(承前)


 近藤と石国豪はただの軍隊仲間ではない。父親から罰として異国の軍隊に放り込まれたのだ。いくらつわものの彼でも「刑務所が豪華ホテルに思えるほどつらかった」と振り返っている。
 反日感情がまだまだ色濃く残る台湾の軍隊に、日本語しか話せない男なんぞが交じりこんでいるのだ。隊内でしごきの対象にならないはずがなかった。
 近藤は日本と台湾のふたつの国籍を持つが、当時話せたのは日本語だけだった。日本語を口にするたびに上官から殴られ、時には部隊の全員が罰として練兵場を走らされ、腕立て伏せや匍匐前進をさせられた。
 当然ながら部隊の仲間からも目をつけられ、就寝時間には毎夜のように袋叩きに遭ったという。
 孤立無援の近藤に手を差し伸べてくれたのが、幼いころから“リーベングイ”と呼ばれて育った石国豪だ。彼の母親は日本出身だった。
 石国豪の父親は高雄市の医師で、戦前は地元の名士でもあり、だいぶ裕福な家庭だったらしい。製糖工場の日本人経営者の娘を娶り、義父の出資で病院経営にも乗り出す予定だった。
 しかし、石国豪が生まれた翌年に状況が一変。日本が戦争に負けて義父とその一族は台湾を脱出。彼の母親だけが夫を慕って台湾に残った。
 父親は高雄市でその後も医師として地元民から慕われていたが、終戦から六年後に忽然と姿を消した。国民党政府が反体制派を徹底的に弾圧していた時代だ。石国豪の父親は国民党の腐敗を半ば公然と嘆いていたため、政府の特務機関に睨まれる羽目になった。政府側の白色テロに遭ってどこかに埋められたか、収容所で獄死したものと思われた。
 残留邦人の母親と息子の石国豪には過酷な差別が待っていた。どこに行っても日本野郎と罵倒され、彼は同級生から理由もなく殴られた。そんな日々にうんざりした彼は、暴力でもって激しく抵抗する道を選んだ。
 頑丈な身体と狂気を武器に、同級生から街の不良まで片っ端から叩きのめすと、相手をナイフで脅して配下にし、ケンカ自慢の不良集団を結成していった。こうした学生の不良集団は高雄に限らず、台湾各地で生まれており、今の黒社会の土台となったという。
 石国豪は部隊内で自分と同じく“日本鬼子”と蔑まれる近藤と会って手を貸した。九死に一生を得た近藤は、腕っぷしで同僚たちを黙らせ、除隊してからも彼と交流を続けた。
 石国豪は高雄市に戻ってサンシヤンバンなる地元組織の構成員となった。数館の映画館を経営する傍ら、三山幇にとって好ましくない人物を消す役割を担った。この男の最大のシノギは殺人だったのだ。
 近藤たちは百人町にある三階建てのマンションに移動した。周囲は昔からの一軒家が並ぶ閑静な住宅街で、近藤は最上階に二つの部屋を所有していた。
 部屋のひとつは自宅であり、もうひとつは客人をもてなすための迎賓施設として使われていた。今の近藤がつきあうのは新宿の住人だけではない。関西や九州の親分衆とも交流を持ち、懇親をかねた麻雀大会を催したり、歌舞伎町に進出したいと願う地方の実業家を迎えるための場としても用いられた。
 客人のほとんどは迎賓施設のほうに案内され、歩美や雄也が関わることはない。しかし、今日の近藤は石国豪を自宅に招き入れた。
 近藤たちが帰宅すると、歩美が玄関にやって来た。彼女は夫と同じく晴れやかな笑顔で石国豪を出迎えた。
「ごぶさたしてます、シーさん。お元気そうね」
 今日の歩美は洒落た装いに身を包んでいた。清潔感のある白いニットのワンピースに大粒の真珠のネックレスをつけている。美容院でセットしてもらったらしく、赤みがかった長い髪はパーマがきれいにかかっている。不破は顔が火照るのを感じた。
 石国豪は靴を脱ぎながら歩美を舐めまわすように見つめた。
「よお、奥さん。あんたますますきれいになったな」
「相変わらず褒めるのがうまいんだから。ありがとう」
「本当だぜ。子供産んでからケツがさらに大きくなった」
「そうね。だからたるまないように毎日鍛えてるの」
 歩美もこの男の性格を知っているようだった。下品な口を叩かれても動じる様子を見せない。今夜は雄也を義兄の王智文に預けてもいた。
「長旅でくたびれたでしょう。あなたの好きなお菓子も用意してるから。いっぱい食べて」
「あんたをいただきたいね」
 石国豪はそう言い放っては大笑いした。まったく笑えなかった。近藤は気にする様子もなく彼をリビングに導く。
 とっさに南場に腕を掴まれた。険しい顔で耳打ちされた。
「バカ。本当に行くやつがいるか。小指なくしたいのかよ」
「え?」
 不破は己の足元に目をやった。
 気がついたら右足が土足のままで廊下を踏んでいた。慌てて右足を土間に引っこめる。石国豪の暴言に堪忍袋の緒が切れたらしい。南場が止めに入ってくれなければ、確かに殴りかかっていたかもしれなかった。
