平成十四年
1(承前)
「変わったのは車の流行やケータイだけじゃねえぞ。お前もある程度耳にしてるだろうが、業界や歌舞伎町もえらく変わった。暴追センターにケツ掻かれて、おれらにペコペコしてたカタギまでが、みかじめ料どころか、店に入るのさえ拒むようになりやがった。ナメた態度を反省させようと動きゃ、警察が待ってましたとばかりに飛んできてコレだ。岡谷組も例外じゃねえ」
釜石が両手首を合わせて手錠をかけられるフリをした。ミニバンの二列目に座っていた南場が頭を下げた。
「二代目、申し訳ない。おれの努力不足だ」
「なにを言う。無責任に暴れて組を留守にしたのはこのおれだ。長いこと尻拭いをさせてすまなかった」
不破は頬の傷痕を指でなぞった。
任海狼のダガーナイフで刺された痕だ。左腕にも折り畳みナイフによる創痕がある。
検察からは傷害致死罪で起訴されたが、不破の罪は本来なら殺人に相当した。もともと息の根を止める気でいたのだから。ケジメをつけさせるためにやつの命を拳で粉砕した。
不破たちは警察の取り調べの段階から、一貫して東北幇とは話し合いのために相手のアジトに赴いただけだと主張。乱闘になるとは思っていなかったとシラを切った。
暴力沙汰の口火を切ったのは任海狼のほうだった。不破たちは刃物や自動拳銃を持った凶徒相手に拳ひとつで立ち向かうしかなく、自身の身を守るための正当防衛だと主張した。
ヤクザの主張が額面通りに通るはずはない。それなりの刑罰を言い渡されるのは織り込み済みで、地裁から判決を言い渡されると、控訴することなく下獄した。
殺したのは任海狼だけではない。乱闘事件から三か月後、雄也を刺した朱宇鵬の死体が黒竜江省大慶市の川に浮かんだ。朱宇鵬とともに『アカプルコ』を襲った共犯者も、大慶市の油田施設の敷地で絞殺体となって発見された。
生前の任海狼が言ったとおり、東北幇も一枚岩ではなかった。連中のなかには龍星軍出身者と対立する集団も存在し、その一派にカネを渡して朱宇鵬を始末させた。雄也を狙った悪党どもにツケを払わせた。
任海狼を死に追いやった事件は、週刊誌や実話誌などで大きく報じられた。バブル崩壊と暴対法のダブルパンチで自信を喪失した極道たちにとって、急拡大を遂げる中国人マフィアは苦々しい存在だった。カタギまで毒牙にかけた外道の不良外国人に制裁を与えたとして、岡谷組と不破の名は全国のヤクザ社会に広まった。不破には“歌舞伎町の狂王”という異名がつけられ、事件をモチーフにしたVシネマまで作られたほどだ。
その一方で、払った代償も大きかった。警視庁は『アカプルコ』事件の殺人犯を岡谷組に奪われ、メンツを潰されたとして岡谷組への取り締まりを強化した。
歌舞伎町の店舗からみかじめ料を集金していた組員を恐喝容疑で逮捕。やはり組員がオーナーだった風俗店やゲーム賭博店を次々に摘発していった。
不破の資金源だった金融会社『王和ファイナンス』も同様に潰された。社員が債権者に対して脅迫的な取り立てを行ったとして家宅捜索を受け、関東財務局から営業停止を命じられた。
岡谷組はバブル期に約四百人もの組員を抱えていた。暴対法の施行と取り締まりによって大きな打撃を受けた。当局の目を眩ますために偽装破門にした者も少なくはないが、それでも実際の組員数は往時の半分以下にまで減った。
いくら多くの極道やマニアたちから賞揚されたとしても、組の大黒柱である不破と、組の舵取りを担う若頭のふたりが塀のなかにいたのだ。南場はシャバに残って事件の後片づけをし、組織防衛のために東奔西走をさせられていた。岡谷組の勢力が当局によって削り落とされると、その隙を突くように他組織が歌舞伎町へとなだれ込んでもきた。
