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1(承前)

 革ジャンの男が鼻で笑った。
「なんだつまらねえ。学生セイガク丸出しの格好で、大人の社交場に行くとはいい度胸だと思ってたのによ」
 坊主頭が顎をしゃくった。
「ただの田舎者かよ。それにしてもひでえ訛りだな」
 兄貴分がふたりを遮って訊いてきた。
「五階になんの用がある」
 兄貴分の声はひどくしゃがれていた。不破少年に射るような視線を向ける。
「あ……」
 不破少年は言葉を詰まらせた。
 アルバイトの面接などと適当に言ってごまかそうとした。だが、男の鋭い目つきで見つめられると、右も左もわからぬ田舎出の少年の嘘など、いとも簡単に見抜かれそうな気がした。余計面倒なことになりかねない。
「王大偉さんに会いに来たんです」
 坊主頭と革ジャンの男から笑みが一瞬で消えた。エレベーター内の空気が一気に張りつめる。不破少年はしくじったと思い、適当にやり過ごすべきだったと後悔する。
 兄貴分は不破少年を頭のてっぺんから靴先まで見回した。彼の目つきは変わらず、王大偉の名を聞いて一層険しくなったように見える。
 不破少年は歯を噛みしめた。濃厚な暴力の気配をすばやく感じ取る。
 兄貴分風が手を伸ばしかけたとき、エレベーターが最上階に着いた。ドアが開いた途端、賑やかなジャズの音が飛び込んできて、天井のシャンデリアが輝く豪奢なフロアが目に入った。ネクタイをキッチリと締めた店員たちが頭を下げる。
近藤こんどう様、いらっしゃいませ」
 兄貴分はもう不破少年を見てはいなかった。
 彼は剣呑な気配を消すと、店員に軽く手を上げた。ゆったりと絨毯を歩む。舎弟分らしきふたりも、近藤と呼ばれた男の後を追う。
「お前ら、焼酎みてえにガブガブ飲むなよ。じっくりとれ」
 兄貴分がふたりをからかう。坊主頭と革ジャンの男が照れたように首をすくめる。三人のヤクザたちは店員に席へ案内されながら消えていった。
 エレベーターのドアが閉まった。急に別世界が消えて、無機質な空間に戻った。ジャズの音が遠ざかる。
 不破少年はため息をついた。なんの理由もなく罵倒されるのも、野良犬みたいに殴られるのも慣れてはいた。裏社会の人間たちにもいろんな意味で可愛がられもした。小指がなかったり、全身にお絵描きをした連中だ。
 もはや自分にはなにもないが、そこいらの若者よりも度胸はあると思っていた。仕立てのいい背広なんかを着て、格好だけは一丁前のヤクザもよく見てきた。そんなのに限って女子供相手にしか威張れないハッタリばかりなのを知っている。
 母は新宿を最先端の文化や芸術を謳歌できるところだと評し、いつも美しい思い出を語っていたが、そんなユートピアではないのもわかっているつもりだった。
 二年前には新左翼が暴動を起こした。新宿駅に放火して、電車や施設を破壊しまくった。前年の国際反戦デーでは、機動隊と激しくぶつかり合い、火炎瓶や催涙弾が飛び交ったという。
 全国から家出人が集まる場所で、それを食い物にするアコギな手配師やエロ事師が待ち構えている。これだけ数多くの飲食店や夜の店がひしめいているということは、ヤクザや愚連隊の数も桁外れであるのを意味していた。それを承知のうえで上京したのだ。すでに腹をくくっているつもりでいた。
 だが、あの兄貴分の男は、今まで見てきたヤクザとはなにかが違った。目も合わせられなかった。ただそこにいるだけで、他人をすくませる迫力がある。猛獣が跋扈する野生の王国に迷い込んでしまったのかもしれないと、思わず気後れしそうになる。
 エレベーターが五階についた。不破少年は気を取り直して顔を上げた。縮こまる必要はない。あのヤクザたちですら、王大偉の名前を聞いて態度を変えた。自分はこの街の王の息子なのだと言い聞かせる。
 エレベーターのドアが開き、不破少年は学帽を被り直して身構えた。
 八階の煌びやかな空間とは正反対に、五階は拍子抜けするほど暗く、通路のほとんどの灯りは消されていた。いくつかの会社が入っているようだが、そのどれもが『ブライトネス』系列の事務所のようだ。
