10
不破の目に飛び込んできたのは、自室とは異なる天井だった。
ひどい虚脱感に襲われて、頭もまともに働いてくれない。口のなかが粘つくうえに喉もカラカラだ。
顔をしかめた。太腿に熱い痛みが走る。それをきっかけに記憶が一気に蘇ってくる。
『あさひ荘』を襲撃して新井にケジメをつけさせた。疫病神である石国豪を討ち損じた。新井の情婦に果物ナイフで刺され、出血のせいで意識を失ったのだ。
もう血の臭いはしない。代わりにきつい薬液の臭いがした。着ているのは血に濡れた作業服ではない。着物型の患者衣だった。簡素なベッドに寝かされ、ようやく自分が病院に連れてこられたのだとわかった。
あの世には逝けなかったらしい。右腕が鈍く痛んだ。肘の内側に点滴の針が刺さっている。
不破がいるのは大部屋のようだった。カーテンで隣とは仕切られてはいるものの、患者の咳きこむ音やラジオから流れる歌で騒々しい。曲は山口百恵の『絶体絶命』だった。はっきりカタをつけてよと凄むように歌っている。
ここは王大偉が過ごすような有名病院ではない。新宿区内にある小病院で、事実上の経営者は暴力団関係者だ。
この小病院はかつてこそまっとうな医者が経営していたものの、長いこと資金難にあえいで、義光一家系の企業舎弟に乗っ取られたのだ。
揉め事で傷ついた暴力団員が運ばれるヤクザ病院であり、きつめのヤキを入れられた者や拳銃で撃たれた者など、警察に嗅ぎつけられては困るケガ人を受け入れる医療施設だ。世間では優れた外科医のいる病院として評価を得ているが、患者に対して不必要な検査などをこっそり行って不正に儲ける悪徳病院でもあった。
義光一家は天仁会の中核組織であり、首都圏全体を縄張りに置くヤクザ組織だった。東京進出を狙う錦城連合や関西系暴力団から縄張りを守るため、博徒とテキ屋の垣根を超えて結成された連合体だ。
同一家の現総長と岡谷は古くからのつきあいがあり、岡谷組の組員も普段からこの病院には世話になっていた。不破も小指を詰めた組員の付き添いなどでここを何度か訪れていた。
なにかといわくつきではあったが、普通の病院と変わらなかった。ベッドは王大偉が使っていたものとは比較にならないほど簡素ではあるものの、シーツや布団は清潔であり、大部屋自体も掃除が行き届いていた。空調もしっかり効いていてちょうどいい室温だ。
「隆次君」
不破のベッドに男女ふたりが近づいてきた。女性のほうと目が合った。歩美だった。
歩美は不破へと駆け寄ると、不破の右手を取った。彼女は不破の右肩に顔を押しつけた。その行動に戸惑いを覚えながら、彼女の髪から漂うシャンプーの香りを嗅ぎ、この世に留まったことを実感した。彼女のぬくもりが右肩を通じて伝わってくる。
男のほうは近藤だった。英国製のスーツを隙なく着こなしている。彼も不破の傍で顔を伏せたまま身体を震わせていた。いつもはクールに徹しているが、今の彼は妻と同じく目を潤ませていた。不破はこの兄夫婦に愛されているのだと改めて思う。
「兄貴、姐さん……」
不破は小さく呟いた。
命拾いしたとわかったばかりだというのに、自分の口臭が気になって仕方がなかった。歯を磨きたかった。
歩美は不破の右肩にしばらく顔を押しつけたまま動かなかった。彼女が洟を啜った。泣いているとわかって、不破の胸の鼓動が速まった。右肩が彼女の涙で濡れる。
「バカ。心配かけて」
「すみません」
「もう少しで死ぬところだったんだから」
歩美は顔を上げた。赤く濡れた目をしたまま、ハンカチで不破の右肩を拭った。
歩美の泣き顔を直視できなかった。本気で心配してくれていたことがわかると同時に嬉しかったが、申し訳なく思うあまり消えてしまいたくなる。
