2(承前)
あの世に逝った母を問い詰めたかった。本当に自分も王族の一員なのか、ここは自分にとって故郷なのかと。
不破少年は学生服の袖で顔を拭った。ハンカチはずぶ濡れで使い物にならない。
「お願いします。王さんに……王大偉さんに会わせてけろっす。あの人なら知ってだはずだべ」
「こちらからも訊かせてもらおうか。君の戸籍はどうなっている。戸籍謄本に王大偉の名前は載っているんだろうな」
「戸籍……」
不破少年はおうむ返しに呟いた。母からはなにも聞かされてはいない。王智文が鼻で笑った。
王英輝は身体を背もたれに預けた。
「戸籍謄本とは、君がどこの誰から生まれて、自分が何者なのかを公式に証明する書類だ。それを取り寄せて見てみるといい。父親の欄に会長の名前などないはずだ。君が王大偉の息子だと言い張れる証拠はどこにもないということだ」
「で、でも、これは……」
不破少年はスクラップ帳を掲げてみせた。王智文が鼻を鳴らす。
「そんなもんで息子を名乗れるんなら、おれはとっくにカーク・ダグラスの倅になれてるぜ」
王英輝が札束を指さした。
「それを受け取って帰りなさい。相模原市に母方の親族がいるのなら、そちらに行くといい。小田急線の終電にはまだ間に合う」
「王大偉さんの帰りを待ちますがら。野宿でもなんでもやっで待ちますがら、だがらぜひ会わせてけろっす」
「下手に出たのが間違いだったか」
王英輝が表情を消して立ち上がった。彼は手をムチみたいに振るい、不破少年の頬に痺れるような痛みが走った。甲高い音が鳴り、平手打ちを浴びたのだと悟る。
不破少年は茫然と王英輝を見上げるしかなかった。彼は右手を掲げ、煙を吐きながら怒鳴った。
「痛い目に遭いたくないなら、そのカネを持ってとっとと失せろ! このタカリ屋め。お前なんぞが会長の息子だと。二度と口にするんじゃない」
「嫌んだ! おれはれっきとした王大偉の息子だべ。どうかお願いだず。母は嘘つく人なんかでねえし、おれはカネ目当てで来たんでねえ。戸籍謄本なんて知ゃねえげんど、おれのこの身体には王大偉の血が間違いなく流れでんだず」
不破少年はソファから床に座りなおした。赤い絨毯に額をこすりつけて土下座をする。
「この野郎」
王智文もソファから立ち上がった。ピカピカに磨かれた革靴で、不破少年の肩を蹴りつける。兄よりも加減のない一撃だった。肩の筋肉に痛みが走るものの、不破少年にとってこの程度は暴力のうちには入らない。
不破少年は顔を上げた。母の遺骨が入った桐箱を抱きかかえた。
「母にも会わせてやりでえんです! ずっと王さんに会いたがってだ」
「いい加減にしないか!」
王英輝が業を煮やしたように再び腕を振った。
彼の右手が不破少年の頬をそれ、左目の眼帯に当たった。ゴム紐が手に引っかかり、眼帯が外れて床に落ちる。
「うっ」
王兄弟がそろって息を呑んだ。
不破少年の左目は青白く白濁していた。他人はなぜかこの瞳の色に怯む。赤ん坊は見ただけで泣き、大人でさえも顔色を変える。王兄弟も例外ではなかった。
不破少年の顔が恥ずかしさで火照った。眼帯をつけ直したかったが、今はひたすら懇願するしかない。
「お願いだ! 王さんに会わせてけろっす」
王智文が顔をしかめた。
「兄貴……ラチが空かねえ。社員どもを呼ぼう」
王英輝が部屋の外に向かって声をかけた。
「誰か!」
不破少年は桐箱を抱えて亀のように身体を丸めた。たとえ社員から袋叩きに遭っても、最後までふたりに訴えるつもりでいた。
不思議なことに扉は閉じたままだった。隣の事務所は人気があるものの、今度は誰も入ってこない。
