昭和六十二年
3
近藤がビールを注いでくれた。
「お前の判断は正しい。出入りするのは控えるべきだろう」
「ありがとうございます」
不破は一礼してからグラスのビールを一気に飲み干した。ビールが喉を刺激しながら胃へ滑り落ちていく。
用地買収のシノギに進出してからは、一本数万円もする洋酒を口にする機会が増えた。だが、この兄と飲む酒以上にうまいものはない。
岡谷組若頭の近藤は、古希を過ぎた岡谷の名代となり、義理かけのために全国をあちこち忙しく飛び回っている。今日も青森にある天仁会系の組織の法要に出席し、飛行機で東京にトンボ帰りしたばかりだ。他組織が挨拶にやって来ることも頻繁にあり、さながら岡谷組の外務大臣と化している。
不破自身もシノギで多忙を極めていたため、この兄の百人町の家を訪れるのは久しぶりだった。次兄の王智文までが加わって酒席を囲んだ。
王智文が料理を口に放った。
「あれが“新人類”ってやつなのかねえ。おれも英輝と同じでピンと来ねえな。お堅い銀行も有名企業もヤクザとつるんで商売しているご時世じゃねえか。ブライトネスだって新宿の岡谷組がついてるんだと、さんざんアピールしながら成長してきたんだ」
王智文はブライトネス取締役であり、子会社の『大慶エンターテインメント』の社長だった。レジャー部門を統括する立場にある。
大金が動くパチンコホールといった遊技場を手がけているだけに、日常的にヤクザやゴト師といったアウトローを相手にしてきた。
パチンコホールを円滑に運営するには、その手のゴロツキを叩き出せるだけの度胸が求められる。因縁をつけられるのは日常茶飯事であり、岡谷組の名前を出して追い払っている。
王智文自身も高級ブランドのスーツに身を固めた長兄とは異なり、開襟シャツにゴールドのネックレスをつけ、指にはごつい金の指輪を嵌めていた。どこかの親分といった格好だ。
近藤がうなずいた。
「警察は及び腰ですからね」
「相変わらずの税金泥棒さ。民事不介入だと言って及び腰だ。てめえの店はてめえで守らなきゃならねえ。心賢が携わってる不動産なんざ何千億ものカネと極道が入り乱れる修羅の世界だろうよ。ご清潔にやっていけるほど甘くねえ」
「義理事で飛び交うカネも凄まじいですよ。もともと羽振りの良さを競い合う業界ですが、今日も現金で分厚くなった香典袋が積み上げられてました。あんな金額は昔ならありえなかった」
「社会がお前たちを必要としてる証だよ。岡谷組だって相当儲けてるらしいじゃないか」
近藤はグラスに目を落とした。憂鬱そうな眼差しだった。
「こんな時代は長く続くとは思えません。出る杭は必ず打たれる。我が世の春のように見えますが、世間様の目は年々厳しくなっていて、今じゃ全国で暴力団排除の機運が高まっている。このまま行けば、かつての頂上作戦以上の締めつけが待ってるのではと危惧しているんです。日陰者が明るいところに出過ぎちまった」
「そんなもんかねえ」
「銀行や企業もいずれ目を覚ますでしょう。ヤクザとつきあっていると知られりゃ、警察に睨まれて社会からも弾き出されるでしょうし」
不破は相槌を打った。
ヤクザが巨額のカネを手にする一方、世間からの風当たりが強まっているのは確かだ。表経済に堂々と進出しているのに加え、神戸を本拠地とする日本最大の暴力団である華岡組が三年前に激烈な内部抗争を起こした。
二年以上にわたって血で血を洗う戦いを繰り広げ、約三百六十件の抗争事件が発生。死者四十三名、負傷者八十二名、逮捕者は五百人以上にのぼった。史上最悪の暴力団抗争といわれ、マスコミは連日のように抗争を取り上げた。
拳銃はもちろんのこと、軍用ライフルや爆発物までが使用され、複数の一般市民や警察官が巻き添えを食っている。
昨年、華岡組と対立組織は関東ヤクザの仲介によって手打ちとなったが、一般社会に与えた影響は大きかった。
競馬や競輪といった公共施設への暴力団員の立ち入りが禁止され、無関係な露天商が抗争事件に巻き込まれたため、テキ屋が祭礼や催事に出店できなくなる事態まで起きている。
東海地方では、地元住民による華岡組系組事務所の撤去運動が巻き起こった。組員が運動のリーダー格の弁護士や住民を刺して重傷を負わせたため、運動の勢いはかえって増していった。現在では華岡組のテリトリーに限らず、暴力団追放運動が全国で展開されている。
警察組織も黙ってはいなかった。地元住民を焚きつけて暴力団追放運動をバックアップし、業界団体のトップたちを呼びだして暴力団とのつきあいを断つよう指導している。王心賢や近藤の見立ては的外れとは言いがたい。
現在の岡谷組のシノギもいわゆる民事介入暴力が大半を占める。地上げや金融、債権の取り立てや倒産整理などだ。それらの儲けは途方もなく大きく、歌舞伎町の用心棒だったころとは比較にならなかった。表社会から力を乞われれば断る理由はなく、またその味を覚えたからには昔のようには戻れない。
歩美がエプロンを外しながらキッチンから出てきた。ワインボトルを手にしていた。
「どうしたの。なんだかみんな暗い顔しちゃって。今夜は隆次君の仕事の成功を祝う会じゃなかった?」
