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3(承前)


「行こう」
 不破少年は学生アルバイトを促した。
 しかし、彼は身体をもじもじさせるだけで、その場から動こうとしなかった。不破少年よりも年上だというのに、どいつもこいつも意気地がない。
 不破少年は単独で駆けた。
「お客さん、あんたらなにやってんだず!」
 ヤクザ者が一斉に不破少年を見た。三人のチンピラたちは血相を変えた。リーゼントが怒鳴る。
「てめえ……この前のクソガキじゃねえか!」
「ここはキャバレーでねえよ。従業員に触んねえでくれますか」
 リーゼントが嫌らしく舌なめずりをした。不破少年を挑発するように麻里に抱きつく。麻里が短い悲鳴を上げる。
「お触りがなんだって? おれはただボウリングのやり方を教えてもらいたかっただけだっぺよ。あんちゃん、それにしてもひでえ訛りじゃのう。どこで生まれたカッペ野郎でっか?」
 リーゼントが顔を突き出して不破少年をからかい、坊主頭がこれみよがしにレーンを滑ってみせる。やつの雪駄はときおりザリザリと不快な音を立てた。レーンやアプローチは上等なメープル材が使われている。にもかかわらず、ヤクザ者たちはそれらに傷をつけて回っていたのだ。
 不破少年の頭が熱くなった。
「おめら……」
「こいつは好都合だぜ。おいコラ、眼帯なんかつけやがって。勇ましい海賊にでもなった気か?」
 角刈りの男が床に落ちていたコーラの空き瓶を拾い上げ、こん棒のように握って身構える。
「ルール守れねえのなら、出てってもらえねえべが。他のお客さんにも迷惑だず」
「誰が迷惑だと?」
 兄貴分らしき中年男がベンチからゆっくり立ち上がった。
 腹に贅肉がついているが、分厚い胸板をしており、肩幅もかなり広かった。がっちりとした体型の大男だ。
 中年男はくわえタバコでボールリターンのトレイに溜まったボールを掴むと、その場から隣のレーンへとボールをぞんざいに放り投げた。最重量の16ポンドのボールが高々と上がり、隣のレーンで派手な音を立てながら落下した。ボールがバウンドし、さらにその隣のレーンにまで飛び込んだ。
「おれら、迷惑かけてるかい?」
 中年男が隣のレーンの若いカップルに訊いた。
 若いカップルは曖昧に首を振った。すでにボウリングシューズを脱ぎ、そそくさと帰り支度をしていた。もはや遊んでる場合ではないといった様子だ。
「誰も迷惑してねえってよ」
 中年男はタバコをボールリターンの穴に放り捨てた。
 不破少年の全身が意思に反して震えた。タバコの火を身体に押し当てられたかのような気持ちになる。
 不破少年は連中に向かって手で追い払う仕草をした。
「出てげ。出入り禁止だ。ここはおめらが来るところでねえ」
 全員が信じられないという顔をした。チンピラたちはそれぞれ目を合わせる。座敷犬に手でも噛まれたような表情だ。
 リーゼントが麻里を突き放し、肩を怒らせながら大股で歩んできた。目の色がすっかり変わっている。こんな田舎者のガキが自分たちに意見するなどあってはならないと言わんばかりだ。かつてはよその土地でも集落のガキ大将や荒くれ者に迫られたものだった。
「てめえ……もう一回言ってみろや」
「何度でも言ってやる。ここはおれの城だず。おめらみでえな下郎が来れるどこでねえんだよ」
 中年男が拍手をした。わざとらしく声を張り上げて笑い、トレイのボールを撫でまわした。
「これはまた大物が現れやがったな。まだチンポコに毛も生えてねえだろうに、偉そうにもお客を追い払うだけじゃなく、下郎呼ばわりしやがった」
 胸の鼓動が速まっていく。大量の冷や汗が噴き出したらしく、下着が背中に貼りつくのがわかった。
 中年男は異質だった。連中のなかでは落ち着いた様子を見せているが、殺気を全身から噴き出させている。少年店員に挑発されて怒るどころか、これで暴力を存分に振るえるという喜びすら感じ取れた。最重量の16ポンドのボールを高々と放り投げてみせたのだ。かなりの力自慢のようだ。
 麻里がヤクザの輪から脱出していた。ボウリング場の外へと走る。彼女の性格を考えれば、きっと派出所にでも駆け込むに違いない。ここからすぐ傍に派出所はある。
 しかし、だからといって警察官がすぐに駆けつけてくれるわけではなかった。派出所は花園神社近くのマンモス交番と違って小さく、街の急速な発展に警察官の数が追いついていない。夜ともなれば酔っ払い同士のいざこざやヤクザ者の暴力沙汰などに忙殺される。順番待ちの列に並ばなければならないのが実情だ。だからこそ、すぐに対応するヤクザが店の用心棒として重宝がられるのだ。
 不破少年はひとまず安堵の息を吐いた。もし近藤がこの場にいたら、まずは彼女を助け出していただろう。
「この田舎っぺ、吐いた唾を呑むんじゃねえぞ」
 リーゼントが殴りかかってきた。不破少年の顔に右拳を放ってくる。
 不破少年はヤクザたちよりも小さい。近藤のような武術を修得してもいない。それでも、ケンカのやり方は身につけていた。肥溜めに突き落とされないために、もうひとつの目を守るために、母を淫売などと呼ばせないために。