王兄弟が顔を見合わせる。王智文が声を荒らげた。
「おい! 誰かいねえのか。なにをしてんだ」
扉が静かに開いた。不破少年はあっと声を漏らした。
姿を現したのは、あのエレベーターで出くわした近藤というヤクザだった。彼はカシミアのコートを着たまま室内に入ってきた。
「マーシ……」
王智文が頬を歪めた。王英輝も不愉快そうに顎を上げる。
「なんでお前がここに」
「なんでもなにも。兄貴たちになにかあれば、おれが駆けつけるのは当然じゃないか」
近藤はしゃがれた声で言った。王英輝は首を横に振った。
「お前が出張るほどじゃない」
「そうかね。この坊やとのやりとりを隣で聞いてたんだが、えらく手こずっているように思えたんでね。それに、ふたりとも汗まみれだ」
不破少年はおそるおそる近藤を見上げた。このヤクザは何者なのだろうと。
近藤は王兄弟を兄貴と呼んだが、顔つきはふたりと異なる。上がり眉と高い鼻が特徴的で、まるで狼のような顔立ちだ。唇の左横と顎に切り傷の痕があり、裏社会に生きる人間特有の暗い目をしていた。育ちがよさそうなふたりとは対照的だ。
王英輝が二本目の吸い殻を灰皿に押しつける。
「盗み聞きか。だったら話が早い。そのお客さんをつまみ出して、二度と寄りつかないよう因果を含めろ」
近藤に見下ろされた。エレベーターで会ったときと同じく、その視線はやはり鋭い。殺気さえ感じさせる。
それでも、不破少年は腹をくくって近藤を見つめ返した。しかし、近藤は不破少年の左目にもたじろぐ様子はなかった。眉ひとつ動かさない。
尻尾を巻いて引き返すほうが正しい選択肢なのは明らかだ。我を張り通せば、ケガだけでは済まないのかもしれない。とはいえ、不破少年には引き返す場所などありはしないのだ。
近藤が不破少年の傍で屈んだ。彼は床に片膝をつくと、腕を伸ばし、無造作に桐箱を触ろうとした。不破少年は抗うようにして近藤に背を向け、桐箱を抱える力をより強めた。
「不破有紀子の遺骨だってな」
近藤が不破少年の肩に手を置いた。質問の意図がわからず、曖昧に相槌を打つ。
近藤が立ち上がった。スラックスについた埃を払うと、王兄弟と再び向き合う。
「いっそ、こいつを置いてやったらどうです」
「な、なんだと?」
王英輝が顔を強張らせた。それこそ平手打ちでも浴びたかのようにうろたえる。
近藤が顎で不破少年を指した。
「東北の田舎からたったひとりでやって来ちゃ、大人ふたりに冷たくあしらわれたばかりか、ヤクザまで出て来たってのに居座ったままだ。今時のガキにしちゃ珍しく気合が入ってますよ。こういうやつはよく働く」
「ふざけるな!」
王智文が近藤を突き飛ばそうとした。だが、近藤は彼の手首をすばやく掴む。
「ふざけちゃいませんよ。さっきも言ったように、おれの役割は兄貴たちを守ることなんだ。親父はこの坊主のことを知ってるんですか? 不破有紀子からの手紙とやらも、親父に見せずに処分したんでしょう。おまけに親父の血を引いた子を、こっぴどく痛めつけて追い返したとなりゃ、いくら器のでかい親父でも、兄貴たちにきつい雷を落としかねない」
「痛て。痛え! とにかく手を放せ」
王智文が目に涙をにじませて叫んだ。
「おっと、すみませんね」
近藤は痩せていたが、そんな見た目とは裏腹に、かなりの力自慢のようだ。彼が手を離すと、王智文は手首をさすって後じさりする。
不破少年は近藤と王兄弟を交互に見つめた。唾を呑みこむ。
近藤は王大偉のことを親父と呼んだ。“近藤”という名で呼ばれてはいるものの、この男も自分と同じように王大偉の息子なのだろうか。母からの手紙を勝手に処分とはなんなのか。王大偉は自分の来訪をまったく知らずにいたのか。