――殺せ……おれを殺せ。
あの場で石国豪に訴えながらも、彼女のことがずっと頭にあった。
近藤たちはずっと病院に詰めていたという。ふたりは大部屋を行き交う看護婦に不破が目覚めたことを知らせると、不破に吸い飲みでゆっくりと水を飲ませてくれた。カルキ臭くてぬるい水道水だったが、身体の隅々まで水分が行き渡るのを感じた。これほどうまい水は初めてだった。
近藤によれば、不破は危険な状態にあったらしい。彼が車でこの病院まで担ぎ込んで緊急手術を行わせた。手術を終えてから数時間経っても目を覚まさないため、出血性ショックで脳への障害が引き起こされた可能性もあると、医師も危惧していたという。
不破の大腿動脈は刃物によって切断され、体温と血圧が著しく低下していたため、止血の手術をしながら大量の輸血と輸液が行われた。
「私、電話してくる。みんな隆次君のことを心配してたから」
歩美が席を外した。
不破の意識が戻ったのを確かめると、彼女は気を利かせて大部屋から去っていった。
「姐さんにはどこまで?」
不破は近藤に尋ねた。彼は首を横に振った。周囲に注意を払いながら小声で告げた。
「歌舞伎町でバカなチンピラに刺された……とだけ伝えた。嘘だと見抜いてるだろうがな。石国豪がただの客人じゃないのも知ってる」
「すみません。ヘタ打っちまって」
不破は目を伏せた。兄の顔を直視できなかった。彼は不破の左手を軽く握った。
「バカを言うんじゃねえ。お前はよくやってくれた。ああいう現場じゃ思いがけないことが起きる。石国豪も珍しく褒めていた。さすがおれの弟だけあって度胸があると」
「そうですか……」
不破はそう答えるのがやっとだった。
石国豪は宣言どおり近藤に嘘をついたようだった。自分を殺そうとした不破の命を奪わず、近藤や岡谷組に恩を売る道を選んだのだ。
不破は奥歯を噛み締めた。石国豪の存在を放ってはおけなかったのだ。この兄に災厄をもたらすに違いないと危機感を覚え、岡谷組や王一族の盾を気取って排除を試みた。しかし、組織や一族に守られていたのは不破のほうだったのだ。
せめて真実を口にしなければ。近藤や歩美に愛される資格はない。
不破は切り出そうとした。
「あの……」
「うん?」
不破の口は動いてくれなかった。この兄にとって災厄をもたらすのは不破自身だ。本当に一族や組織のためを思うのなら正直に告白しろ。己自身を叱咤するものの言葉が出ない。
近藤が不安そうに眉をひそめた。
「どうした。傷が痛むのか?」
「いや、なんでもありません」
不破は打ち明けられなかった。
近藤に見捨てられたくはなかった。彼に信頼される右腕でありたかった。優れた血を引く一族の一員のままでありたかった。彼らのためなら命をいつでも捨てられる。その覚悟を常に抱きながら生きてきたのだ。
だからこそ、今回の仕事も喜んで引き受けては、一族や組織のために身体を張り、人の命をも容赦なく奪い取った。石国豪を狙ったのも兄を思っての決断だった。みっともなく失敗した今、その結果を告げるのは死よりもつらい。
近藤は安心させるように不破の左手を軽く叩いた。
「なんの心配もいらない。あの宿にはもう誰ひとりいなければ、指紋ひとつ残っちゃいない。南場が指揮を執って全員を運び出した。ひとりだけ生き残った女が証言していた。お前に脅されはしたが、危害は加えられなかったと。ああいう修羅場でこそ真価が問われる。新井の情婦の件は仕方がなかった」
近藤は不破が病院にいる間に起きたことを話してくれた。
不破の負傷という不測の事態を除けば、襲撃は計画どおりに進んだ。南場と岡谷組の組員が、死体となった新井と舎弟たちを運び出し、多摩の山中まで運んで埋めた。そのなかには不破を刺した情婦も含まれていた。