『ブライトネス』の前身である『大慶商事』は、映画館と劇場の経営から始まった。歌舞伎町の開発が進まなかった苦難の時代を乗り越え、その後はこの街の発展とともに、事業を拡大させていった。
 現在はボウリング場やレストラン、キャバレーやナイトクラブをてがけ、真っ先にこの町へ進出した強みを活かし、『ブライトネスビル』を中心に、他にもいくつかの商業ビルやオフィスビルを所有している。
 多摩地域の宅地開発やガソリンスタンドの運営にも力を入れており、いくつもの子会社を抱えるグループ企業となっていた。事務所の出入口には、『大慶フーズ』『大慶石油』『大慶エンターテインメント』と記された看板が貼られてある。グループの中核企業である『ブライトネス』は、エレベーターの傍に位置していた。
 通路こそ暗くはあったが、各事務所内には何人かの人が残っているようで、タバコの煙が通路にまで漂っていた。麻雀の洗牌をするジャラジャラという音がする。
 不破少年は『ブライトネス』のドアをノックした。なかに人がいるようだったが、とくに返事は返ってこない。勇を鼓してなかに入ると、映画の大きなポスターが目に飛び込んできた。
 壁一面に今まで上映してきたものと思しき作品のポスターが洋邦問わずに貼られてあり、雑然とした雰囲気に包まれていた。事務所こそ新しいものの、社員たちの机は書類が山積みで、その周りは段ボールがいくつも重ねられている。
 灯りは煌々とついたままで、何人かの男性社員と思しき人々が残っていた。店屋物のチャーハンを食っている者や、タバコを機関車のように吹かしながらペンを走らせる者、黙々とソロバンを弾いている者などがいた。しかし、不破の訪問に対応しようとする社員はいない。
「あの、ごめんください」
 不破少年は声を張り上げた。
 男性社員たちの目が一斉に集まる。誰もが訝しげな顔つきだ。出入口に近い若い男が、チャーハンを食べる手を止めて訊いてきた。
「僕、どうしたの。卓球クラブは下の階だよ」
「王大偉さんはいますか?」
「大偉さんって……」
 若い男の顔が強ばった。エレベーターで出くわしたヤクザとそっくりな反応だ。
「ヤブさん」
 若い男が救いを求めるように、ソロバンを弾いていた初老の社員を見やる。
 ヤブさんと呼ばれた初老の社員がソロバンの手を止め、上目遣いに不破少年を見上げる。
 ヤブは黒い腕カバーと大橋巨泉のような黒縁のメガネをかけていた。野暮ったくて田舎の役人みたいに見える。彼はおもむろに腕カバーを外すと、わら半紙と鉛筆を手にして席から立ち上がった。
「こういうお客さんは久しぶりだな」
 ヤブに事務所の端へと案内された。テーブルセットの簡素な椅子を勧められる。
 不破少年が椅子に腰かけると、ヤブは対面トイメンに座ってテーブルにわら半紙と鉛筆を置いた。
「名前と住所、連絡がつきそうな電話があるなら番号を書いてもらえるかい。ふりがなも忘れないでね」
 ヤブはそれこそ役人みたいな口調で告げてきた。不破少年はわら半紙に目を落とす。
「これはなんだべが」
「受付票みたいなものだね。気を悪くしないでくれ。誰だかもわからん人を、我が社の会長に会わせるわけにはいかないのでね。名刺持ってないだろう?」
「はあ」
「じゃあ、書いてくれるね」
 ヤブはポケットからタバコを取り出し、マッチでタバコに火をつけて盛大に煙を吐いた。
 不破少年は名前とふりがなを書きながら不安を覚え始めた。いきなりやって来た自分が、手放しで歓待されるとは思っていない。王大偉はこの街の顔役だ。招かれざる客が昼夜を問わずにやって来るのだろう。
 ――でも、大丈夫よ。行けば必ずわかってもらえるから。手紙にはあなたのことをよろしくと書いてあるわ。
 病床の母は言っていたものだった。
 母の言葉を頭から信じて上京したものの、ヤブの妙に慣れたお役所じみた対応を受けると、母の考えと現実には隔たりがあったのではないかと思う。