近藤たちに訊きたかったが、それどころではなさそうだった。近藤は王英輝に詰め寄っていた。
「いくら戸籍がどうのこうのとシラを切ったところで、人の口に戸を立てられるわけじゃない。親父と不破有紀子がいい仲にあったのは、みんなが知っていたことだ。おれたちだけじゃなく、従業員からご近所さんまでな。おれたち兄弟全員が、有紀子のアパートに出向いて、本宅に帰りたがらない親父に、家に戻るよう説得したことだってあっただろう」
王兄弟は、さも痛いところを突かれたかのように顔をしかめた。
「マーシ、傑志よ。お前はやけにこのガキの肩を持つじゃないか。同じ妾腹だからか?」
王英輝が近藤の胸を人差し指で突いた。近藤は肩をすくめた。
「あんたらしくもない。冷静になれよ。おれは一族を陰から支える僕に過ぎない。だからこそ、ときには耳の痛い助言もする。まさに今がそれだ」
「おれは冷静だ。そして今や一族の長はこのおれなんだ。親父が怒ろうが知ったことか」
王智文も同調するようにうなずく。
「兄貴の言うとおりだぜ。今までだって、この手のタカリ屋があの手この手でやって来やがった。親父の学友だったとか、同郷だったとほざいて近づいてきたやつが何人いたと思う。いちいち甘い顔してられるか。そんなヤワな態度でよく極道張ってられるな」
「このガキがただのタカリ屋ならとっくにつまみだしてる。だが、あいにく今回はそうじゃない。親父と不破有紀子の仲はこの街の古い人間たちは今でも覚えている。あの女がここを去った経緯もな。おまけに親父はもう一介の芝居小屋の大将じゃない。在日華人を代表する存在で、台湾政界にまで進出するんだろう。そんな立場にいる男に隠し子がいただけじゃなく、おれたちがこっぴどく痛めつけて追い返したなんて話を知られてみろ。どこかのゴシップ雑誌が食いついてくるかもしれない。親父の世評を考えるべきだ」
「世評か……親父は政治にのめりこみすぎなんだ」
王英輝がポケットからハンカチを取り出した。
彼は汗に濡れた顔を拭きながら、再びソファに腰を下ろした。しかめっ面でスコッチを舐め、しばらく考え込むように中空を睨んでから王智文に言った。
「智文、お前のボウリング場で働かせてみろ。人手が足りてなかっただろう」
「本気かよ……」
王智文は呆れたように見つめ返した。忌々しそうにソファを蹴とばす。
「ただでさえ、鞭馬会のチンピラどもに迷惑してるんだ。おまけにタカリ屋の面倒まで見ろってのか!」
近藤は王智文の肩に手を置いた。
「そっちの件は任せてくれ。もう少しで話がつく」
「この前もそう言ってなかったか? おれたちに説教たれてる暇があったら、自分の立場を心配しやがれ」
「わかっている。兄貴たちの寛大な配慮には感謝しかない」
近藤は両膝に手をつき、王兄弟に深々と頭を下げると、不破少年に向かって手招きした。
「行くぞ」
「え、いや……んでも」
不破少年は当惑した。果たして近藤の言うとおりに、出て行っていいものなのか。
不破少年は叩き殺される覚悟で居座るつもりだった。王大偉に一目会うまではテコでも動かないぞと。強情なクソガキをここから追い出すために、近藤と王兄弟たちが一芝居打った可能性だってあるのだ。
近藤はさっさと部屋を出て行く。不破少年の心情など知ったことではないと言わんばかりに。
※本作には「妾腹」など、現在では不適切とされている用語・表現が使用されていますが、作品の時代性を鑑みてそのままにしております。