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3(承前)


 刺激に飢えた歌舞伎町の人間たちは見物を止め、何事もなかったかのようにボウリングを再開しだした。緊迫した空気が緩んでいく。
 地蔵と化していた学生アルバイトが急に働き者と化し、モップを握って血痕を懸命に拭き取ろうとする。下川が従業員室から出て来た。
 不破少年は歯を食いしばって身体を起こした。頭の出血こそ止まってはいたが、腹の痛みは依然としてきつかった。内臓が破裂していないのを祈るしかない。
 あばら骨もやはり折れているらしく、目の粗い鉄工ヤスリで骨を削られているかのような痛みだ。視界もまだグラグラと揺れていて立ち上がれない。
 主任の下川が近づいてきた。
「近藤さん、駆けつけてくださって助かりました。鞭馬会のクズどもときたら、今夜は一段とタチが悪くて――」
 南場が下川の頭に拳骨を喰らわせた。
「夜の責任者はてめえだろうが! 十五のガキに身体張らせやがって」
「ひっ。すみません」
 下川が近藤に向かって最敬礼で頭を下げた。
 近藤は下川を相手にせず、アプローチに上がって不破少年のもとへとやって来る。
 不破少年は胸の痛みをこらえて近藤に土下座をした。そうせずにはいられなかった。
「近藤さん、申し訳ねっす。申し訳ねっす」
「バカなことやってねえで寝てろ」
 近藤から仰向けに寝るよう早口で命じられた。不破少年はずっと額を床に擦りつけていたかったが、彼の指示に従って背中を床につけて寝そべった。
 近藤は不破少年のユニフォームと下着をめくった。腹部の皮膚が赤黒く変色している。自分でも驚くほどひどい色をしていた。
「不破君」
 麻里も駆けつけてくれた。
 彼女は濡らしたタオルを手にしており、不破少年の顔にべっとりとへばりついた血を拭ってくれた。
 近藤が触診した。彼は患部を慎重に触れたが、不破少年はそれでも勝手にうめき声が漏れた。とくに肋骨はなでられるだけで痛みが走る。
「肋骨が何本もイカれてやがる。急いで診療所に運ぶぞ。少し痛むが我慢しろ」
 近藤は舎弟たちを呼び寄せた。
 こうした事態が頻繁にあるせいか、彼らは消防署員のようにすばやく隊列を組んだ。近藤ら三人は不破少年の背中に両腕を入れると、駆け声とともに立ち上がった。六本の腕で担架のように抱えあげられる。
 不破少年の目から涙があふれた。視界のボウリング場の屋根が水浸しになってまともに見えない。
「めそめそするな。ちんけな町医者だけどな、腕は悪くねえ」
「んでねえんです」
 不破少年は洟をたらしながら答えた。
「おれは近藤さんを疑っちまった。王一族を守ると散々言ってたくせに、錦城連合とかいうでっかい組織には頭が上がんねえんだって。しょせん口だけでしかねえんだって。だがら、こだなふうに運んでもらう資格なんかねえんです」
「純な野郎だな。『走れメロス』かよ」
「メ、メロ?」
「太宰治の小説だ。歩美が持ってるから今度貸してやる。とにかく、そんなことは忘れちまえ。お前が運んでもらう資格がないというのなら、同じくおれを芋引き野郎と疑った宏と次郎は小指エンコを飛ばさなきゃならなくなる」
「ええっ」
 南場と徳山が動揺したのか、彼らの腕による担架が揺れる。徳山が何度も頭を下げる。
「あ、いや……おれらだって兄貴を疑うわけないじゃないですか」
「どうだかな」
 近藤が意地悪そうに片頬を歪めた。不破少年は兄から赦されて安堵の息をつく。
「でも、あいつが捕まるって本当だがっす」
「なんだ。まだおれを疑ってるんじゃないか」
「あ、いや……」
「安心しろ。翌朝には縛についてるはずだ。戦わずして勝つ。孫子の兵法ってやつだな」
 悪戯っぽい笑みこそ浮かべるが、近藤の目はいたく真剣だった。不破少年の心が安らいだ。骨折の痛みさえ和らいだ気がする。
 彼は心に決めた。もう疑ったりはしない。なにがあっても、この兄を信じてついていこうと。





 不破少年が職場復帰を果たしたのは、新井と衝突した三日後だった。
 ボウリングのボールを投げつけられて肋骨を三本へし折られ、コーラ瓶で頭を叩き割られて五針縫う羽目になった。
 殴られるのは慣れていたが、それでも限界があったようだ。その後に三十九度の高熱が出て苦しめられた。しばらくめまいが続き、新聞もマンガも読めなかったが、二日後の夜になって熱が引いてじっくりと読むことができた。
 不破少年が病院送りにされた日の夕刊に、鞭馬会の村上会長らを含め、新井に関する記事が掲載されていた。監禁と傷害、脅迫などの罪で捕まったという。
 村上たちは、部屋住みの若い衆が会長自慢の高麗青磁の壺を割ったことに激怒。村上が教育と称して若衆を素手で殴打し、小指を詰めろと迫った挙句、副会長と新井に木刀で制裁するよう命じた。新井たちは親分の命令に従って若い衆にリンチを加えたらしかった。近藤が言ったとおり、ボウリング場で暴れた日の早朝に、彼らは四谷署に逮捕されたのだ。
 あの夜の近藤はヒーローであり、魔法使いのようですらあった。あれほど手のつけられない乱暴者から救ってくれ、やつらに地団駄を踏ませて追い払ったばかりか、さらに城へ近づかせないように手まで打っていたのだから。
 当の近藤は大したことはしていないと、そっけなく答えるだけだった。本当にすごいのは親分の岡谷と王大偉なのだと、病床の不破少年に教えてくれた。
 王大偉は台湾の蒋介石と昵懇の仲にあり、都内の華僑華人のまとめ役でもある。日本の与党であるせい党の国会議員たちとも関係が深い。そのなかには警察官僚出身の代議士もいるという。外国人であることを巧妙に隠した献金や夜の接待など、かなりのカネを政界に投入している。
 王一族の領地を荒らす害獣が現れれば、代議士を通じて警視庁が動き、すみやかに害獣を排除するというシステムが確立されているとのことだった。東洋一の歓楽街と呼ばれる土地の王でいるには、財力と人脈こそが最大の武器になるのだとも。
 岡谷組の岡谷健吉も、錦城連合に全面戦争を仕掛けるような無謀な猪武者ではなかった。大手の傘下に入って鼻息が荒くなった鞭馬会を徹底して調べ抜き、同会が勢力を拡大させるために家出少年や暇を持て余した若者を無理やり引っ張りこんでいるという実態を掴んだ。リンチに遭った若い衆もそのうちのひとりだった。
 岡谷はリンチの件を知ると、彼自ら病院を訪れて若い衆と接触。身の安全を保証すると約束したうえでカネを握らせ、若い衆に四谷署へと行かせて被害届を出させたのだ。王大偉と岡谷の巧みな連携プレイで警察組織を動かし、鞭馬会潰しを行わせたのだ。
 鞭馬会の構成員は逼塞を余儀なくされた。トップのふたりと切り込み隊長の新井が逮捕され、現在は機能不全に陥っており、組員たちは岡谷組の反撃を恐れて、組事務所にすら誰も寄りつかず、情婦や知人の家に隠れて息をひそめて過ごしているという。近いうちに詫びを入れに来るだろうとの話だった。

 

(つづく)