 母は善人ではあったが、幸福な人生を送ったとは言えない。最期は不破少年と小指のない小屋の支配人、それに半年間だけともに働いた嬢の三人に見送られて寂しく逝った。
 不破少年は鉛筆の手を止めた。ヤブに訊かれた。
「どうしたの」
「住所も電話番号もねえっす」
「ええ?」
「ここに来れば、もう心配しなくていいがらって」
「誰にそんなことを言われたの」
 ヤブは淡々と応じていたが、徐々に顔を曇らせた。
「母だべ」
 ヤブがわら半紙を手に取った。彼はそこに書かれた名前を呟いた。
「不破……」
 不破少年は前のめりになって声を張り上げた。ヤブだけではなく、事務所にいる全員に聞いてもらいたかった。
「母の名前は不破有紀子ゆきこと言います。こちらで昔やってだ『モンマルトル』の舞台女優をしてだって。その母も先月死んじまったんで、こうしてひとりで上京したんです。母が常々言ってました。自分がいねぐなったら新宿に行げって。なぜなら、おれの父親は王大偉さんだがらって」
 事務所にいた男たちが、仕事や雑談を止めて一斉に不破少年を見つめた。ヤブを含めた全員が目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
 ヤブはまだつけたばかりのタバコを灰皿に押しつけると、ソファから慌てた様子で立ち上がった。早足で隣の別室に向かうと、静かにドアをノックした。
 ヤブは不破少年の名を見たときから、すでに心当たりがありそうだった。不破有紀子の名を聞いて狼狽している。ヤブは母とも面識があったのかもしれない。まったくのでたらめだと一蹴され、相手にされずに叩き出されずには済みそうだった。
 不破少年は別室のドアを見つめた。ヤブの仕草を見るかぎり、別室には重役が控えているのかもしれない。もしかしたら、父親なのだろうか。
 不破少年は唾を呑みこんだ。心臓の鼓動が速くなっていくのを感じる。すぐ傍に父がいるかと思うと、とても落ち着いてはいられない。
 ヤブは別室に消えたまま、なかなか出てこようとしなかった。学帽の鍔を握りしめて待つが、耐えきれなくなって近くのデスクにいた若い男に声をかけた。
「あの……」
 若い男はチャーハンを食べ終えていた。彼も緊張した面持ちで、不破少年と同じく別室を見つめている。
「へ? なに?」
「隣に会長さんがいるんだべが」
「うん、まあ……その、どうだろうな」
 若い男は言葉を濁すだけだった。不破少年の顔を見ようとしない。
 おれはどうなるんだべが。あの世の母にも尋ねてみた。母はのんきに答えるだろう。きっと大丈夫だと。
 石礫が左目に命中し、眼医者から失明と告げられても、母はいじめっ子たちを恨んではいけないと不破少年を諭した。あなたは『しんとく丸』なのだと。
『しんとく丸』は、母がとくに好んだ民話だ。しんとく丸は継母に呪いをかけられて視力を奪われ、長者の家まで追い出され、物乞いとして苦難の道を歩む。
 飢え死にする寸前のところで、仏様や氏神に助けられ、かつて婚約していた心優しい娘と再会し、観音様のご加護により視力も戻ってめでたしとなる。その一方、しんとく丸を追い出した実家の長者は没落。話のオチはいくつかあるようで、しんとく丸に呪いをかけた継母は物乞いに落ちぶれるか、大人になったしんとく丸に斬り殺される。
 母は舞台女優をしていただけあって、その手の話に詳しく、そして三度のメシよりも好んだ。『しんとく丸』『小栗判官と照手姫』、シェイクスピアの『ペリクリーズ』などを。数年前はテレビを持つ下宿の大家に頼み込み、大河ドラマの『源義経』を毎週見せてもらっていた。
 気高い身分の者が、苦しい流浪の人生を歩まざるを得なくなり、最後は主人公の人徳や信心深さのおかげで返り咲きを果たすといった話だ。母は新宿という都から追い出された自分を、この種の物語の登場人物と重ね合わせていたのだ。
 ヤブが別室から出て来た。隅にいた不破少年を手招きする。
「君、来てくれるかい?」
 不破少年はソファから勢いよく立ち上がり、風呂敷とアタッシェケースを両手で担ぐと、駆け足で別室へと入った。

 

(つづく)