「大事な仕事ゴトだって控えてんだ。跳ね上がんなよ。この前、兄貴にぶん殴られたばかりだろうが」
 さっきまで文句たらたらだったというのに、南場は真剣な顔つきで自制を呼びかけていた。
 歩美に声をかけられた。
「なにしてるの? あなたたちも早く上がりなさいよ」
「はいっ」
 不破は南場に両手を合わせて感謝の意を示した。ふたりは靴を脱いで近藤たちの後を追った。
 近藤の部屋は広かった。リビングダイニングキッチンというらしく、居間と台所と食事場がひとつの空間となっている。西大久保の小さなアパートでちゃぶ台を囲んでいた時代が遠い昔のようだった。
 ダイニングには六人掛けの大きなテーブルがあり、出前の特上寿司やオードブルが所狭しと並べられてあった。歩美の手料理もあり、賑やかな雰囲気に満ちていた。
 いつもと違うのは、それに加えてたくさんの和菓子が用意されている点だった。特上寿司の横には団子や羊羹、豆大福がどっさりと積まれてある。
 不破も宴の準備に取りかかった。キッチンに入って冷蔵庫を開ける。いつもなら大量のビールが冷やされており、それをダイニングテーブルに運ぶのが不破たちの仕事だった。今日はコーラとサイダーが冷やされてある。
 石国豪はアルコールを口にしなかった。体質的に受け入れられないようで、その代わりに大がつくほどの甘党だった。とくに和菓子に目がないという。
「こいつはうまそうだ」
 石国豪は当然のように上座の椅子に腰かけると、宴が始まる前から豆大福を手に取って食べだした。
 ケンカを売ってるのだろうか。不破は理解に苦しんだ。親友のメンツを傷つけてどうするつもりなのか。なにかの罠ではないかとさえ思いながら、彼のグラスにコーラを注いだ。
「乾杯」
 近藤たちは席についてグラスをぶつけあった。今日はひたすら耐えるしかない。不破は己に言い聞かせた。
 石国豪の態度は宴が始まってからも変わりなかった。兵役時代の近藤がいかにひどい虐めに遭い、北京語や台湾語も話せずに孤立していたのかを打ち明けた。石国豪が彼の惨状を見かねて言葉を教え、ケンカになったときは手助けしてやったと自慢げに語った。
「おれの悪名は部隊にまで轟いてたからな。先輩風吹かしてたやつらもむやみに手出しできなくなった。どうせ狭い島だ。台北だろうが台南だろうが、シャバに出たら見つけ出して目ん玉くり抜いてやるってな。どいつもこいつも震え上がってやがった。おれがいなけりゃ、お前はあのときに便所で首をくくってたかもな」
「ああ、そうだろうな」
 近藤は石国豪の言葉にうなずいていた。
 近藤が増長した友人をたしなめるものと期待していたが、そのときは最後までやって来なかった。むしろ、ビールでほろ酔いになった彼は昔を懐かしそうに振り返り、旧友のからかいや嫌みを心から愉しんでいるようにすら見えた。
 だが、不破にとっては苦痛の時間でしかなかった。近藤は岡谷組の強さの象徴だ。今の王一族を支えているのは王英輝ではなく近藤だとすら思う。彼こそが日本最大の繁華街に君臨する若き王なのだ。分をわきまえない異国の田舎者が、その近藤よりもしきりに優位に立とうとする様は醜悪だった。
 救いがあるとすれば、宴が短時間で済んだことだった。石国豪の憎まれ口に一晩中つきあいきれるのか不安で仕方なかったが、二時間もしないうちに歌舞伎町の風呂、、屋に繰り出したいと駄々をこねたのだ。歩美の手料理にはまるで手をつけず、コーラと和菓子ばかり食っていた。それも許しがたかった。
「さてと、今夜のメインディッシュと行くか。ここに来てから収まらねえんだ」
 石国豪は股間を揉んでみせた。旧交を温めるのもそこそこに部屋を出て行こうとする。不破は近藤から命じられた。
「隆次、店まで案内を」
「わかりました」
 近藤に耳打ちされた。
「おれの客だ。妙な揉め事は起こすな」
「心得てます」
 不破は鼻を触って答えた。兄に鉄拳制裁を食らうようなヘマはやらない。
 自分も一介の三下から脱しなければならない。今回の件で実感した。怒りに任せて突っ走るような真似は自重し、岡谷や近藤のように冷静に物事を見極められる男になりたかった。
 石国豪がどれほどの腕を持っているのかはわからない。だが、殺しという最低な汚れ仕事を担わせるのだ。近藤も野蛮人には好き放題に言わせ、調子に乗らせておくのがちょうどいいと判断しているのかもしれなかった。
 石国豪は近藤たちに見送られてマンションを後にした。不破は彼とともに歌舞伎町まで徒歩で移動した。昔ながらの連れ込み宿とラブホテル、それに日雇い労働者向けの簡易宿泊所が密集する地域に入る。
 顔をうつむかせた中年の男女や、ベタベタとくっついて歩く若いアベックの姿が目についた。

 

(つづく)