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昭和五十三年秋




 西新宿七丁目の路地は暗く静かだった。
 国鉄総武線や中央線の電車の走行音が耳に入るくらいで、昼間だというのに人の姿はほとんどない。
 あんぱんで有名な会社のパン工場が傍にあり、パンの焼けるいい香りが漂っている。毎日がお祭りのように騒がしい新宿の東側と違って、このあたりは昔ながらの工場や事務所が建ち並んでいる。
 不破は腕時計に目をやった。針は午前十一時を指している。
 歩きながら革ジャンのファスナーを閉めようとした。秋晴れで青空が広がっているものの、彼のいる路地はオフィスビルに囲まれており、一日中陽光がまともに入らない。どのビルの壁も黒カビが生えており、地面はジメジメと湿っていた。
 革ジャンのファスナーがうまく閉まらない。十八のときに近藤からもらったもので、大事に手入れをしながら着続けていた。だが、胸や肩に筋肉がついてきつくなっていた。
 路地を北に進むと砂利で舗装された駐車場があった。会社名が記された商用車のなかに交じって白のカローラバンが停まっている。運転席には作業服にサングラス姿の兄貴分の南場宏がおり、不破の姿を見つけると手招きをした。
 不破は早足になってバンの助手席に乗りこんだ。頭をうっかりぶつけそうになる。身長も近藤と同じくらい伸びた。
「ご苦労さまです」
 南場に小声で一礼した。
 車内はきつい汗とタバコが混じり合った臭いがした。この車にも陽光は差さず、車内はけっこう冷えるというのに、南場の顔は汗をにじませている。
「徳山はどうしたよ」
 南場が苛立たし気に貧乏ゆすりをした。
ろうにいは……」
「なんだ」
「淋しい病にかかったらしくて。相当痛むらしいです。先っぽから膿も出たんで病院に」
 不破は股間を指した。南場は露骨に顔をしかめた。
「あいつ、前にも病気もらってただろう」
「次郎兄はすっかりジゴロですから。昨夜もトラボルタみたいなスーツ着てディスコ行ってました」
 南場はやるせないといった様子で首を振った。
「ちょっと前まで坊主頭の田舎者だったってのによ。あんな軟派野郎だとは思わなかったぜ」
「そんなわけで、今日は動けないみたいです」
「しょうがねえ。おれたちは硬派に行くぜ」
拳銃どうぐ、持ってきました」
 不破は背中に手を回して小型リボルバーを抜いた。
 銃身が2インチしかないコルト・コブラだ。拳銃本体の重量はたった四百五十グラムで、警察官が所持するニューナンブよりも軽い。しかし、きちんと殺傷力を持ち合わせており、三十八口径の弾丸を六発発射できる。ケネディ大統領を暗殺したリー・ハーヴェイ・オズワルドを撃ち殺したのもこの拳銃だ。隠し持って歩くのにも便利だったが、唯一の欠点は見た目に迫力がないぐらいだ。
 不破は南場に拳銃を渡しながら訊いた。路地を挟んで斜め向かいにあるアパートを指さす。
「あそこですか」
 アパートはさほど古くはなかったが、ブロック塀は苔で覆われていた。他のオフィスビルと同じく、アパートの外壁はカビで黒ずんでいる。
 南場が作業ズボンに拳銃を差した。
レコがタバコ屋で『ホープ』を大量に買っていた。野郎が好んだ銘柄だ」
「じゃあ行きましょう」
 不破がドアを開けようとすると、南場に慌てて止められた。
「お前が向かうところ敵なしといってもよ。相手はそこらへんの食い詰めもんじゃねえんだぞ。舎弟どもをもっと集めてこい」
 南場の言い分はもっともではあった。
 最近はサラ金ブームとあって、岡谷組にはキリトリの依頼が続々と持ちこまれる。キリトリとは債権回収の意味だ。
 今回の不破たちの標的はただの多重債務者ではない。新宿で二十年以上もポン引きや手配師をやっていた名うてのヤクザ者だ。がししよういちといい、盃こそもらってはいないが、新宿中の組織とつながりを持ち土地勘もあった。サラ金業者の取り立てはもちろん、ヤクザの追跡もかわし続けている。
 富樫はとうに新宿を離れた。そんな噂も流れてはいたが、岡谷組の情報網からは逃れられない。昔なじみの情婦のもとに転がりこんでいるとの情報が寄せられたのだ。