『あさひ荘』では夜を徹した掃除も行われた。新井たちがいた二階の部屋や、チンピラが血を撒き散らした共同便所はとくに念入りに掃除がなされた。
翌朝になってから岡谷は、鞭馬会の首領である村上建策と電話会談を行い、新井一派が謎の失踪を遂げたことを報告した。村上に新井の破門状を出すよう要請し、その代わり杉若徳太郎や王英輝には今回の揉め事を水に流すよう説き伏せると約束した。
村上はその条件を呑んで、新井の破門状を作成しているという。警察組織に顔が利く杉若や華僑社会に強い影響力を持つ王一族を敵に回すのなら、しくじった冷や飯食いの子分を切るほうが得策と踏んだのだ。
『あさひ荘』の二階の部屋の押し入れには、美人局のさいに撮影された王英輝と杉若善一のヌード写真やポスター、フィルムも発見された。それらは岡谷組によって回収されて即座に処分された。王英輝や杉若の悩みの種をすみやかに排除したのだ。
不破はおそるおそる訊いた。
「あの男は……石国豪はどうしてますか?」
「もう台湾に帰ったぞ。今頃は飛行機のなかだ」
「本当ですか」
不破は思わず声の調子を上げた。近藤の顔がほころんだ。
「あいつもプロだよ。仕事を終えればすぐにずらかる。粗野で乱暴な男だが、あのとおり一流の腕を持ってる。あれから羽田に向かうまで、ひたすら菓子を食べて女を抱きまくってたらしい。礼のひとつでも言いたかったか?」
「もちろんです。命の恩人ですから」
不破は感情を押し殺して答えた。
煮えたぎるような怒りが湧きながらも、安堵とともに全身の力が抜けていくのを感じた。あの男への殺意は消えてはいない。未だに危険視していた。
しかし、今の不破ではとても太刀打ちできそうにない。銃の撃ち合いでも素手喧嘩でも勝てる気がしなかった。他の組員と徒党を組んで襲っても、みっともなく返り討ちに遭いそうだった。
つまり完全に恐怖していた。あいつの薄笑いを思い出すたびに息苦しさを覚える。こんなことは生まれて初めてだ。田舎で大勢の悪ガキに片目を潰されても、新宿で新井のようなヤクザが現れても怯まずに立ち向かった。自尊心がいつも恐怖心を上回ったからだ。自分はストリッパーのガキではなく、帝王の血を引く貴種なのだと。そんな自分が負けるはずはない。だからこそ、それにふさわしい実力を身に着けようと努力を怠らなかった。
石国豪は不破のプライドを粉々に打ち砕いていった。これまではどれほど相手に叩きのめされても、戦意を失うことなくすぐに報復を行った。勝てるかどうかは関係なく、一族の男として立ち向かってきた。だが、石国豪に挑む気力は湧いてこなかった。
あの男は日本から姿を消した。かつての自分であればしつこく執着し、あいつの縄張りである台湾に乗りこむ計画まで立てていただろう。今はただ帰国してくれたことにやすらぎさえ覚えてしまっていた。大量に血液を失って一時的に気力が弱まっただけだと思いたかった。
「そういえば、兄貴がおれを運んでくれたって。血を恵んでくれたのも兄貴なんですか?」
不破は話題を変えた。石国豪が国を去った事実がわかればそれで充分だった。
不破と近藤の血液型は同じO型だった。父親である王大偉もO型だ。もし父や兄になにかあったときは、いつでも血を提供するために病院へ駆けつけるつもりでいた。ところが血を失う羽目になったのは不破のほうだった。
近藤は目を伏せた。
「いや、おれは血を提供していない」
「そうですか……」
不破は表情には出さなかったが、少なからず落胆した。この兄の血が身体のなかに入ってくれれば、自分はさらに強くなれるだろうにと思う。