昭和六十二年
1
不破はマンションの正面玄関を出た。
真夏の刺すような陽光が容赦なく照りつけてきた。通気性に優れたフレンチリネンの高級スーツを着ているとはいえ、アスファルトから立ちのぼる暑さには辟易させられる。
舎弟の土居がすかさずベンツW126から降りた。不破に向かって最敬礼をする。
「おはようございます!」
応援団顔負けの音量だった。道行く親子連れやサラリーマン風の男がうつむきながら早足で通り抜ける。
土居はきついパンチパーマをあて、イタリア製のシャツを着ていた。黒地に金色の派手な柄で、ヤクザの王道を行くようなファッションだ。
土居はかつて戸山のマンモス団地の仲間と暴走族“新宿弑逆”を結成。王英輝を美人局で嵌めようとし、近藤と不破にきつい制裁を受けた経緯があった。
新宿弑逆はあえなく解散に追い込まれたが、土居は近藤らの腕と器量に惚れこんで、きつい部屋住み修行を経て岡谷組の一員となった。
土居が後部座席のドアを開け、不破はベンツに乗りこんだ。土居に大久保の仕切場に向かうように命じる。
不破の住処は新宿六丁目にあった。徒歩圏内に歌舞伎町があるとはいえ、アジア最大の歓楽街とは対照的な静かな住宅街だ。テレビ局が運営している巨大ゴルフ練習場が近くにあり、ゴルフボールを次々に打つ音が耳に届く。
ベンツはゴルフ練習場の傍を通り過ぎて交差点を右折し、明治通りを北へと進んだ。カーラジオから中森明菜の翳りのある歌声が聴こえた。
不破は小さなアクビをした。昨夜は久々に空手道場に顔を出して身体を鍛え直した。
かつては毎日のように顔を出し、猛者たちの胸を借りて腕を磨いたが、三十を過ぎてからは翌日になっても疲れが抜けなくなった。シノギが忙しくなって思うように時間も取れない。
スーツのポケットに入れていたポケットベルが鳴った。新型のデジタル方式で画面に数字が表示される。数字は西新宿の『ブライトネス』本社の電話番号だった。
かつて『ブライトネス』の事務所は歌舞伎町のブライトネスビル内にあったが、三年前に系列会社を含めて開発の進む西新宿の超高層ビルに移転した。繁華街の中心地にあるブライトネスビルを有効活用するためであり、事務所があった同ビルの五階にはディスコとイタリアンレストランが入っており、多くの若者で連日賑わっている。
不破はセンターコンソールの自動車電話に手を伸ばした。ボタンを押して『ブライトネス』に電話をかける。受付嬢は不破の名前を耳にすると、すぐに王英輝へと繋いでくれた。
〈隆次か。四谷三丁目の件で話したいことがある〉
受話器を通じて王英輝の声がした。
「今日でカタをつけます。これでスムーズに話が進むでしょう」
〈どうする気だ〉
「兄さんは知らないほうが」
〈そうだったな。お前に任せておけば間違いないだろう〉
「ありがとうございます」
この長兄とのつきあいも二十年以上になる。彼の声が少しずつ低く濁っているように聞こえた。米国への留学経験のある気鋭の若手経営者と呼ばれた彼も今や五十二歳だ。かつては偉大な父親となにかと比較されて苦労を重ねたが、現在は新宿を代表する財界人となった。
〈シャンパンのひとつでも用意しておかなきゃならんな。まったく、あの土地には手こずらされる。正攻法ではどうにもならない〉
「夕方までには改めて報告します」
不破は受話器を置いた。
現在の『ブライトネス』の売上の多くを占めているのは不動産事業だ。王英輝の義父は財閥系不動産企業の重役だった。同企業が手がける首都圏の再開発事業に加わり、その土地の地主や借地人との交渉に励んでいた。昨今では地上げ屋などと呼ばれている。
都内の地価は右肩上がりで高騰し続けており、金融機関からの資金調達も驚くほど容易になった。今では億単位のカネが右から左へと簡単に動いている。
かつて王英輝は美人局の被害に遭い、一億円ものカネを要求された過去がある。当時は一億などという大金は払えないと大慌てしたものだが、現在であれば余裕で支払える金額になった。
不破自身の金銭感覚もこの数年で大きく変わった。王英輝の美人局の件で身体を張り、瀕死の重傷を負ったものの、岡谷組内での存在感は一気に増した。
当時のシノギといえばケチなキリトリぐらいだった。だが、その後は不破に店を守ってほしいと申し出る風俗店や飲食店が現れ、そのカネを元手に小口の金融業を始めた。王英輝の地上げ稼業を手伝うようになると、桁違いのカネが転がりこんできた。
