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4(承前)


「私にも見舞いたいだろう」
「え?」
 不破少年は思わず問い返した。意味がわからずに当惑し、瞬きを繰り返す。
 王大偉の瞳に悲しみの色が見えた。
「さぞや恨んでいることだろう。お前たち親子にはひどい仕打ちをした。お前たちの面倒を見るどころか、この街から追い出すような真似をした。はるばるこの街にやって来たお前に手を差し伸べるどころか、息子の名を騙る偽者として取り合おうとしなかった」
 王大偉は己の顔を指さした。
「殴りなさい。有紀子の分まで。お前になら殺されても文句はいえない。それだけのことをしたのだから。今日はこのために一族の者たちを呼んだ」
「ちょっと……待ってけろや」
 不破少年は身体をのけぞらせた。
 王大偉の身体からはきつい焼酎の香りがした。しかし、酔っているようには見えず、目つきは鋭いままだった。王大偉が円卓の男たちに命じた。
「誰も止めるな。止めた者は縁を切る」
「なんだよ、そりゃ……」
 不破少年は混乱した。気がつけば円卓のビール瓶を手に取っていた。ビール瓶の首を握りしめている。
 男たちがどよめいて、岡谷や近藤が腰を浮かせた。王大偉が彼らをきつく睨みつけて制する。その眼光は酔っ払いのものではなく、戯言を口にしているのではないとわかった。
「そりゃ恨んだべ……恨んじゃいけねえって言い聞かせても無理だず」
 不破少年はビール瓶を父に突きつけた。どうしてこんなことをしているのかと困惑しながらも、腹の底に溜まっていた憤怒がそうさせていた。
「こんだけ大きな王国を作ったんなら、おれたち親子を見つけ出すのは造作もながったはずだべ。なして探してけねがったのや。なして目ん玉潰される前に救い出してけねがったのや。なして母ちゃんをみすみす死なせたのや!」
 王大偉の顎にビール瓶を押しつけた。
 視界が涙で水浸しになって、彼の表情がわからなくなる。洟がつまって呼吸が息苦しくなる。
 もし王大偉に謁見できる日を迎えたら、恨みつらみなど一切口にせず会えた喜びだけを伝えるつもりだった。母がそれを強く望んでいたからだ。
 不破少年は右目を手の甲でぬぐった。王大偉は身じろぎひとつしていない。
 個室の扉が開いた。長兄の王英輝が部屋に入ろうとし、円卓での異常な事態に顔を凍てつかせていた。男性店員も氷柱のように立ち尽くしている。
「バカにすんでねえよ!」
 不破少年はビール瓶を床に放り捨てた。
「おれは王大偉の息子だず。あんたの血を引いてんだ。いくら恨んでだがらって父親を殴るほど卑しぐ育っちゃいねえ。おれを息子と呼んでくれりゃそれでいいです」
 王大偉がうなずいた。彼は椅子から立ち上がると、両腕を大きく広げた。
「すまなかった、隆次」
 不破少年も席を立った。王大偉にしがみつく。
「父さん」
 王大偉は痩せていた。しかし、身長は不破少年よりもはるかに高い。
 父の背中に腕を回すと、胸に顔をうずめて泣いた。刺繍入りの上等な唐服に涙や洟がついたが、父はそれを気にせずに不破少年をしっかりと抱きしめてくれた。父の力は思いのほか強く、折れた肋骨が痛んだが、それさえも嬉しく思えた。
 唐服はやはり絹織物でできており、しなやかで滑らかな肌触りだった。柑橘系の洒落た香水とお香が混じり合った匂いがした。胸板は若いころと違って薄くなり、唐服を通じてゴツゴツとした胸骨や肋骨の固い感触が顔に伝わる。
 円卓の男たちが拍手をした。視界が涙で歪んでまともには見えない。近藤や王智文といった兄たちが、この再会を祝福するかのように手を叩いているのがわかった。
 ――あなたも高貴な王子のひとりよ。
 母の言葉がふいに思い出された。
 円卓の男たちにも認められたかと思うと、涙があふれ続けて止まらなくなった。自分が認められているのを全身で感じながら、父の胸でしばらく泣き続けた。
 不破少年が泣き終えると酒宴が再開された。彼の席は父の右隣のままで、今日の宴の主役として扱われた。
 ビール瓶を突きつけるという愚行を働いたというのに、父や兄たちはそれを引きずることはなかった。わだかまりはこれで消えたとばかりに、男たちは話に花を咲かせて杯を重ねた。
 父は唐服を不破少年の涙と洟で汚しながら、それを一度も拭き取ろうともしなかった。王一族と岡谷組の領土を侵すならず者たちを撃退できたと祝い、悪名高い無頼漢の新井に立ち向かった不破少年を称えた。
 王智文と王英輝の兄たちも、初対面のさいに冷たく接したことを詫び、王一族にふさわしい勇敢さを持ち合わせていると認めてくれた。
