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2(承前)

 岡谷組の近藤といえば、新宿の住人で知らぬ者はいない。すでに筆頭若衆という役職に就き、かつての鞭馬会のように因縁をふっかけるチンピラもいない。
 最後に彼の足技を目にしたのは二年前で、相手はゴールデン街で無銭飲食をした関西の流れ者だった。ドスを持ったヤクザ崩れの顎に足刀を叩きこんだのだ。
 たとえ街をひとりで歩いていても、近藤の場合は酔っ払いやよそ者に絡まれずに道を譲られる。いくら身体が大きくなっても、週に何度もケンカを吹っかけられる不破とは対照的だった。
 雄也が「ゴロってなに?」と訊いてきた。不破は彼の頭をなでながら「仕事のこと」とごまかした。
 近藤は雄也に気を遣って小声で話した。
「おれが言いたいのは、ゴロなんざ巻かれないほどの男になれってことだ。いくら腕っぷしが強くとも、服装や所作に隙があるから低く見られるんだ。台湾にもいたよ。おれの軍隊仲間で最強を誇った男だ。だが、つまらねえケンカがもとで、恨みを持たれた連中に立ちションしている最中にブスブスやられた。今日はその意味を噛み締めて過ごせ」
「……はい」
 尻が破けたままで病院内を移動しなければならないのかと思うと、ひどく憂鬱ではあったが、衣装を軽んじていたのは事実だ。懲罰として受け入れる覚悟も固まった。
 歩美が椅子から立ち上がった。
「ちょっと病室の様子見てくるわね。そろそろ行ってもいいころじゃないかな」
 だが、彼女はその場で立ち尽くした。驚いたように息を呑む。
「どうしたんだ」
 近藤と不破は喫茶室の出入口を見やった。ふたりとも歩美と同じく身体を硬直させた。
 ひとりの小柄な老女が喫茶室に姿を現した。グレーの頭髪を少年のように短くし、刺繍入りのブラウスのうえに上品そうなベージュのニットケープを羽織っている。胸には大粒の真珠のネックレスが光っていた。
 金持ちのマダムといった姿なうえに、さっそうとした歩きぶりのせいか、六十五歳という年齢よりも若々しく見えた。王大偉の妻の徐慧華だった。彼女はつかつかと近藤たちのテーブルに近づいてきた。
「お義母さん。ご無沙汰しております」
 近藤が立ち上がって徐慧華にお辞儀をした。
 彼の脚がテーブルに当たり、食器類が甲高い音を立てる。思わぬ人物の登場に戸惑いを隠せないようだった。
 不破も同じだ。声をかけていいものか迷いながらも、彼女の傍に寄って頭を下げた。
「不破隆次です」
 名を名乗るのが精一杯だった。
 王大偉には目をかけてもらっているだの、大変お世話になっているだのといえば、ただのイヤミになりかねない。
 新宿に棲みついて八年が経ち、王大偉にも息子として受け入れてもらった。父や兄たちと交流を持てば、徐慧華と会わずに過ごすのは無理というものだった。
 これまでにも何度か顔を合わせかけている。『ブライトネスビル』の通路や、王英輝が経営する会員制クラブ『波士敦』などで。この継母を近くから見かけただけでなく、しっかりと目が合ってしまったことがある。
 徐慧華はそのたびに視線をそらし、ごく自然に振る舞っていたものだった。不破は安堵を覚えながらも、鉛を呑みこんだような重たい気分に陥ったものだった。彼女にはまるで認められていないのだと。
 徐慧華が不破に軽く会釈をした。
「あなたが隆次君ね。主人から聞いていたわ。息子たちからも。私たち一族のために身体を張ってくれていると」
「ありがとうございます」
 歩美や雄也も慌てて挨拶をした。
「お義母さん」
 誰にでも気さくで人見知りもしない歩美たちだったが、彼女たちも徐慧華ときちんと言葉を交わすのは初めてのようだった。雄也はペコリと頭を下げながらも、視線をさまよわせて自己紹介をした。
 徐慧華は近藤らとひとしきり言葉を交わすと、社交的な微笑を湛えて上階を指さした。
「あなたたちも来てくださらない? 英輝と智文の家族も待ってるの。夫が生きている間に、子や孫たち全員が揃うことなんてそうそうないでしょうから。写真を撮ろうと思って」
 近藤が問い返した。
「よろしいのですか? 私たちが加わっても」
「夫も強くそれを望んでいるし、私自身もあなたがたに来てほしいと思ってるの。来てくれる?」
