平成八年
1
不破は紋付き袴姿で正座をしていた。
会場は壮観だった。約六十坪のホールを借り切り、百畳分の畳を敷きつめて和風にした。場内には岡谷組の幹部組員と天仁会系の親分衆が顔を揃えた。その数は百名以上にもなる。全員が黒紋付、礼服といったいでたちだ。
継承式の儀式は厳かに行われていた。下総小滝一家総長で媒酌人の海上長次郎が、徳利を左手に持ち、右手の二本指で口を切る仕草を見せた。
海上は盃事の作法を熟知する数少ない盃事師といわれ、東日本のヤクザ社会においては、彼に媒酌人を依頼するのが一種のブランドと化していた。古希を過ぎた痩身の老人ではあるが、その流れるような所作は伝統芸能を極めた名人のようだった。
海上は酒で満たした盃に、箸を使って鯛と塩を入れる真似をした。ひと通りの口上を述べ、一連の神事が一段落すると、継承式の見せ場である盃事に入った。
「これより岡谷組初代岡谷健吉殿と、跡目を相続なさいます不破隆次殿の間で盃を交わします」
若い衆が三宝に載せた盃を持って岡谷のもとへと歩んだ。岡谷が高座椅子に座って若い衆と互いに一礼する。
岡谷は八十を過ぎて老化が一層進んだ。糖尿病の悪化もあって身体は小さくなり、すでに自力では歩くことさえままならない。組長の座にありながらも、近年は若頭の不破に組の舵取りを任せていた。近藤が存命であったなら、もっと早くに引退できただろう。
岡谷は引退の決意に変わりがないと挨拶を述べると、手を震わせながらも盃の酒を三口で飲み干した。とうの昔にアルコールを受けつけられる身体ではなくなっているが、顔を赤くさせながらも空になった盃を三宝に置いた。
海上が出席者たちに宣言した。
「ご一統様に申し上げます。この盃こそ岡谷組二代目相続の盃でございます。よろしくご検分願います」
若い衆が三宝を持って会場内を回った。出席者が背伸びをして盃を見つめる。
海上が不破のほうに向いた。
「不破隆次殿に申し上げます。これより岡谷組二代目襲名相続の盃事に移りますが、このお神酒を飲み干せばすなわち貴殿は岡谷組の相続者と相成ります。一家一門の頭領たる者、すでに充分なるご覚悟をお持ちでしょうが、任侠界の指導者として名を汚さぬように務めねばなりません。さらに任侠道に精進なされますよう、ここにお願い申し上げます。この盃を一気に飲み干して懐中深くおしまいください!」
盃事も大詰めに入った。酒で満たされた盃が運ばれ、出席者の視線が一斉に不破へと注がれる。
不破は四十一歳という異例の若さで二代目を襲名した。だが、岡谷組内で異論は出なかった。上部団体の義光一家でも同様だ。不破の経済力は岡谷組でも突出しており、組のために身体も張ってきた。
ヤクザ社会は年功序列の気風が強い。その一方で容赦ない実力主義の世界でもあり、年少者や経歴の浅い人間を親とし、その命令には服従しなければならないのだ。
それでも、不破の兄貴分たちも彼がトップになるのを望んだ。不破自身も己こそが二代目にふさわしいという自覚を持っている。近藤が亡くなってから九年の月日が経ち、不破が次期若頭に任命されると、岡谷組の発展のために奔走してきた。
それでも、出席者たちの視線が痛かった。盃を手にするのはお前ではないと目で言われている気がしてならない。
不破は右目をつむった。疑心暗鬼を振り払って目を見開き、三宝に置かれた盃を両手で持つ。会場がしんと静まり返るなか、盃の酒をひと息で飲み干した。空になった盃を半紙で包んで、すぐさま懐にしまった。
海上が承認書や譲渡書を読み上げ、不破と岡谷に席替わりを促した。不破はその場で立ち上がり、岡谷は若い衆に支えられて車椅子に乗った。岡谷は祭壇に向かって右側の席から左側へ。不破は左側から右側へと席を交替する。
「席が替われば、二代目不破隆次殿がすなわち当代です!」
海上が声をさらに張り上げた。
同時に祭壇の両脇の書上げが剥がされ、その下からふたりの名前が入れ替わった新しい書上げが現れた。出席者が一斉に相好を崩した。
「祝い一本締めをもちまして継承式の結びといたします」
海上のかけ声のもとで一本締めが行われた。百人もの出席者による手拍子は盛大だった。
継承式をつつがなく終えると、不破は来客者に挨拶をして回り、楽屋にいる海上に礼を述べた。
海上はテーブルに突っ伏していた。フルマラソンを完走したランナーのように疲れきっている。身体がよほど火照っているらしく、彼の老いた子分が扇子であおいでいた。
継承式の主役こそ不破や岡谷であるが、儀式そのものは媒酌人の独壇場だ。それだけに重い責任が伴う。海上は大好きな酒を十日前から断ち、自宅では二十四時間加湿器を稼働させ、寝るときはマスクをつけて喉を守ったという。書上げに記された親分衆の名に間違いないかを確かめ、当日のリハーサルも入念に行った。
「海上さん、ご苦労さまです。名媒酌人と誉れ高いあなたにお願いしてよかった」
海上が身を起こした。姿勢を正して不破に頭を下げる。