「もうすぐです」
土居が告げた。
ベンツは大久保通りを走っており、新大久保駅付近にさしかかった。都内の光景が急激に変わっていくなかでも、このエリアは狭い小路が入り組んでいることもあって、昔ながらの商店街と安アパートが軒を連ねている。
近頃は歌舞伎町で働く外国人女性が増え、台湾クラブや韓国クラブが次々に出来ていた。新大久保は彼女たちのベッドタウンと化しており、商店街のなかには同胞向けと思しき食材店や食堂がちらほらとあった。線路沿いに北へ走ると、目的地である仕切場が見えてきた。
仕切場は三ヶ月前まで変わらずに運営されていた。粗末なバラック小屋とうずたかく積まれた粗大ゴミで、長いこと戦後闇市の空気を醸し出していたが、今はトラ柄の工事用フェンスで取り囲まれた更地となっている。
所有者の徳山春男が土地価格の高騰を機に『ブライトネス』に売却したためだ。やがてはマンションかオフィスビルが建設される予定だ。
更地と化した元仕切場には、営業車のカローラバンと大型ダンプカーが停まっていた。カローラバンから岡谷組の若い組員たちが降りて工事用フェンスをどかした。
ベンツが更地に入って大型ダンプカーの隣に停まった。
不破がベンツを降りると、組員たちが一斉に頭を下げて挨拶をした。
不破は若い組員に訊いた。
「やつは?」
「そこに」
カローラバンの後部座席に渡辺がいた。茶色に日焼けした鯉口シャツを着た中年男だ。
彼は一人親方のダンプ運転手としてバリバリ働き、肉体労働者らしくがっちりとした体型をしていた。だが、今は無精ひげを伸ばしたまま悄然とシートに腰を下ろしている。
不破は後部ドアを開けて渡辺の隣に座った。カローラバンはアイドリングしたままで、車内はエアコンがしっかり効いていた。しかし、渡辺の額にはびっしりと汗の粒が浮かんでおり、鯉口シャツも濡れている。
不破は渡辺の肩を叩いた。
「腹、くくりましたか」
「え、ええ……」
渡辺は目を合わさずに答えた。
無精ひげが伸びっぱなしで表情も暗い。言葉とは裏腹に未だ迷っている様子だ。
「渡辺さん、こっちを見ろよ」
渡辺がおそるおそる不破の顔に目をやった。
不破は左目を覆うアイパッチを外した。見えない左目で渡辺を凝視すると、彼は居心地悪そうに身体をのけぞらせ、視線をあちこちへとさまよわせた。
不破は不思議そうに首を傾げた。
「あんた、ギャンブルではずっと強気だったじゃないか。これから一発逆転の大博打をやれるってのに、どうしてそんなにびびってる」
「……建物には本当に人はいないんですよね」
「店は定休日だ。家族総出で銀座のデパートに繰り出してる。かりに死人なんか出したら厄介なことになる。この計画もすべて水の泡だ」
不破は露骨にため息をついた。後部ドアに手をかける。
「あんたじゃダメだな。行き腰がなさすぎる。こちらとしては代わりを探すしかない」
「待ってください。やります。やらせてください」
渡辺が不破の左腕にすがってきた。不破は左腕を振り払った。
「うるせえな。マグロ漁船に乗る準備でもして、地道に返済する方法を考えろ」
「どうかお願いします! やらせてください。私が間違っていました。聞けばそのラーメン屋、借地のボロ屋で大して流行ってもいなかったくせに、しつこく居座って二億のカネをねだってるそうじゃないですか。そんなの許しちゃおけねえ。おれが叩き壊してやります。やらせてください」
不破は渡辺の胸倉を掴んだ。再び白濁した左目を渡辺に近づける。
渡辺は小刻みに身体を震わせていた。だが、不破をまっすぐに見つめ返してくる。視線をそらそうとはしない。
「いいでしょう。そこまでわかっているのなら」
不破は渡辺の胸倉から手を放した。渡辺は決然とした表情でカローラバンを降りる。
渡辺は自分の大型ダンプカーに乗りこんだ。その顔は今日こそは勝ってやると、歌舞伎町のゲーム喫茶に乗りこんできたときと同じだ。そうして店側がいくらでも操作できるポーカー賭博のゲームにのめり込み、三百万円もの借金をこさえたのだが。
王英輝の土地買収が難航したとき、岡谷組がサポートに回ることになっている。四谷三丁目のラーメン屋兼住居もそのひとつだ。