南場はいくつもの難題に対処し続け、そのおかげでこの六年間で二度の入院をした。ストレスを紛らわせるために酒やタバコに頼る日々が続いて心臓と胃が悲鳴をあげたのだという。病によって体重を大きく減らし、空気の抜けた風船を思わせた。まだ五十二歳だというのに還暦を過ぎた老人のようだった。
刑務所のなかで出された食事を黙々と平らげ、看守の目を盗んでスクワットや腕立てといったトレーニングを毎日こなした不破とは対照的だ。労をねぎらわれるべきは不破ではなく、ひたすら組の運営のために骨を折ってきたこの先輩だった。
ミニバンが前橋インターチェンジに差しかかったところで、釜石が真剣な表情に変わった。
「出たばかりの者に説教めいた話をするのは無粋かもしれんが、年寄りのおせっかいと思って耳に入れておいてくれ。さっきも言ったとおり、歌舞伎町は裏社会が仕切る繁華街じゃねえ」
「今じゃ何十台もの防犯カメラが睨みを利かせてるらしいですね。揉め事が起きれば、すぐに警察官もすっ飛んでくるとか」
「おまわりやそのOBどもがでかいツラしてやがるよ。なにしろ、あの尾崎が政治家になるくらいなんだ。さんざんヤクザ者のケツを嗅いできたヨゴレのくせに、今じゃ『歌舞伎町をクリーンな街に』と来たもんだ。知り合いの政治家から聞いた話じゃ、今の都知事は来年あたりに警察官僚を副知事に据えて、今以上に厳しい取り締まりをやると息巻いてるらしい」
尾崎は二年前に定年で警視庁を辞めると、昨年の都議選で与党自政党から出馬した。
彼は叩き上げの警察官だった経歴を猛アピールし、新宿区で選挙戦を繰り広げた。現都知事や国会議員の杉若善一の応援もあり、もっと安心して暮らせる新宿をモットーとして掲げ、新顔ながら同区でトップ当選を果たした。
尾崎はヤクザにもへいこらする木っ端役人だったが、ずっと野心と怒りを抱えていたようだ。酒に酔えば左派やリベラルで知られる学者や作家を“アカ”と呼んで憚らなかった。新大久保や歌舞伎町で働く韓国人や中国人を蛇蝎のごとく嫌い、雄也が殺害されたときは、積極的に捜査情報を岡谷組に流した。不破に東北幇を叩かせるためだったのだ。
釜石がため息をついた。
「おまけに使用者責任の裁判の件もある。それぐらいは知ってるだろう」
「もちろんです。塀の中にいるヤクザは、みんな気にしていましたよ」
釜石の言う裁判とは、日本最大の暴力団である華岡組のトップが訴えられている件だった。
一九九五年、華岡組の三次団体と京都の老舗組織の間で縄張りをめぐるイザコザが起きた。三次団体の組員が老舗組織の構成員を拳銃で射殺するといった事件まで起きた。だが、射殺されたのはヤクザではなく、老舗組織の事務所を見張っていた京都府警の私服刑事だったのだ。
誤射事件から三年後、私服刑事の遺族が華岡組のトップなどを相手取り、一億六千万円もの損害賠償を求める民事訴訟を起こした。
民法でいう“使用者責任”を、ヤクザ社会にも適用できるかどうかが争点となっており、全国の親分衆にとって大きな関心事となっていた。直接盃を交わした子分が起こした犯罪ならともかく、顔も名前も知らない枝の組員が起こした間違いの尻ぬぐいをさせられるかもしれないのだ。
遺族側には約七十人もの弁護士がついているという。前橋刑務所にいる親分のなかには、もはやカタギがヤクザを食い物にしていると肩を落とす者もいた。
釜石はペットボトルの茶を含んで言った。
「京都地裁はトップの使用者責任を否定する判決を出したが、おれは高裁で判決がひっくり返るだろうと睨んでる。こいつはヤクザを吊し上げるための国策さ。今日のお前はいろんな親分さんから褒めそやされるだろうがよ、浮かれてばかりはいられねえぞ」
