昭和六十二年
3(承前)
兄たちからからかわれるのは嫌いではなかった。からかいにも愛情が感じられ、家族としてのぬくもりも感じられる。ただし、歩美の前で女性関係を話題に出されるのはつらかった。
――ヤクザの情婦になる覚悟はできてるよ。隆次さんが懲役に出てる間も辛抱強く待ってられる。刺青だって入れられる。だけど、他の人に惚れてる男とは一緒になれない。私にもプライドがあるから。
麻里からそう告げられて別れを切り出された。もう四年も前のことだ。不破の本心を見破ったのは、あのイカれた殺し屋と麻里だけだった。
彼女と別れてけっこうな月日が経つものの、周りは未だに麻里と男女関係にあると信じている。歩美への思慕の念など誰にも悟られるわけにはいかなかった。麻里のほうも不破隆次の情婦だと匂わせておけば、誰からもちょっかいを受けずにクラブを切り盛りできるとあって、不破もちょくちょくクラブに顔を出し、ともに交際しているかのようにふるまい続けていた。
この兄の住処は我が家だった。それでも足が遠のいていったのは、歩美を見るたびに胸を絞めつけられるような思いに駆られたからだ。
兄や歩美と会話を楽しんでいると、心のなかで不破自身の声がした。ただの淫売の倅のくせに王一族に拾われ、今ではいっぱしの顔役などと見なされている。気持ちよく迎えてくれる家族までいるというのに、お前はそれでもまだ満たされないというのか。
酒杯を酌み交わしながら雑念を振り払っていると、ダイニングのドアが開かれた。制服を着た雄也が姿を現した。
「オジさん、こんばんは。お久しぶりです」
雄也が不破たちに挨拶をした。王智文が感嘆の声を漏らす。
「また随分とでかくなったなあ」
子供の成長は早い。雄也はまだ高校生だというのに、父親並みに背丈が伸びていた。黒縁の大きな眼鏡をかけ、前髪を目にかかりそうなくらいに伸ばしており、知的な文学青年の雰囲気を漂わせていた。
じっさい、雄也は読書や映画を好んだ。肉体派の父親や不破と違って、ケンカひとつしない優しい男の子だった。勉強がかなりできるようで、今は渋谷区内の私立の進学校に通っていた。
不破は足元に置いていたショッピングバッグを掴んだ。雄也を手招きしてそれを渡す。
「プレゼントだ。最近発売されたファミコンソフトが五、六本入ってる」
「こんなに? いいんですか?」
「若いやつに選ばせたんで面白いかどうかはわからんが」
雄也がショッピングバッグを開けて目を丸くした。だが、申し訳なさそうに顔をうつむかせる。近藤と歩美も酒杯を手にしたまま困ったような表情を見せる。
不破は狼狽した。
「あの……なにかまずかったですか」
近藤たちにおそるおそる訊くと、雄也が慌てたように答えた。
「まずいことなんてなにも。受験が終わったら目一杯遊ばせてもらいます」
「受験って、お前まだ二年生じゃないか」
雄也は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「それが……僕、あんまり頭よくないから。人一倍頑張らないと」
不破は王智文に尋ねた。
「大学受験ってのはそんなに厳しい世界なんですか?」
「おれや英輝はエスカレーター式だったからな。苦労した覚えはねえよ」
雄也がショッピングバッグのなかからソフトを取り出した。
「『ドラクエ2』もある。まだ持ってなかったんです。嬉しいな」
「勉学に打ちこむのはいいが、身体壊さないようにな」
「はい」
雄也は礼を述べてダイニングを離れた。不破は甥っ子の背中を見つめた。
雄也の変化は体形だけではないようだった。ついこの前まで『スター・ウォーズ』三部作を一緒になって興奮しながら見て、この家のリビングでファミコンのゲームを手に汗握りながらプレイしたものだ。
歩美が居住まいを正して不破に礼を言った。
「いつもありがとう」
「とんでもない。しかし、まだ高二だってのにずいぶん根をつめてますね」
近藤がビールをちびりと口にした。不破をからかっていたときのような陽気な雰囲気が消え、兄夫婦は憂いを帯びたような顔を見せた。
「本気で東大を目指してる。本人は謙遜してるが、合格もあながち夢じゃないらしい。担任教師がそう言っていた」
「そりゃ凄い。さすがは兄貴や姐さんの子だ。将来は学者にでもなって学問の道を究めるつもりでしょうか」
「周りを見返してやりたい。その一念でやってるだけさ。医者になって世間様の役に立ちたいとか、エリート官僚になって国を動かしたいとか、そういう大志があるわけじゃなさそうだ」
近藤は声をひそめて答えた。不破も声のトーンを落とす。
「……学校生活がうまく行ってないんですか?」
歩美がテーブルに頬杖をついた。
