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9(承前)


 石国豪は昨夜歌舞伎町へ繰り出すと、そのまま翌日の午前中まで帰ってこなかった。仕事が控えているにもかかわらず、風呂屋で女を代わる代わるやりまくっていたという。七発はやったとうそぶき、その後は呑気に眠りこけていた。
 運転席の近藤が後ろを振り返った。石国豪の膝を揺すって起こした。
「兄弟、そろそろ出番だ」
「うん?」
 石国豪は眠そうに目をこすった。
 昼間からずっと寝ていたというのに、かったるそうにアクビをする。
「やっぱり昨夜はちとやりすぎたな。疲れが取れてねえし、チンポコが擦り切れて痛む。明日にしねえか」
「そうはいかない。明日は土曜だ。あの売春宿も混みあう」
 近藤が首を横に振った。
 不破は助手席にいる南場の様子を窺った。彼は奥歯を噛み締めて苛立ちを必死にこらえていた。
「本気にすんなよ。こんなもんいつだって行ける」
 石国豪は首をひねってフシを鳴らした。
 隣の不破は左掌の真ん中を指で押した。空手の師範から教えてもらった老宮というツボだ。高ぶった気分を鎮める効果があり、緊張を和らげるという。
 もはや石国豪の態度や言動にカリカリしている余裕はない。不破の掌は小刻みに震えており、手はびっしょりと汗で濡れている。いびきを掻いて寝ていた石国豪とは対照的だった。
 近藤が南場に目で命じた。南場の膝のうえには頑丈そうな革製のハードケースが置かれてある。
 彼は近藤にうなずいてみせると、後ろを振り返って石国豪にハードケースを渡した。石国豪はそれを受け取ると、金属製の留め具を外して開けた。
 なかには緩衝材の窪みにぴったりと収められた自動拳銃とマガジン、金色に輝く複数の実弾があった。
 自動拳銃はなじみのあるコルトガバメントだった。米軍の制式拳銃で、日本国内に横流しされた四十五口径だ。それ以外にも見慣れない部品や竹輪のような形の丸い筒も入っていた。
 石国豪は黙ってコルトガバメントを手にした。銃口に部品を押しこんで装着すると、その先に丸い筒を取りつける。拳銃の発射音を軽減するサイレンサーと呼ばれるもので、『ダーティハリー』といったアクション映画でしか見たことがなかった。石国豪はマガジンに実弾をなんなくこめていく。
 大抵は固いバネに阻まれて装填するのに手間取るものだが、拳銃に慣れ親しんでいるらしく、七発の弾を瞬く間に詰め終え、マガジンをコルトガバメントに挿入した。スライドを引いて薬室に弾を送る。
「うん……いいな」
 石国豪はグリップを握ってじっくりとコルトガバメントを見つめた。
 彼は眠そうな目つきから一転して、瞳をギラギラと輝かせていた。妖刀を手にした人斬りのような気配を漂わせ、今にも手当たり次第にトリガーを引きそうだった。南場の表情が硬く強張る。
 石国豪が首を傾げた。
「どうした、大将。腹でも壊したか?」
「客人……お言葉ですが、安全装置をかけてくれませんか。撃鉄が起きたままで」
「おれが暴発なんてやらかす間抜けだと?」
「そういうわけじゃ」
「じつはそのとおりだ」
 石国豪は南場に銃口を向けた。
 南場は叫び声とともに座席から飛び上がり、車の天井に頭頂部をしたたかにぶつけた。固い音が鳴る。南場は頭を抱えてうずくまった。
「おいおい、ヤクザがこれしきのことでビビってどうする」
 石国豪は薄笑いを浮かべた。セーフティレバーを上げてロックすると、サイレンサーつきのコルトを膝のうえに置く。
 近藤が石国豪を睨みつけた。
「こんなときに悪ふざけはよせ。標的に気づかれたらどうするんだ」
「騒いだのはそっちのあんちゃんだぜ。キモが小せえんだよ。こっちの片目の坊やを見ろ。じつに落ち着いてやがる」
 石国豪が親指で不破を指した。
 不破は左掌を指圧し続けていた。石国豪の悪ふざけは予想済みだった。歌舞伎町の風呂に案内したときから、この男がなにをしても驚かなかった。
 近藤が石国豪の目を見据えて言った。
「仕事が終わるまで悪ふざけは控えろ。それと念を押すようだが、あくまで消すのは標的とチンピラだけだ。これは絶対だ」
「女もまとめてっちまったほうがいいぜ。死人に口なしって言葉もあるだろうよ。目撃者はあらかた消しておくのが――」
「国豪、おれたちは外道じゃない」
「じゃあなんだ。おれを外道だと言いてえのかよ」
 石国豪が口を尖らせた。
 近藤と石国豪は目を合わせたまま動かなかった。車内の空気が張りつめる。南場が頭頂部をさすりながら、ふたりのやり取りを用心深く見つめる。
 不破は左掌を揉むのを止めた。鼻から静かに息を吐いて肩の力を抜く。石国豪がまたも“悪ふざけ”を続けるようなら裏拳を鼻に叩きこんでやるつもりだった。車内が静まり返ったために、雨音がやけにうるさく感じられる。
 石国豪がゆっくりと両腕を上げた。根負けしたようにホールドアップしてため息をつく。
「確かに女は宝だ。お前が用意してくれた女たちも最高だったしな。ケツも大きくて締まりもよかった」