 円卓には見知らぬ顔の男がふたりいた。彼らもやはり王一族のメンバーであり、王大偉の甥にあたる人物だった。それぞれ『ブライトネス』の系列会社の要職に就いていた。
 一族の人間たちはしょっちゅう家族ぐるみでパーティーを開いて絆を確かめ合うが、それとは別に男たちのみで定期的に集まり、情報交換をかねた親睦会を開いていた。その席には王大偉と義兄弟の仲にある岡谷も必ず招かれるのだという。
 その岡谷によれば、逮捕された新井は怒りが収まらぬまま四谷署に連行され、取調室でも机や椅子をひっくり返すなど大暴れしたため、屈強な刑事たちによって取調室内の壁が血で真っ赤に染まるほど袋叩きにされたという。あの暴れん坊にはさんざん煮え湯を呑まされてきただけあって、円卓の男たちはその逸話に大笑いした。
 宴が終わりに差しかかったときだった。王大偉が不破少年に訊いた。
「お前の身の振り方を考えねばな。これからどうする」
「おれですか」
 王大偉の頬はだいぶ赤くなっていた。
 彼は台湾産のコーリヤン酒という焼酎をずっと飲み続けていた。アルコール度数は五十パーセント以上もあって酔いが回ったせいか、目つきは柔らかなものへと変わっていた。
「私があれこれ指図できる立場ではない。好きな道を選ぶといい。経済的な支援は惜しまないつもりだ。ほとぼりが冷めるまでここを離れて、寮のある学校に進んで勉学に励むのもいいだろう。ボウリング場に未練があるようなら、府中市の二号店で働くことも可能だ。むろんアルバイトなどではなく、幹部候補の社員として迎えよう」
 王智文が口を挟んだ。
「プロレスの道に行くのはどうだ。大木金太郎ばりの頭突きの使い手になれよ」
「おれは……」
 不破少年は近藤を見やった。
 近藤は父と同じく顔を朱に染め、緩んだ笑みを浮かべていた。この兄とは数か月のつきあいになるが、これほど上機嫌な姿を見たことはなかった。
 今日にかぎっては高粱酒をショットグラスで何度となく空け、兄やいとこたちと酒杯を交わしていた。不破少年と父の再会を一番喜んでいるのはこの兄だろうと思う。
 近藤の視線は不破少年の左目に向いていた。歩美の予想どおりになっただろうと自慢げだ。
 歩美は不破少年の見えない左目を宝石のようだと評した。マベパールや月長石のようで、きっと富や幸運を引き寄せるだろうと。
 不破少年は親分の岡谷に最敬礼をする。
「おれを子分にしてけろっす。お願いします」
「なんだって?」
 岡谷が目を丸くした。
 彼もそれまで機嫌よさそうに笑っていたが、不破少年の頼みには虚を衝かれたようだった。ビールのグラスを握ったまま背をのけぞらせる。
「バカ野郎! なに言ってやがんだ」
 近藤が席を蹴って立ち上がった。
 顔から緩んだ笑みが消え、歯を剥いて怒気を露にしていた。鞭馬会の連中を相手にしたときでさえ、彼はこれほど感情をむき出しにはしなかった。兄の怒りに怯みそうになる。
 岡谷が渋い表情になってタバコに火をつけた。
「隆次君、我々の稼業は健サンのようなカッコいいもんじゃない。それは君もよく知っているだろう。とてもお天道様に顔向けできる生業じゃない」
 近藤が円卓を掌で叩いた。
「なんでだ。お前はもうひとりぼっちじゃねえ。前途洋々だぞ。なんにだってなれる。いいとこの学校に行って、アメリカにでも留学して、兄貴たちと同じくエリートの道を行けばいいじゃねえか。なんだって日陰の道を進もうとする」
「あんたに会っちまったがらだず」
 不破少年は腹に力をこめて言った。
「おれにだと……」
 近藤をますます怒らせると思っていたが、予想に反して彼は視線をさまよわせるだけだった。困惑しているように見える。
「おれの望みは叶いました。こうして父さんにも会えだし、もうなにも言うごどはねえ。おれは中学だって満足に出てねえし、机に向かって勉強すんのは大の苦手だ。英輝兄さんや智文兄さんのようにはとてもなれねえ」
 王大偉が高粱酒を飲みながら訊いた。近藤とは正反対に冷静な態度だ。
「なぜヤクザになりたがる。我が社には中卒の幹部社員だっていくらでもいる。地方からでてきた金の卵の社員たちだ。勉強が苦手でもこれまでどおりに誠実に働いてくれればいい」
「おれが会社に入ったら一族のためにはならねえべ。不破有紀子の倅がいよいよ正社員として雇われだとなれば、ややこしいごどになりかねねえべ。父さんに無理させたぐねえ」
 円卓の男たちが再びざわめいた。王大偉がじっと不破少年を見つめる。
 王大偉の王国は一枚岩ではない。たった数ヶ月働いただけのアルバイト従業員といえど、それなりに会社の事情は耳に入ってくる。

 

(つづく)