 リーゼントのパンチは脇の開いた手打ちだ。不破少年は顎をしっかり引いてパンチを額で受け止めた。額が硬い音を立て、目がチカチカする。多少の痛みはあるものの、歯を食いしばればやり過ごせる。中学校の教師の拳骨よりも威力はない。
 リーゼントのほうが苦痛で顔を歪めた。右拳を痛めたのがわかった。不破少年を睨みつけながらも右拳を緩める。
 手の骨はもろいと教えてくれたのは、飯坂温泉のストリップ小屋で働いていたサブちゃんだった。
 サブちゃんは日本ランカーの元プロボクサーで、現役時代はKOの山を築いて人気を博した。しかし、相手のパンチを浴びても前へ前へと出続ける根性ファイトが災いし、パンチドランカーになってまっすぐ歩行するのも難しくなり、引退を余儀なくされた。イジメで生傷が絶えなかった不破少年を不憫に思い、サブちゃんは実践的なケンカの技術を授けてくれた。頭の骨ではもっとも頑丈な額で、相手の拳を破壊するやり方を教えてくれたのも彼だった。
 不破少年はすかさずリーゼントとの距離をつめた。両手で彼の右拳を掴んでひねった。やはり骨が折れたらしく、リーゼントは情けない声で絶叫しながら床に膝をついた。
「てめえっ」
 レーンを滑っていた坊主頭がアプローチへと戻ってきた。
 不破少年は坊主頭に向かって突進した。坊主頭の顎を諸手で突き飛ばす。近藤にやられた顎に青痣が残る坊主頭は背中からひっくり返り、そのままレーンを滑って頭からピンへと突っ込んでいく。
 背後に人の気配を感じた。慌てて振り返ったが遅かった。角刈りが鬼の形相でコーラ瓶を頭に叩きつけてくる。額で受け止めるのが精いっぱいだ。
 額に固い衝撃が走り、頭の奥まで痛みが突き抜けた。リーゼントの拳とは比較にならない痛みだ。コーラ瓶の重みで歯がきしむ。
 不破少年の視界がぐにゃりと歪んだ。これほどの激痛は久しぶりだったが、耐え切れないほどではない。過去にはもっとひどい殴られ方をしたこともある。
 不破少年は腰を落として踏ん張った。
「おめらみでえな下種どもは出入り禁止だって言ってんべ! おれの城から出て行きやがれ」
「このクソガキが!」
 角刈りが再びコーラ瓶を頭めがけて振り下ろした。
 不破少年はかわさなかった。正反対に自ら額をコーラ瓶へと突き出す。
 衝突と同時に視界が一瞬暗くなった。今度は一転して甲高い音が鳴った。コーラ瓶が派手に砕け散り、そのおかげで一撃目よりも衝撃は弱い。バラバラと破片が顔に降り注ぐ。
 角刈りが顔を思い切りそむけていた。破片が勢いよく飛び散り、客たちが悲鳴をあげる。
 不破少年はサブちゃんの教えを思い出し、角刈りの隙を見逃さなかった。顎に力をこめると、角刈りの腹めがけて突進した。額から思い切りぶつかっていく。
 サブちゃんは元ボクサーだったくせに、パンチはまったく教えてくれなかった。不破少年に徹底して指導したのは頭突きバツテイングのやり方と、フックに見せかけた肘打ち、親指を相手の目にねじこむサミングといった反則技だった。
 しかし、サブちゃんはレフェリーの目を欺いて、対戦相手の目や鼻に頭突きをかまして、顎に拳ではなく肘打ちを喰らわせた。それがKOアーティストと呼ばれた秘訣だったと、焼酎をやりながらのんきに語ってくれたものだ。
 角刈りは不破少年の突進を食らい、車にでもはねられたかのようにアプローチをゴロゴロと後転し、ベンチに後頭部を派手にぶつけた。
 不破少年は瞬きを繰り返した。航行中の船に乗っているようだった。地面がぐらぐらと揺れ、脚に力が入ってくれない。どうにか倒れまいと大股になるものの、千鳥足になって床に散らばったコーラ瓶の破片を踏んでしまう。
 角刈りはうずくまったまま胃のあたりを押さえ、黄色い胃液をみっともなく床に吐き出した。角刈りも三週間前に近藤から痛烈な蹴りを腹に食らっている。同じところに頭突きをかまされたせいか、苦しげに腹を押さえて悶絶していた。
 角刈りが着ているアロハシャツが血に染まっていた。破片でどこかを傷つけたのかと思ったが、不破少年の額から生温かい液体が滴り落ち、出血しているのは自分だと気づいた。視界が赤く染まっていく。コーラ瓶で額が割れたらしい。
 出血量は多かった。アプローチに血がポタポタとしたたり落ちて、額に手をやると掌がべっとりと真っ赤に染まった。まるで凶器攻撃をされたプロレスラーみたいな顔だろう。不破少年が着ているユニフォームのトレーナーも血まみれだ。
 視界が赤く染まっていく。血のせいで目が開けていられない。膝もガクガクと揺れている。それでも、まだへたりこむわけにはいかないのだ。下賤な連中を追い出さなければならない。近藤なら簡単にやってのけるはずだ。
「不破君!」
 麻里が外から戻ってきていた。タオルを手にして駆け寄ってくる。他の従業員は野次馬と化した客と同じで、その場で固まったまま動こうとしない。
 麻里が不破少年の額の血をタオルで拭ってくれた。
「ひどい傷よ。病院に行かなきゃ」
 麻里のおかげで視界がだいぶよくなった。だが、まだケリはついていないのだ。不破少年はベンチ側にいる中年男を探す。
「危ない!」
 とっさに麻里を突き飛ばした。

 

(つづく)