「最前線に行くのはお前だ。安全な場所にいるやつに言われて腹も立つだろうが堪えてくれ」
風呂屋の女どもも言ってたぜ。いずれ岡谷の二代目はお前になるんだって。誰にだって立場ってもんがあるからな」
 石国豪は手を軽く振った。
 この殺し屋は事実を口にしているのだろう。近藤に腹を立ててはいない。組織や肩書きに縛られた旧友を憐んで軽蔑しているのだ。
 兄貴はお前みたいな匹夫の勇とは違う。不破は心のなかで舌打ちした。石国豪が好き勝手に暴れられるのは、岡谷組の地固めと根回しのおかげなのだ。
 王一族と杉若徳太郎を敵に回した罪はきわめて重い。岡谷は今回の美人局によるトラブルを外交カードとして利用し、鞭馬会の上部団体である錦城連合の幹部たちと交渉に挑んだ。
 錦城連合は警察組織の頂上作戦によって大勢の組員や最高幹部まで逮捕され、一度は任侠道の看板を下ろして解散にまで追い込まれた。多くの警察OBや現役官僚とのコネを持つ杉若を向こうに回せば、警察組織は再び錦城連合に対して獰猛な牙を剥くだろうと圧力をかけたのだ。
 錦城連合の理事長から、今回の岡谷組と鞭馬会の暗闘には介入しないとの言質を得た。それだけでなく、鞭馬会会長の村上建策とも極秘会談を行い、ある密約まで結ぶまでに至った――新宿から失踪した新井を破門処分にさせると。
 鞭馬会は岡谷組に対して、「煮るなり焼くなり好きにしろ」というメッセージをひそかに発したことになる。対立していたヤクザ組織にそこまで言わせるには、日頃から有力者と関わって積み上げてきた政治力や、敵の勢力を分析できるだけの情報収集力がいる。
 今回の新井は組織から見放されるだけの悪手を打った。しかし、それは近藤たちの調査や岡谷の巧みな外交戦略が形勢を逆転させたからであり、こちらが打つ手を間違っていたら、新井は王英輝を屈服させて、『ブライトネス』への侵略を果たし、歌舞伎町進出を果たした功労者として鞭馬会から高い評価を得ていただろう。
 危機を間一髪で脱しただけでなく、岡谷組は反転攻勢に打って出たのだ。それを可能としたのは、岡谷や近藤たちの知恵や努力によるもので、欲望のままに生きる石国豪ごときができる芸当ではなかった。
 雨に濡れた『あさひ荘』に目をやった。木造家屋には標的の新井とその舎弟数名が詰めているものと思われた。売春宿に住み込みで働いている女や新井の情婦を含めれば十人程度はいるだろう。
『あさひ荘』の正面玄関の灯りがついた。全員の目が売春宿に向く。角刈りの若いチンピラが引き戸を開いて出て来た。鞭馬会に出入りしている不良少年だ。お使いでも命じられたのか、ダボシャツに腹巻という簡素な格好だった。つっかけサンダルを履いて買い物カゴを手にしながら、雨のなかを首をすくめて歩きだした。近くの自動販売機に向かうのだろう。
 不破と石国豪は黒の目出し帽をかぶった。暴走族どもも王英輝らを襲撃したときはこれで顔を隠した。もともとはスキーを楽しむための防寒具で、かぶると同時に顔や頭が火照った。バックミラーに目出し帽をかぶった己の姿が映る。目と口だけが露出し、まるでプロレスの覆面レスラーのようだった。
 南場も目出し帽をかぶった。そのうえから愛用のサングラスをかける。
「苗場あたりに滑りに行くような格好だな」
「そうですね」
 不破もうなずいてみせた。南場が弟分を気遣ってくれているのが痛いほどわかった。
「行けるか?」
 近藤も訊いてきた。いつになく真剣な顔つきで、瞳には寂しげな色が浮かんでいた。弟まで最前線へ行かせるのに罪悪感を覚えているようだった。
 その優しさがヤクザ社会では命取りとなり、不破はある種の歯がゆささえ覚えてもいる。だが、だからこそ多くの組員から慕われてもいるのだ。
「もちろんだよ」
 不破は作業服のファスナーを降ろし、左脇のショルダーホルスターを見せた。なかにはスミス&ウェッソンのリボルバーが収められてある。
 不破が探求し続けたのは徒手格闘だけではない。王一族や岡谷組の武器となれるように、『ブライトネス』の関連企業が所有する八王子市の山林でライフルや拳銃の扱いを勉強した。
 不破が出入りしていた政治団体には、大学空手部や柔道部の出身者だけでなく、旧日本軍の元将校だった老人も名を連ねていた。老人から撃ち方を習い、自腹で実弾を買って練習に励んだ。闇で売られている実弾の値段は高く、キリトリのシノギで得たカネの大半を投じていた。今夜のような日が来るのを待ち望みながら。
 所持しているのはリボルバーだけではない。腰には米軍が使うポーチとホルスターがあった。ホルスターには刃渡り十二センチの登山ナイフが収まっている。石国豪も同じく登山ナイフを持っていた。
 あとは新井一派に失踪してもらうだけとなった。岡谷や近藤が錦城連合という大組織にそこまで譲歩させたのだ。表沙汰にさせずに事を済ませなければならない。一族を守るために身体を張れるチャンスが到来したのだ。嬉しさがこみ上げる反面、緊張のせいか心拍数がやけに速かった。
「来たぞ」
 南場が注意を呼びかけた。

 

(つづく)