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昭和四十五年



「わ……」
 別室は事務所とは雰囲気がまるで違っていた。出入口のドアのうえに“社長室”と記されている。
 床は赤い絨毯が敷かれ、部屋の奥には大きな金庫があった。中央にはいかにも重役向けのドッシリとした木製のデスクが置かれている。中国風の派手な柄の大壺や調度品が飾られてある。
 壁には英語で記された書類が額縁に収められており、いくつも仰々しく掲げられてある。調度品は中国風のものばかりではなく、重厚な造りの洋風の陳列棚には、高そうなウイスキーやブランデーの瓶がいくつも収められていた。
 社長室にはヤブ以外にふたりの男がいた。デスクには、ポマードで黒髪を固めた部屋の主と思しき中年男が座っており、出入口近くの応接セットのソファには、丸顔の太った男が悠然と腰かけ、ウイスキーのロックを口にしていた。テーブルにはオールドパーとアイスペールがあった。どちらも誰だかはわからない。だが、王大偉でないのは一目瞭然だ。
 王大偉は戦前に台湾から東京の大学へと留学し、戦後は台湾系華僑の立場を活かし、GHQからコメや生活必需品を優先的に仕入れ、それらを都内のマーケットで売りさばいて莫大な財を築いた。歌舞伎町なる新しい街に劇場を設け、二号の不破有紀子との間に子供を設けたときは四十三歳になっていた。
 現在の王大偉は六十近くのはずだ。新聞や雑誌を通して見る王大偉は若いころこそ、プロレスラーのような体格をしていたが、今は頭髪がかなり薄くなり、徐々に顔も身体も細くなっていた。
 デスクの中年男の頭髪は艶があり、肩幅も広くてガッシリとしていた。頑健そうな四角い顎が特徴的で、いかにも精力的な感じがする。
 応接セットの太った男は少し年下に見えた。三十半ばくらいで腹回りに肉をたっぷりつけており、栄養に恵まれているからか、肌ツヤがとてもよさそうだ。
 ソファにふんぞり返っており、どちらが部屋の主なのかがわからない。ともに糊の利いたワイシャツを着ており、中年男は袖にアームクリップをつけ、高そうな万年筆を握っている。太った男はサスペンダー姿で、舶来のスコッチを惜しむ様子もなく、グラスにたっぷりと注いだ。
 不破少年はふたりに訊いた。
「突然押しかけてすまねっす。あの……おれは不破隆次です。王大偉さんに会いに来たんだげんど」
「まずは座りなさい」
 デスクの中年男に応接セットのソファを勧められた。応接セットのソファもいかにも値が張りそうで、スコッチと本革が混ざり合った大人の場所らしい匂いがする。
 不破少年はソファに腰を下ろした。列車の固い椅子とは雲泥の差で、身体が深々とうずまりそうなほど柔らかい。斜め向かいの太った男に、据わった目つきで見つめられ、とてもくつろげそうにはなかった。
 中年男がデスクの椅子から立ち上がり、不破少年の対面に腰を下ろした。
「君も一杯るか?」
「とんでもねっす。まだお酒なんて」
「それもそうか。コーヒーは?」
「いただきます。インスタントしか知ゃねげんど。母も好きだったがら」
 中年男がヤブに命じた。ヤブは畏まった様子でうなずくと、デスクに置かれた電話のダイヤルを回し、どこかの店に出前を頼んだ。
 中年男は胸ポケットから名刺を取り出した。不破少年に渡す。
「私はおう英輝えいき。隣は弟の智文ちぶんだ」
「あなたたちが……」
 不破少年は目の前の男たちを交互に見つめた。
「知ってるのかね」
「母からいろいろ聞いでました。この街の王子さまたちだべ」
「王子?」
「王大偉さんはこの街の王様で、優れた息子さんたちが立派に受け継いでだって」
 王英輝がさもおかしそうに噴き出した。白い歯を覗かせて笑う。
「面白いことを言うじゃないか。私たちはロイヤルファミリーってわけだ。さしずめ、私が皇太子で、こいつは第二王子ってわけか」
 王英輝が隣の弟の肘をつついた。隣の王智文はニコリともせずグラスに口をつけるだけだった。
