最初から読む

 

10(承前)

 不破は本になじみがない。もっぱら読むのはゴシップ誌とマンガぐらいだ。近藤から法律をよく学ぶようにと、六法全書をプレゼントされたことがあった。兄のためなら努力を惜しまないが、内容が頭に入らないばかりか、読めない漢字がいくつもあった。何度挑戦しても、たった数ページで強い眠気に襲われていた。
 そんな不破でも愛読していたものがある。血液型性格分類といったジャンルの書籍だ。能見正比古を始めとして『血液型人間学』『血液型性格学』や『血液型犯罪学』といった本を書店で見かけるたびに買っては読みふけった。
 O型の人間は生きる欲望に満ちあふれ、強い目的意識を持ち、決心の後は迷うことがない。その一方でひじょうに自己抑制が強く、感情を表に出さずに冷静沈着で、理性を重んじて物事の筋を通そうとする。仲間意識がきわめて強く、家族との絆を重んじるタイプであるという。
 著者によって解釈が異なるものの、おおむねそれがO型の気質であるらしかった。まさに王大偉や近藤のような男たちを示しているとしか思えず、彼らと同じ血液型であるのが誇らしかった。
「隆次、言っておくことがある。驚くんじゃないぞ」
 近藤がふいに思いつめたような表情になり、不破の左手を握りしめてきた。
「ど、どうしたんですか」
 不破は当惑しながら問い返した。
 近藤は口を開くものの、唇や顎を震わせるばかりで言葉を発しない。こんな彼の姿を見るのはめったにない。
「……おれの血じゃダメだったんだ」
「え?」
「お前の出血はひどいもんだった。だから病院にお前を担ぎこんで救急医に命じたんだ。同じ血液型だから今すぐおれの血で輸血してくれと」
 どうしてダメだったんですか。不破は尋ねようとした。
 しかし、近藤と同じく言葉が出てくれない。全身の筋肉が強張っていく。答えを知るのが怖い。
 近藤はうつむきながら続けた。
「病院側はすぐにおれたちの血液を調べた。正確には交差適合試験というらしい。それで判明したんだよ。お前の血液型はB型だったんだ」
「だったら、おれに輸血された血は」
「血液センターからの輸送がギリギリで間に合った。お前は強運の持ち主だ」
 不破は目まいを覚えた。視界がぐるぐると回り、猛烈な吐き気がこみあげる。近藤の声が遥か遠くに聞こえる。
「B型って……だとしたら、おれは」
「考えるな」
 近藤に頭を抱きかかえられた。彼のぬくもりが伝わり、香水やタバコの匂いがした。
 考えずにはいられない。王大偉はO型だ。それは間違いない。戦後の闇市で自分の店を守るために愚連隊相手に戦い、拳銃の銃弾を腹部に食らって病院に担ぎ込まれた過去があった。そのさいに初めて自分の血液型を知ったという。母も自分の血液型はO型だと言っていた。
 不破に学はない。それでもO型同士の親からB型の子供などできないことは本で知った。
 不破は言わずにはいられなかった。唇が震えて涙声になった。
「そんなバカな……だったら、おれは何者だというんですか」
「王大偉の息子だ! 王一族の一員でおれの弟だ。今までとなにひとつ変わりやしない」
 近藤の抱擁は温かく力強かった。しかし、その声はまだ遠い。
 おれは王大偉の息子ではないのか。この兄とは赤の他人でしかないのか。
 ――あなたも高貴な王子のひとりよ。
 母はかつてそう言っていた。
 だから、母との旅暮らしではどれほど屈辱的な目に遭っても耐えられた。田舎のクソガキどもに肥溜めに叩きこまれても、石礫で左目を潰されても、自分はしんとく丸や源義経なのだと固く信じて己を奮い立たせてきたのだ。
 近藤に顔を両手で掴まれた。不破は思わず息を呑んだ。近藤が涙を流していた。
「安心しろ。この事実を知ってるのはおれだけだ」
「兄さん……」
「そんなに血筋が重要か。血なんてどうだっていいじゃねえか。お前はおれの弟で、王一族を守る不破隆次だ。それで充分だろう」
 不破の胸が熱くなった。こらえきれずに涙があふれ、視界が水浸しになっていく。
「ありがとうございます」
 不破は何度もうなずいてみせた。これほど自分を認めてくれる兄がいるのだ。彼の言うとおり、それで充分だった。
 ――ただの淫売の倅だったのかよ。
 心のなかで不破自身の声がした。
 それを無視して兄の手を取り、不破は感謝の言葉を口にした。兄の言うとおり、今までとなにひとつ変わらないと信じこむことにした。偉大な一族の一員なのだと。

 

(つづく)