「もちろんですとも」
「夫も今日は調子がよさそうだし、カメラマンが今準備をしてるところだから」
 徐慧華は近藤夫妻や不破に会釈をして喫茶室を後にした。不破たちは彼女の後姿を黙って見守った。
「どういう風の吹き回しかしら」
 歩美は訝しげに呟いた。全員が抱いている疑問を代表するかのように。
「わからん」
 近藤も首をひねった。
 徐慧華は近藤一家や不破にとって、ずっと目のうえのたんこぶであり続けた。米ソのように長年にわたり、冷戦を繰り広げてきたといってもいい。それが水面下での根回しもなく、まるで対立すらなかったかのように接近してきたのだ。
 不破の母は徐慧華によって新宿から追い出され、孤立無援のさすらい人生を送って果てた。その息子はこの街に戻って王大偉に認められたが、彼女には現在にいたるまで存在を無視され続けた。
 母から徐慧華を恨んではいけないとくどいほど言い聞かされ、近藤一家のような温かい家庭に拾われていなければ、母の仇と強い恨みを抱いたかもしれない。
 近藤にとっても徐慧華は複雑な関係にある。幼少まではふたりの兄たちと平等に育てられていたというのに、シンデレラの意地悪な継母のごとく冷遇され、それがきっかけでヤクザの道へと進む羽目になったのだ。
「ともかく行くとしよう」
 近藤が伝票を持ってレジへ向かった。不破たちも移動の支度にかかる。
 徐慧華の考えはわからないが、彼女の申し出を断る理由もない。不破たちは喫茶室を後にして階段で病室へ向かった。王大偉が闘病生活を送っているのは最上階の五階にある特別病室だった。
 近藤が特別病室のドアをノックした。「どうぞ」と徐慧華の声が室内からした。不破たちは入室した。
 室内は相変わらず豪華だった。まるでホテルのスイートルームのような広々とした部屋だ。大勢の見舞い客がやすらげそうな大きなソファとテーブルが設置されている。テーブルは見舞い客による手土産と思しき菓子や生花、フルーツなどで埋め尽くされていた。
 特別病室は風呂やトイレも備わっており、小さなキッチンや冷蔵庫、さらに家族などが待機できる別室まであった。大物政治家や財界人といったVIPが利用するらしく、官僚や社長連中たちと打ち合わせをするのだという。
 ベッドがある部屋には、王智文の家族が顔を揃えていた。王英輝のほうは別室にいるらしい。
 複数の家族がくつろげるだけの広さがあったものの、室内はだいぶ賑やかで手狭になりつつあった。長髪のカメラマンがベッドの近くで三脚や反射板などを用意している。
 近藤たちが部屋に入ると、室内は奇妙な空気に覆われた。お転婆な性格で知られる王智文の娘たちが、それぞれ学校の制服を身に着け、テーブルの和菓子を頬張りながらおしゃべりに興じていた。だが、近藤たちの姿を認めると驚愕した様子でぴたりと口を閉じた。徐慧華と近藤一家を交互に見つめる。王一族内の冷戦は子供たちも知っている。
 ベッドの王大偉は本当に調子がいいようで、鼻や腕につけていた管は外され、上半身を起こして撮影に臨もうとしていた。
 だが、父の姿は訪れるたびに痩せ衰えて見えた。長いヒゲは剃り落とされ、ブカブカの寝間着姿のままだ。目はひどく落ち窪んで頬骨が浮き出ており、手首や肘の内側は度重なる注射や点滴で黒ずんでいた。顔色自体も土気色で危うさを感じさせる。
 かつては息子たちの前ですら、常に軍人のように背筋を伸ばし、鋭い視線を向けては威厳を感じさせていた。
 今は表情に締まりはなく、口は半開きのままだ。視力も落ちたらしく、目にも力が感じられない。母の最期とそっくりだった。この大立者の命がじきに消えようとしているのは、火を見るよりも明らかだった。
 近藤たちは傍に寄って父に挨拶をした。
「親父」
「傑志か」
 王大偉が近藤たちを手招きした。不破や歩美もベッドまで身を乗り出して耳をそばだてる。
「よく来てくれた。まさかアレが許すとはな」
 王大偉が徐慧華をちらりと見やった。
「思ってもみませんでした。一体なにが……」
「私にもわからん。外交は得意だったはずなんだが。あいつの考えを変えられずに今日に至ってしまった。これがきっかけとなってくれればいいんだが」
 王大偉は自嘲気味に笑った。表情や声にこそ力はなかったが、意識のほうはしっかりしていた。

 

(つづく)