4(承前)
不破少年は『新宿ブライトボウル』の職員玄関を潜った。まだ頭に包帯を巻いてあり、胸部を守るためのコルセットをつけた状態だ。重たいボールの運搬や大型機械のメンテナンスといった力仕事は難しいかもしれないが、いつまでも休んでいるわけにはいかない。己の城がまともに営業しているのかを確かめずにはいられなかった。ヤクザ者に身体をベタベタ触られた挙句、容赦ない平手打ちまで食らった麻里の様子も気になる。
職員玄関から従業員室へと入った。珍しいことに下川が先に来ていた。ふだんは始業時間ギリギリに来るくせに、もう机に向かって書類仕事をしている。麻里もバケツとモップを手にし、開店前の清掃を始めようとしていた。他のスタッフはまだ来ていない。
「おはようございます。ご心配をおかけしました!」
不破少年は頭を深々と下げて大きな声で挨拶をした。ケガだらけであるがゆえに、元気になったとふたりにアピールしたかった。
「お、おう」
下川は小声で返事をするだけだった。
麻里も「おはよう」と挨拶を返してくれるが、目を合わせようともせずに従業員室を出て行った。
不破少年は戸惑った。いつもの下川であれば、包帯姿の自分をからかってきただろうし、麻里は心配顔でケガや体調を聞いてくれたはずだ。
隣の更衣室に移動しようとすると、下川が親指を上に向けた。
「ダンペイ、支配人が四階に来いとさ」
「四階に? なんだべが」
「さあな。おれはわからねえ」
下川は首をひねった。だが、彼の顔には知っていると書いてある。これで察しがついた。
「わがりました」
不破少年はボウリング場を出て、『ブライトネスビル』内のエレベーターホールに向かった。
このビルには稼ぎ頭のボウリング場を含め、いくつもの飲食店や娯楽施設、会員制クラブが入っており、エレベーターホールも多くの人でごった返す。しかし、今はまだどの店も準備中で、エレベーターホールもガラガラだ。
エレベーターのボタンを押しながら、心が冷えていくのを感じた。季節は春に変わっており、今日は雲一つない晴天で午前中から気温も高い。職場まで早足で来たため、うっすらと汗ばんでさえいるのに、ぞくりとした寒気に襲われる。
四基あるエレベーターのうちのひとつが一階に着いた。エレベーターのドアが開く。乗りこもうとしたが、なかには大勢の男たちがおり、不破少年は慌てて脇に退いた。
男たちがぞろぞろとエレベーターから降りた。男性用香水や整髪料に混じり、長年のタバコ臭がしみついた中高年男性特有の臭いがした。
彼らのなかには、王一族の皇太子にあたる王英輝と、彼の側近で『ブライトネス』総務課長の藪一太がいた。藪は上京してきた不破少年に最初に応対してくれた男だ。
王英輝と藪は不破少年に一瞥をくれるだけで、他の男たちとともに『ブライトネスビル』の正面玄関へと向かった。訪問客の見送りをしているらしく、ガラス張りの玄関ドアの先には、路肩に停車している黒塗りのセンチュリーが見えた。
訪問客はよほどの大物のようだった。普段は帝王のごとく胸を張りながら側近を連れ歩く王英輝だが、今は腰をわずかに屈めながら愛想笑いを浮かべ、訪問客の老人の歩調に合わせていた。
老人は頭髪こそ薄いものの、恰幅のいい体格をしていた。彼の着ている三つ揃えの背広は仕立てがよく、衣服に詳しくない不破少年でも高級そうに見えた。襟には菊の形のバッジをつけており、老人が国会議員なのだとわかった。王大偉が懇意にしている政治家のひとりだろう。秘書らしきカバン持ちを連れてビルを後にした。
大物たちの面々に気を取られたが、不破少年は自分の役割を思い出し、エレベーターに乗って四階に向かう。ボウリング場を手がける『大慶エンターテインメント』の事務所がここにあった。
不破少年はドアをノックして入室した。同社はボウリング場だけでなく、パチンコ店やビリヤード場なども手掛けているだけあり、『ブライトネス』の事務所よりも乱雑で、室内の隅は“出血大サービス”“出玉大放出”などと書かれたプラカードや宣伝素材が山積みとなっており、法被や蝶ネクタイ姿の社員が忙しそうに働いていた。
多額の現金が動くためか、奥には巨大な金庫が置かれてある。それは王英輝の部屋よりも大きく、経理課長が最新式のLSI電卓のボタンをさかんに押し、売上の計算に励んでいた。
経理課長の机にはしわくちゃの現金が積まれ、輪ゴムで乱雑にまとめられてある。パチンコ店の売上も好調であるうえ、鞭馬会の嫌がらせはあったものの、ブームに乗ったボウリング場は相変わらず大きな利益を生み出しているようだった。
不破少年が入室すると空気が変わった。ボウリング場での一件は広く知られているのか、社員たちの視線を一身に浴びた。ネクタイ姿の支配人が席を立って応接室に入るよう命じた。
応接室にはアルバイトとして採用されたさいに一度だけ訪れていた。次男坊である王智文の自己顕示欲の強さが表れた部屋で、壁には同じ慶應大学出身者の芸能人やスポーツ選手と握手を交わしたり、肩を抱き合う写真が額縁入りでいくつも飾られてある。
彼は熱烈な格闘技のファンでもあるらしく、名ボクサーのファイティング原田やカミソリ・パンチの海老原博幸、キックの鬼として知られる沢村忠のサインも誇らしげに掲げられている。