不破は彼女に一礼した。
「楽しくいただいてます。姐さんの手料理が一番ですから」
「本当かなあ。最近は高級料理に舌鼓打ってばかりいて、私の貧乏くさい家庭料理なんて飽きられてるのかと思った」
歩美が悪戯っぽく笑った。
「まいったな」
「冗談よ。ありがとう」
歩美は小さく笑った。彼女は昔となにも変わっていない。
岡谷組若頭の姐ともなれば、家事などは家政婦や子分に任せ、クラブやブティック経営に乗り出すか、有力者の妻として贅沢な暮らしを送っていてもおかしくはない。
しかし、歩美は変わらぬ生活を望んだ。住処こそ豪奢になったものの、もっぱら簡素な化粧と服装を好んだ。今日もサマーニットに白いデニムといった動きやすさを重視したファッションだ。
昔と変わった点があるとすれば、身に着ける装飾品の種類が豊富になったことぐらいだ。宝石鑑賞を趣味としていたため、他組織や舎弟分からしょっちゅう宝飾品を贈られていた。
今日の歩美は虹色に輝くマベパールのペンダントをつけていた。彼女が不破の左目をマベパールのようだと評してくれたのを昨日のように思い出す。
歩美もダイニングテーブルの席に着いた。彼女からワインオープナーを手渡される。
「私も一杯やろうかな。隆次君、開けてくれる?」
「お安い御用です」
不破は歩美からワインボトルを受け取った。
ワインオープナーのスクリューをコルクに突き刺した。コルクはひどく乾燥していて手強かったが、不破が力をこめると音を立てて引き抜かれた。
近藤が横の妻を呆れたように見やった。
「そんなこと若い者にさせりゃいいものを。飛ぶ鳥を落とす新宿の独眼竜にやらせるかね」
不破は近藤に両手を向けた。
「いいんですよ。独眼竜だなんて言われて、最近は尻がムズムズしてるんです。こうしてこき使われると、ダンペイだのタモリだのと呼ばれた駆け出しのころに戻れたような気がします。気軽にここへ寄れたあのころみたいに」
「今だって寄ったらいいじゃない。ここは我が家みたいなもんでしょう?」
歩美はさも当然のように言った。近藤もうなずいた。
「そのとおりだ。昔はうちでどんぶり飯三杯は食っていったじゃないか。遠慮してるのか?」
「そうじゃありませんが、兄貴が義理事でしょっちゅう留守にしてるのに、勝手に上がりこむわけにはいかんでしょう」
不破は苦笑しながら手料理を口に運んだ。
歩美が好んで作る料理のひとつだ。ほうれん草と人参のゴマ和えで、缶詰のツナも入っている。味つけはめんつゆと砂糖で簡単なものだったが、白米との相性が抜群で、昔はこれをおかずにメシをたらふく掻きこんだものだった。不破は店屋物ばかり食べて育ったが、歩美の料理で初めて野菜のうまさを知った。
「それを遠慮っていうのよ。水臭いんだから」
歩美が不満そうにワインをあおった。王智文が片頬を歪めて小指を立てる。
「隆次はこう見えてモテるからな。我が家に寄りつかなくなるのは自然の道理ってもんだぜ。なにせこの野郎はうちの大事なアイドルをかっさらって行ったほどだ」
「人聞きの悪い。居場所なくして故郷に帰ろうとしていたのを引き留めただけですよ」
不破は口をへの字に曲げた。
アイドルとは『新宿ブライトボウル』で働いていた篠原麻里だ。不破が少年時代に働いていたボウリング場の先輩社員だった。
麻里本人のたゆまぬ努力と、一九七〇年代前半の熱狂的なボウリングブームの波に乗り、新宿ブライトボウル所属のプロボウラーとして活躍した。
当時はテレビ各局がこぞってボウリング番組を放送していたため、女子プロ三羽烏の背中を追う若手として人気を誇り、麻里はテレビや雑誌からひっぱりだこの毎日を送った。しかし、ブームがやがて落ち着いてくると、番組も次々に打ち切りとなり、麻里の露出自体も減っていった。
ボウリング人気が落ちてからも、彼女は地道に一般人へのレッスンや店舗業務をしながら大会に出場していたが、慢性的な腱鞘炎を患って思うような結果も出せなくなった。彼女は三十歳になったのを機に退職し、郷里の長野に戻って見合いでもしようかと考えていた。
不破はそれを翻意させ、麻里を新宿に留まらせた。彼女に出資して歌舞伎町に店を持たせたのだ。彼女が並々ならぬ努力家で、プロボウラーとして結果が残せなくなっても、懇切丁寧なレッスンのおかげで根強いファンがいるのを知っていた。おかげで彼女が経営する高級クラブは、開店してから六年経った現在も賑わいを見せている。
プロボウラーとして落ち目になっていったころ、彼女の愚痴や相談につきあううちに、男女の仲となって交際していた時期もあった。しかし、それは長くは続かなかった。
歩美が身を乗り出して訊いてきた。
「麻里ちゃんと籍は入れないの?」
「よしてください。あいつの両親は教員ですよ。父親のほうは校長まで務めた地元の名士です。大事な娘が夜の歌舞伎町で働いているってだけで激怒してるのに」
「そうなの。それじゃ難しいか」
今度は近藤がからかってきた。
「入籍なんかしたくねえだけだろう。新宿じゃすっかりいい顔になったんだ。女なんかよりどりみどりだ」
「兄貴までなにを言い出すんですか」
不破は顔が火照るのを感じた。