「我が子ながら立派なものよ。中学のころからずっと何年も皆勤賞だし、成績がクラスのトップになったこともある。ガラにもなくいい学校に通わせてるけど、周りが医者だの経営者だの、立派な家柄の子供が通ってるから少し浮いちゃうみたい」
「そういうことでしたか」
不破は納得したように相槌を打ってみせた。
さっきの雄也の様子が思い出される。控えめに謙遜する一方で、その強い眼差しには意志の強さが表れていた。
歩美ははっきりと言わないが、雄也が学校で屈辱的な思いをしたのだと察せられた。
子供をヤクザにしたがる親はいない。太い収入を得ている親分や幹部クラスともなれば、子供をまっとうなカタギにしたいと願い、ヤクザ社会から遠く離れた環境で育てようとするものだ。近藤夫妻も例外ではなかった。
しかし、どれだけ願ったとしても、子にはヤクザの呪縛がつきまとう。名の知れた極道の子となればなおさらだ。土地の顔役として敬意を払われていた時代は終わり、警察やメディアから社会にたかるダニと公然と叩かれる現在では、罪のない子供にもしばしば累が及ぶ。
岡谷組のなかにも、学校でヤクザの息子などと揶揄され、激しいイジメに遭って登校拒否に陥る子供がいた。あるいは恋人関係になったものの、父親が極道と知られて彼氏から別れを切り出されてしまった娘もいる。
嫌悪や侮蔑の目を向けてくるのは同級生だけでない。正義感に満ちあふれた教員までが一緒になってイジメに加わることさえある。針の筵のような毎日を送る羽目になり、両親の思いとは裏腹にグレてヤクザの道に走る子もいた。
学校というカタギの社会から排除される一方で、彫り物の入った親の背中や、忠犬のように働く部屋住みの若衆、豪華な貢物を持って訪れる子分や客人を山ほど目撃して育つのだ。ヤクザ社会に親近感を抱かせ、ここでしか生きられないと決意させてしまう。
近藤夫妻の思いも複雑なはずだ。息子が最高学府を目指して勉学に打ちこんでいるのだ。グレて不良になるよりもよほどマシで、人によっては好ましい道を選んだとはしゃぐかもしれない。だが、父親がヤクザの最高幹部であるがゆえに、息子の人生を大きく狂わせてしまったかと思うと、とても喜べる気にはならないのだろう。
王智文がグラスを掲げた。
「今夜は隆次を祝うんじゃなかったのか? うちの一族はどうも完璧主義者が多い。立派な決心じゃねえか。うちのバカ娘たちに雄也の爪の垢を煎じて飲ませてやりてえ。どれほど愛情を注いで衣食住を満たしてやったところで、子の人生なんてコントロールできるもんじゃねえよ」
「確かにね。ごめんなさい」
歩美は笑顔を作った。
「東大目指すなんて、あっぱれな話じゃねえか。人生はコントロールできねえかもしれねえが、入学できればあいつ自身の選択肢は大きく広がる。そりゃ検事や警察官僚にはなれねえかもしれねえが、医者にも弁護士にもなれる。うちの会社を選んでくれたら、心賢と同じく即幹部候補だ」
不破も兄夫婦を励ました。
「兄貴も姐さんも立派ですよ。世間の風当たりがこれだけ強まってるなかでも、雄也をここまですくすくと育ててきたんです。あいつは強い子だ。心配いりませんよ」
「そうね」
歩美が立ち上がってキッチンに向かった。冷蔵庫からビール瓶を両手いっぱいに抱えて戻ってくる。
「もっと飲みましょう。飲み足りないから話が湿っぽくなるのよ」
ダイニングにある電話が鳴った。
ビール瓶を持った歩美を制し、近藤が席から立って受話器を取った。
「近藤ですが――」
彼の顔色が変わった。
言葉を日本語から中国語へと変え、張り詰めた表情で受話器に話しかける。不破はビールを飲みながら兄にそれとなく注意を払った。
日本のヤクザは続々と台湾にも進出している。その目的は様々で日本料理店の経営や現地企業への投資といった合法的なものから、覚せい剤や銃火器の密輸入や人身売買、逃亡先の拠点確保などもある。
台湾は今年の夏に、戒厳令が三十八年ぶりに解かれた。民主化のムードが一気に進み、経済も好調で日本と同じく好景気に沸いているという。台湾とゆかりの深い近藤も年に数回足を延ばして、土地の有力者と会っている。
時計に目をやった。もう深夜の十一時を回っている。岡谷組若頭の立場ともなれば、電話は夜中でもひっきりなしにかかってくる。だが、こんな遅い時間に連絡を取ってくる台湾人といえばひとりしか思いつかない。
近藤が受話器を下ろした。通話時間自体は短かった。二分も経っていないだろう。彼が告げた。
「石国豪からだった。今、都内にいるらしい」
「やはり、そうですか」
不破は平静を装いながら答えた。
だが、グラスを握る手は震えていた。それに気づいてグラスをテーブルに静かに置いた。