その土地には地上十階建てオフィスビルが建設される予定で、建設予定地にあった三軒の店舗やアパートは買収済みだった。ブライトネスの社員が交渉にあたり、借地人や賃借人に大金を積んで立ち退いてもらったが、最後のラーメン屋だけが欲の皮を突っ張らせた。
立地がよかったおかげでなんとか営業できたような薄汚れた店で、味もいいわけではなかったために閑古鳥が鳴きまくっていた。
ラーメン屋の一家は渡りに船とばかりにおとなしく交渉のテーブルについていたものの、土地が坪単価二千万円以上に暴騰していると知るやいなや、立ち退き料や補償額の吊り上げを目論んだ。
一家は交渉の場でも尊大に振る舞うようになった。ブライトネス側から何度も一流レストランや料亭に招かれ、贈り物を山ほど受け取っておきながら、二億の金額を提示しても首を横に振り続けた。そこで岡谷組の出番となったのだ。
今日の一家は優雅に銀座のデパートでショッピングに興じていた。それもブライトネス側が贈った商品券を使ってだ。自分たちがどれほど勘違いしていたのかを理解させるときが来ていた。
不破もカローラバンを降りた。タバコを取り出してくわえると、土居がデュポンのライターで火をつける。
タバコの煙を吐きながら、運転席にいる渡辺に軽く手を振った。渡辺は汗まみれの顔でうなずく。
大型ダンプカーはエンジン音を轟かせて更地から走り去っていった。
不破はロレックスの腕時計に目をやった。目的地のラーメン屋までは二十分とかからない。ラーメン屋はガタが来ている古い木造建築だ。十一トンの大型ダンプカーの車両特攻にはひとたまりもないはずだ。
「やつをしっかり見張れ」
若い組員たちに命じた。
組員たちは威勢よく返事をするとカローラバンに乗りこんだ。大型ダンプカーの後を追う。乾いた土埃が舞い上がった。
渡辺の表情を見るかぎり、うまく仕事をやり遂げるだろう。恐怖や罪の意識よりも、憤怒と嫉妬のほうが完全に勝っていた。三百万の借金で首が回らないというのに、ろくに汗もかいていないラーメン屋が億のカネを手にしようとするのかと。憎しみは人に蛮勇を授けるものだ。
不破は土居に指示をした。
「二の矢を放てるようにしておけ。あいつがしくじってもいいように」
「わかりました」
土居がベンツに戻って自動車電話の受話器を取った。渡辺と似たような債権者をリストアップさせる。王一族の行く手を阻むものは速やかかつ確実に排除しなければならない。
不破はタバコを指で弾くと、アイパッチをつけ直した。
2
西新宿にあるブライトネス本社のドアを開けた。制服姿の受付嬢が顔を強張らせた。
「不破社長」
受付嬢は慌てて笑顔を作って一礼した。ぎこちない笑みだった。
不破は土居と護衛を連れていた。ふたりともヤクザだと誇示するかのような格好で、歌舞伎町の混雑する通りでも、不破たちが歩けばモーゼの海割りのごとく人が避ける。
不破はスーツにネクタイ姿ではあったが、アイパッチや派手な装飾品のおかげで誰もカタギとは思わない。受付嬢が奥にある応接室を手で指し示した。
「社長たちがお待ちです」
「ありがとう」
不破は通路を歩きながら周囲を見渡した。
オフィスはサッカーができそうなほどの広さだ。系列会社の事務所も同じフロアに入っているため、大勢の社員が机を並べて働いているのが見えた。巨大なガラス窓からは、夕暮れ時の西新宿を見下ろせた。
不破が初めてブライトネスを訪れたのは十七年前だった。社員たちは事務所の片隅で出前のラーメンをすすり、機関車のようにタバコの煙をモクモク吐きながらソロバンを弾いていた。壁には映画のポスターが隙間なく貼られ、だいぶいかがわしい雰囲気を醸し出していた。
ブライトネスグループは事業の規模をさらに拡大。パチンコホールだのゲームセンターだのを手がける不良の会社と蔑まれていた時期もあったが、世間の見る目も少しずつ変わっていった。娯楽産業の雄として業界誌や経済紙にも取り上げられ、不動産部門の業績が伸びているため、今では一流大学出身者が入社するようになった。
垢抜けた若い社員が急速に増え、一族の城が大きくなっていくのは喜ばしくはあった。ただし、本社が西新宿に移ってからはどこかよそよそしさを感じずにはいられなかった。
土居たちを空いたミーティングスペースで待たせ、不破は社長室のドアをノックして入室した。