「二代目、礼を言わなけりゃならんのはこちらのほうなんだ。今回は岡谷さんの引退式でもあったわけだが、私にとっても最後を飾るにふさわしい式となった。盃事師の冥利に尽きる。これで心置きなく身を引けるよ」
「なにをおっしゃるんです。海上さんの所作を学びたいと思っている親分衆は全国にいる。まだまだ頑張っていただかないと」
「これがいないんだよ」
海上は否定するように手を振った。
「例の新法でね。あれのおかげでぱったりとお呼びがかからなくなってね。どこの組も厳しいみたいだ。これほど大きな式典が開かれるのは、少なくとも私が生きている間にはもうないだろう」
新法とは平成四年に施行された暴力団対策法のことだ。この忌まわしい法律のおかげで、ヤクザの行動は著しく制限された。
暴力団対策法が施行されてからは、たとえ大組織であってもホテルやホールの宴会場を借りられなくなった。大規模な盃事を行えなくなり、近年は身内だけで済ませる傾向にある。
岡谷組も例外ではない。この継承式を催すためには莫大な費用と労力が費やされた。法外な値段で会場を押さえたかと思えば、警視庁が会場の運営企業に圧力をかけて強引にキャンセルをさせる。ヤクザ側が運営企業に対してゴネようものなら脅迫罪で逮捕される。
他県での開催も検討されたが、岡谷の強い要望により地元新宿での会場探しとなった。
最終的に頼ったのは王一族が経営するブライトネスだった。歌舞伎町のブライトネスビルにはディスコを改造した貸しホールがある。ブライトネスには新宿署から有形無形の圧力がかけられたものの、最終的には警察側の要求をすべて跳ねつけさせたのだ。
不破は楽屋を辞した。会場は二階にあり、通路からは歌舞伎町の噴水広場が見下ろせた。ふだんは多くの若者がたむろする場だが、今日は警視庁刑事部捜査四課と新宿署が、常駐警備車やパトカーを配置し、活動服を着た警察官を並べさせて物々しい雰囲気を醸し出していた。物騒な街宣車で企業を追いつめたエセ右翼に似ていた。
不破はロビーへと向かった。そこには後見人や取持人など、継承式のために骨を折ってくれた親分たちがいる。
「二代目」
土居が羽織袴姿で近づいてきた。
「お前も来て顔を売れ。二代目岡谷組の若頭なんだ」
「その前に耳に入れたいことが」
「どうした」
「伊原観光の件です。今までどおりのつきあいとなりました」
「うん」
不破は土居の肩を軽く叩いて労をねぎらった。
伊原観光は歌舞伎町に二棟の雑居ビルを持つ貸しビル業者だ。テナントの多くはスナックやクラブで、社長の伊原浩一も妻にブティックを経営させていた。
岡谷組と伊原観光の関係は古く、約三十年にわたって面倒を見てきた。テナントの店にタチの悪い酔客やチンピラが現れれば、岡谷組の若い衆がすみやかに連れ出した。
伊原は恐妻家でもあった。繁華街のビルのオーナーであり、周りからは億万長者と羨ましがられたが、自由に使えるカネは大して持っていなかった。財布はもっぱら妻に握られていたため、不破の金融会社からたびたびカネをつまんで東南アジアへ買春ツアーに繰り出していた。バブル期には一緒にゴルフ場を回るなど、不破とも古くから交流があったものの、ここ最近になってみかじめ料の払いをしぶるようになった。
不破はカメラのシャッターを切る仕草をした。
「美人局だろう。お前の得意技だ」
「私生活をちょこっと調べるだけで充分でした。社長さん、有名なロリコンだったようで、コギャルと仲良く渋谷のホテルにしけこむところを収めました。ご本人に写真を速達で送ったところ、今後も円滑なつきあいをしたいと」
土居は静かな口調で答えた。
不破は土居を見やった。彼はかつて暴走族のリーダーで、不破との出会いは最悪だった。彼はブライトネスの総帥だった王英輝を美人局で嵌めようとし、不破と近藤にこっぴどく痛めつけられた。当時は向こう見ずなクソガキだったが、あれから十八年の月日が流れ、今では忠実に組の仕事をこなす右腕となった。新宿育ちの土居に憧れて、岡谷組にゲソをつける若者も少なくない。
不破はあたりを見回した。周囲に誰もいないのを見計らってから土居に尋ねた。
「例の件のほうはどうだ」
「岡谷の家に詰めてる若い者にかき集めさせてました。しかし、あんなもんを一体──」
「いいんだ」
土居の肩を再び軽く叩いて話を打ち切った。
来客者に挨拶を済ませた後も式典は続く。二代目岡谷組組長として子分たちと親子盃を交わす必要がある。上部団体である義光一家の幹部組員として、しばらくは東日本を中心に挨拶回りの旅に出なくてはならない。
取り組むべき課題は山積みだった。海上が言うとおり、ヤクザ社会には強烈な逆風が吹いている。
縄張りとしている歌舞伎町は依然として、人々の欲望を満たす繁華街であり続けている。だが、バブル期のような勢いはない。肩で風を切って歩いていた土地成金が姿を消し、歌舞伎町にも不景気の波が押し寄せている。岡谷組とのつきあいを断とうとするのは伊原観光だけではない。経費削減のためにみかじめ料を削り、ケツモチを警察組織に乗り替えようとする者も現れている。
悩みはつきなかったが、不破は晴れやかな笑顔を浮かべ、土居とともにロビーへと向かった。