応接セットの上座のソファには、主である社長の王智文がすでに座っていた。会うのは不破少年が上京した日以来で、あのときと同じくソファにふんぞり返っていた。洋モクを吸いながら書類に目を通している。
「お久しぶりです」
不破少年は王智文に一礼した。
「座れ」
王智文は対面のソファを顎で指した。不破少年と目を合わせるどころか、彼のほうを見ようともしない。
支配人に座るよう促されたが、不破少年は首を横に振った。立ったまま話しかけた。
「おれはクビだべっす、社長」
王智文は書類から顔を上げた。不破少年を意外そうに見上げる。
「わかってるのなら話は早え。てめえはコレだ」
王智文は首を手刀で掻き切る真似をした。
不破少年は深いため息をついた。下川や麻里のよそよそしい態度で気づき、事務所の社員たちの反応で確信に変わった。とはいえ、納得したわけではない。
不破少年は王智文に詰め寄った。
「あんたがおれを気に入らねえのは知ってだず。だげんど、おれはあの外道どもから店を守るために身体張っただけだべ。なして、おれがクビにならなきゃなんねえんです!」
不破少年の剣幕に驚いたのか、支配人に後ろから強く組みつかれた。
支配人の手が胸部に触れて、折れたあばら骨に痛みが走った。彼の腕を振り払う。
王智文が不愉快そうに顔をしかめた。
「理由が知りてえのなら、おとなしく座れってんだよ。おれは他人に見下ろされるのが大嫌いなんだ」
不破少年は迷いながらもソファに腰を下ろした。隣に支配人が座った。
もう自分の解雇は決定済みなのだろう。この腹違いの兄のイヤミにつきあう必要などないのだ。
だが、不破少年としても黙って去れるはずもない。ボウリング場は長年の彷徨の末にようやく探し当てた居場所なのだ。クビの撤回は無理だとしても、せめて思いをぶつけずにはいられない。
「なして……おれがクビなんですか」
「胸に手を当てて考えろ。もし警察が駆けつけていたら、ヤクザと一緒にお前も逮捕られていただろうよ。お前の仕事はあのボウリング場の清掃や機械のメンテナンス、それにフロント業務だ。大事なお客様の拳を壊したり、どてっ腹にヘッドバッドを決めることじゃねえ」
「……あんなのが客なわけねえべや。あれは露骨に営業妨害しに来た害虫だべ。あんなのをのさばらせどいだら、それこそお客様にそっぽ向かれちまうどころだった」
「お前の母ちゃんが働いていたストリップ劇場じゃ、従業員が身体張って客を殴るのも仕事のうちだったかもしれねえが、あいにくうちはそうじゃねえ。ヤクザなんてのはテキトウにやり過ごして、新宿署のおまわりか岡谷組の用心棒が来るまで時間稼ぎするのが仕事だ。どこの世界にヤクザと血みどろの大立ち回りを披露するスタッフがいるんだよ」
隣の支配人も口を開いた。
「お前の言うとおり鞭馬会は害虫だ。我関せずと奥に引っ込んだ下川も言語道断だが、お前がやったことはもっとまずい。ヤクザをなだめるどころか挑発し、その挙句にドル箱である遊技場を血で汚した。ここは暇を持て余した荒くれ者が集まる土地だ。血なまぐさい話の噂はすぐに広まる。三人ものヤクザを叩きのめした若い従業員がいると、昨日からカミナリ族だの愚連隊だのが、ケンカ目的で様子をうかがいに来た。鞭馬会の跳ねっかえりが仕返しを企むかもしれない。そんな危うい場所にアベックや子供連れが気軽に来てくれると思うか? 結果的にお前はうちの品位を落とし、暴力という悪臭を振りまいたことになる。よかれと思ってやったんだろうがな」
支配人に諄々と説かれた。
彼は『ブライトネス』グループの古株社員だ。稼ぎ頭のボウリング場を任されるだけあって、かつては進駐軍の将校クラブで働いていたという。客商売のプロだ。高熱で寝こんでいる間に、事態がそんなふうに動いているなんて想像もしていなかった。ふたりから引導を渡された気がした。
「おれは……城を守りたがったんです。王大偉と息子さんたちが苦労して築き上げたこの城を。傷ひとつだってつけさせたぐねがった」
「おれたちの城ね」
王智文がオウム返しに呟いた。
不破少年は立ち上がった。抗う気はなくなり、思いを告げるという目的も果たした。ふたりに頭を下げる。
「どうもすんませんでした。短い間だったげんど、おふたりにはお世話になりました。こだな自分勝手のバカを雇ってくださってありがとうございます」
不破少年が応接室から去ろうとすると、王智文が声を張り上げた。
「待ちやがれ。本当に自分勝手なバカ野郎だ。話はまだ終わっちゃいねえよ」
「まだ、なんかあるんだべが……」
不破少年が尋ね返した。
王智文は支配人と目で合図した。彼はソファのひじ掛けに両手を置き、「よっこらしょ」と重たそうな尻を上げて立つ。
「ちょっとついて来い」
王智文が応接室を出て手招きした。
不破少年は顔をしかめた。王智文が小馬鹿にしたように笑う。
「クビになったからには、もうおれの言うことなんざ聞く必要はねえってツラだな。そうはいかねえ。うちの従業員じゃなくなったとはいえ、お前が弟であることは変わりねえ」
「えっ」
不破少年は目を見開いた。
「おれを……弟と認めてくれるんですか?」
弟と認めてくれたのは、王大偉の妾腹である近藤だけだった。むしろ彼と長兄の王英輝は頑なに認めようとせず、不破少年をタカリ屋と呼び、暴力まで振るってきたものだ。
王智文は問いに答えなかった。彼は四階の通路に出ると、エレベーターのボタンを押した。