「事務所に電話かけてきます」
 不破は兄貴分の指示に従って車を降りようとした。
 午後に重要な用事があるため、早めにケリをつけたかったのだが、追い詰められた債務者は確かに油断できない。わざわざヤクザにキリトリを依頼するのだ。相手は煮ても焼いても食えないような債務者ぞろいだった。
 借金を踏み倒すためなら家族や親友まで欺き、詐欺師にも負けないホラ話をでっちあげては煙に巻こうとし、ついには自殺や一家心中などという乱暴な道を選ぶか、窮鼠と化して暴力で立ち向かってくる者も少なからずいた。
 カタギでもカネが絡めば修羅と化すのだ。ヤクザ者となれば往生際の悪さは相当なもので、富樫は取り立てにやって来たサラ金業者の社員たちに向かって登山ナイフを振り回し、住処から強行突破を敢行している。
 そのサラ金業者によれば、富樫は目を血走らせながら絶叫し、まるで狂犬のようだったという。南場が冷暗所のような車内で汗をかき、舎弟を集めるように指示を出すなど、慎重論を唱えるのも相手が手強い危険人物だからだった。
「ちょ、ちょっと待て」
 南場がサングラスを外し、双眼鏡でアパートを凝視した。
「あっ」
 不破もアパートを見て声をあげた。
 一階のほうで動きがあった。部屋の玄関ドアが開いて、男女が出てくるのが見えた。先に出て来たのは中年の太った女で、肩を縮めながら路地に出てくる。女は新宿三丁目で小料理屋を営んでいるが、昨夜から店舗の入口に臨時休業の貼り紙をして休んでいた。
 秋物のロングコートを着て頭をスカーフで包んでおり、大きなサングラスをつけていた。手にはパンパンに膨らんだボストンバッグがある。人目を忍ぶ逃避行に打って出るといった姿だ。
 男のほうはコール天のジャケットに鳥打ち帽をかぶっていた。格好は新宿東口広場で家出少女などを抜け目なく狙っていたころと同じだった。男の手にも旅行用のアタッシェケースがある。
 不破は右目で凝視した。富樫は服装こそふだんと変わってないものの、顔立ちや体型は大きく変化していた。
 かつての富樫は分厚い胸板の持ち主で、田舎から出て来たばかりの少年少女を圧倒させるだけの迫力があった。かつてこの街に降り立ったばかりの不破も、あの男の太く濁った声で呼び止められたものだ。
 だが、今はすっかり違う。不破が大きくなったせいもあるが、目の前の男は貧相でちっぽけに見えた。空気の抜けた風船みたいに身体が萎んでいる。衣服のサイズがまるで合っておらず、ジャケットもズボンもダブダブだった。顔は別人のように痩せ、頬骨が浮き出ていた。
「やばいな。やっこさん、どう見ても打ち立てだぞ」
 南場が双眼鏡から目を離した。覚せい剤を注射したばかりという意味だ。
 相手が見るからに弱まったといっても、覚せい剤に手を出した人間は別だ。より元気に満ちあふれ、平常の何倍も凶暴にさせてしまう。
 富樫たちは北の大久保駅方面に向かって歩み出した。彼は情婦と腕を絡めながら神経質そうにあたりを見回した。そのせわしない動作と異様な目つきで、シャブに手を出しているとわかった。不破たちは身を縮めて頭を隠す。
 南場の喉仏がごくりと動いた。
「どうする。やつらトンズラする気だ」
「情婦は富樫から逃げたがってます。いつものやり方でいいんじゃないですか?」
「あっさり言うじゃねえか」
 南場の焦りは隠せないようだったが、不破にとっては好都合だった。
 舎弟を呼んで大勢で囲んだほうが危険性は減る。しかし、アパートに籠城されたままではラチが明かず、あたりの住民に通報されるかもしれない。
 おまけにアパートのなかは窓ガラスや電気コード、台所用品など武器になりそうな危険物が山ほどある。のこのこと外に出てきてくれたほうが早くカタがつく。
「ああ、ちくしょう」
 南場は運転席のドアを開けた。彼は車を降りながら不破に告げた。
「刺されんなよ。あの力道山だって刃物には勝てなかったんだからよ」
 不破はうなずいてみせた。いささか頼りなくはあるが、この兄貴分が好きだった。
 不破もあとに続いて車を降りた。革ジャンのポケットから靴下を取り出し、砂利を手ですくって靴下に詰めこんだ。