 不破少年は王英輝の名刺に目を落とした。『ブライトネス』の代表取締役社長と記されてある。まだ四十歳になったばかりのはずだが、すでに二代目としてグループ企業を統べる立場にあるようだった。
 王英輝は王子などと呼ばれて冗談のように笑うが、不破少年から見れば、ふたりとも由緒正しい血統のサラブレッドだった。
 ヤブが床に片膝をついて、アイスペールの氷をトングでつかみ、王英輝のためにスコッチのロックを作った。王英輝はグラスを当然のように受け取った。そのさまはまさしく王子と召使いの関係を思わせた。ヤブはすぐにやって来た出前の店員からコーヒーを受け取り、不破少年の前に置くと、深々と頭を下げてから部屋を去った。
「冷めないうちに飲みなさい」
 王英輝にコーヒーを勧められた。
 カップの皿についた角砂糖をふたつ入れて飲む。インスタントコーヒーよりも香り豊かで、味にも奥行きとコクがあった。砂糖の甘味が全身にまでしみわたる。
 コーヒーを口にしながら、改めてふたりを見つめた。母のスクラップ帳には、ふたりに関する経済紙の記事も貼られてあった。父の王大偉と比べて、記事の数はまだわずかではあった。
 だが、歓楽街を盛り上げる若手実業家として、経歴や経営方針はもちろん、顔写真まで記されてあったのを、今になって思い出していた。己のポカを叱りつけたくなる。ふたりは不破少年にとって、腹違いの兄にあたる人物なのだから。
 王兄弟はともに慶應大学を卒業すると、米国のUCLAなる名門大学で経営学を修めた。その後は『ブライトネス』の前身である『大慶商事』に入社し、父親とともに会社を拡大させていった。壁に誇らしげに掲げられた英語の書類は、卒業証書や資格証明書の類と思われた。
 王英輝に尋ねられた。
「そういえば、君のお母さんは不破有紀子だそうだね。亡くなられたのか……」
「んだっす。大腸ガンでした。三か月前のごどだげんど、母が腹痛に耐え切れねぐなって、医者に診てもらっだどぎにはもう手遅れだったみでえで。他の臓器にガンがあっちこっち転移してで、もう手の施しようがながったらしいです」
 不破少年は膝のうえに風呂敷包みを置いた。結び目を解く。なかには骨壺用の桐箱と位牌、それに額縁入りのカラー写真があった。
 王英輝が笑みを消した。弟の王智文も無関心を決め込んでいたが、スコッチを飲む手を止めて桐箱を見やる。
 不破少年は額縁入りの写真をテーブルに置いた。葉書程度の大きさで、数年前に同僚のストリッパー嬢と旅行をしたさいに撮られたものだ。
 長いこと部屋に飾られていたもので、だいぶ陽光にさらされ続けていたため、写真は黄色く色褪せていた。海岸を背にして、カメラに向かって微笑む姿が写っている。
 王英輝が写真を手に取った。
「……確かにこれは有紀子さんだ」
「そうだな」
 王智文も面倒くさそうではあったが、肯定するように小さくうなずいた。
「母を知ってんだがっす」
 不破少年は前のめりになって訊いた。王英輝は米国人みたいに肩をすくめてみせた。
「覚えているよ。なにせ『モンマルトル』の新進女優として注目されていたからね。憧れの存在だった。私はまだ学生で、劇場のモギリのアルバイトをやっていたが、仕事そっちのけで有紀子さんが踊る姿を見ていたもんさ。もっとも、あのころはどぎつい額縁ショーだのストリップだのが受けて、うちの劇場は大入り満員とは行かなかったがね」
「昭和三十年に閉館を余儀なくさっだと聞いてます。おれが生まっだ年に」
 不破少年は堰を切ったように話した。不破母子がそれからどのように過ごしたのかを。
『モンマルトル』のなかには、芸の巧さや美貌を見込まれて、放送界や演劇界で活躍し、大スターにまでなった俳優やコメディアンもいた。だが、母は自分にそこまでの才能はなかったと振り返る。舞踏や演劇をやっている場合ではなく、自分と息子を食べさせなければならなかったと。
『モンマルトル』を退団すると、母は新橋のキャバレーで働いた。太い常連客を何人か掴んで、サラリーマン以上の収入を得ていたが、過度な飲酒によって肝臓を壊しかけたのと、ヤクザの幹部に気に入られて無理やり愛人にされそうになり、逃げるようにして東京から去らなければならなくなった。

 

(つづく)