「富樫!」
 南場が拳銃を手にしながら全力疾走で富樫たちを追いかける。駐車場を走り抜けて路地に出ると、富樫たちの行く手を阻むように大股になって立ちはだかる。
「手間かけさせやがって。てめえなんざ撃ち殺してやる!」
 南場がコルト・コブラを両手で握った。
 彼は富樫に銃口を向けながら撃鉄を起こした。ガチリと音を立ててシリンダーが回る。情婦が悲鳴をあげる。
「チンピラが!」
 富樫がアタッシェケースを南場に投げつけた。
 頑丈で重そうなケースが南場に勢いよくぶつかる。富樫は明らかにクスリの力を借りている。南場は両腕で防いだものの、激しい衝突音がして身体をよろめかせた。
 富樫がその隙に踵を返した。南場に背中を向けると、情婦の腕を握って反対方向へと逃げる。
 不破が回りこんで富樫の行く手を阻んだ。南場と挟み撃ちにする。
 富樫は目を真っ赤に充血させていた。瞳孔は開きっぱなしで顔は汗でずぶ濡れだ。
 不破は富樫に笑いかけた。右手に靴下をぶら下げながら見下ろす。
「富樫さん、会いたかったよ」
「そこをどけ。クソガキ」
 富樫は腰を落としてジャケットのボタンを外した。革製のホルスターが目に入る。
 ヤニで汚れた歯を剥きながら、ホルスターから登山ナイフを抜き出した。情婦が隙を見て逃げ出すが、富樫は彼女を追わずに不破を睨みつける。
 富樫は登山ナイフを両手で握りしめると腰を落とした。登山ナイフは柄まで含めると二十五センチはありそうだ。肉厚な刃はところどころが赤黒く汚れている。
「野郎、突っ込んでくるぞ!」
 南場が声を張り上げながら、情婦を逃がすまいと捕まえる。
 兄貴分から注意を呼びかけられながらも、不破は軽い調子で富樫に語りかけた。
「あんた覚えてるか? 右も左もわからねえおれに、あんたはここの流儀ってもんを最初に教えてくれた。田舎っぺのクソガキも少しは成長したのさ。ようやくあのときの礼ができるってわけだ」
 富樫は黙したままじりじりとにじり寄ってきた。南場が警告してくる。
「ペラペラ喋ってる場合か。ぶっ刺されるぞ!」
 不破は間を置かずに話し続けて攻撃を誘った。この男に伝えたいこともあった。
「あんた、かつては『ブライトネス』で働いてたんだってな。社名が『大慶商事』のころか。料理店で板前修業してたらしいじゃないか。サラ金からつまんでただけじゃなく、昔の職場の仲間からもカネ借りてたなんて、顔の広さに驚かされたよ。さすが何十年と新宿ジユクに根を張っていただけはある。なにが言いてえかっていうと――」
 富樫が地を蹴った。その速度は速いうえに迷いがない。
 不破はそれに合わせて靴下を振った。砂利で重くなった靴下は遠心力も加わって立派な鈍器と化した。突っ込んでくる富樫の左頬にカウンターとなって靴下が衝突する。
 富樫が吹き飛んだ。彼は身体を回転させながら地面に倒れ伏した。黄色い歯が吹き飛んで塀に当たる。覚せい剤がいかに精神を高揚させるといっても、強烈な一撃をもらえば身体は言うことを聞いてくれなくなる。ギラギラさせていた目も一転して虚ろになった。
 富樫は口から血をたらしながら立ち上がろうとするも、両脚がガクガクと痙攣していて完全に脳しんとうを起こしている。だが、右手の登山ナイフは握ったままだ。
 不破は富樫の右手を足で踏みつけた。加減は加えていた。全力で痛めつけてしまえば売り物にならなくなる。右手の甲を踵でグリグリと踏みしめると、富樫はうめき声を発しながら登山ナイフから手を放した。
 登山ナイフをすかさず蹴飛ばした。富樫の手の届かない距離まで飛んでいく。不破は富樫の後ろに回って組みついた。
 富樫の左腋の下から左手を差し入れてジャケットの右襟を掴んだ。同時に右腕を首に回して左襟を取る。コール天のジャケットは柔道着のように丈夫で破ける心配はなさそうだった。柔道のおくりえりじめで締め上げる。
「おれは王大偉の息子だ。うちの会社のもんまで泣かせやがって。報いを受けろ」
 富樫は口から泡を吹いてすぐに動かなくなった。
 不破の言葉がきちんと耳に届いていたかどうかはわからない。無事に生け捕りにできただけでも上出来だと納得させた。

 

(つづく)