「肝に銘じます」
不破は背筋を伸ばして答えた。南場や土居も真剣な表情で相槌を打つ。
釜石は不破の肩をバンバンと叩いた。
「まあ六年も入ってたんだ。さすがの独眼竜もケンカどころじゃねえわな。お前は腕っぷしだけじゃなく商才もある。イチロー顔負けのスターとなったお前なら、喜んで事業に出資したいと願い出るファンだって大勢いるだろうよ。お前の親戚が経営してるブライトネスって会社もバブルで大火傷を負ったが、うまくリストラをやって黒字体質に生まれ変わったらしいじゃねえか。そのへんとよろしくやって組を立て直すんだな」
「はい」
「おう、運転手。便所に寄ってくれ。年寄りは小便が近くなっていけねえ」
釜石が休憩所に寄るよう宇佐美に命じた。ミニバンは嵐山パーキングエリアに寄り、建物に近い位置に停車した。
釜石は宇佐美を連れてトイレへと向かった。不破は車窓に目をやり、釜石がトイレのなかに入るのを見届けた。
土居が舌打ちした。
「辛気臭え話かましやがって。長い勤めを終えたばかりの人間にすることかね」
不破は表情を消して南場に訊いた。
「南場、武器のほうは?」
「時間をかけて慎重に仕入れた。軍隊一個師団と渡り合える」
南場がスーツの内ポケットから写真を取り出した。不破がそれを受け取って見やった。思わず目を見張る。
「こいつは凄いな」
「費用は塩屋が出した。今の岡谷組の稼ぎ頭はあのオタク兄ちゃんでな。見込みのありそうなITベンチャー企業に投資して、何倍ものカネを手にしやがった。あいつは極道向きじゃねえと思ったもんだが、今じゃ凄腕のハッカー集団と組んで、なんかよくわかんねえけど大儲けしてんだよ」
南場がタバコをくわえた。隣の土居がライターで火をつける。南場は紫煙を鼻から吐き出した。
「仕入れたのは武器だけじゃねえ。塩屋に情報と証拠もかき集めさせた」
「すまない」
南場が眉間にシワを寄せた。
「……今度はおれも連れてくんだろうな」
「地獄を見るだけだぞ。少なくともシャバとは永遠におさらばだ」
「んなことは百も承知だ。このまま絶滅危惧種みてえにひっそり生きて、お上とカタギにいじめられながらこぢんまりと小商いに励んで生きろってか。もうたくさんだ」
南場は吸いかけのタバコをへし折った。苛立った様子で二本目をくわえる。
土居が再びタバコに火をつけてやりながら、不破にすがるような目を向ける。彼は指の欠けた右拳を掲げた。
「おれも忘れないでくださいよ。不破が刑務所にいる間に、絶縁覚悟でさっさとカタつけちまおうかと何度も思いました。今日までじっと我慢してきたんです」
不破は土居を見やった。
「ガキはどうすんだ。お前んところは中学生の娘さんに、小学五年の男の子だろう。子供にもっと肩身狭い思いさせんのか」
「か、関係ないでしょう!」
土居は痛いところをつかれたように視線をそらした。
車内の温度が急速に上がったような気がした。男たちの怒気が膨らみ、キナ臭い雰囲気に満ちていく。彼らが溜め込んでいた不満や怒りは想像以上だった。
「わかった」
不破は根負けしたようにうなずいた。
南場たちもまだまだ血を欲していた。だからこそ、塀のなかにいる不破の言いつけを忠実に守り、落とし前をつけるべく静かに動き続けたのだ。
「まずはへらへら笑え。セールスマン顔負けの営業スマイルを浮かべろ」
親指で建物を指さした。釜石が用を済ませてトイレから出て来る。
不破は率先して口角を上げてみせた。釜石がミニバンまで戻ってくるころには、男たちは怒気を消し去っていた。
全員が笑顔を作って親分の出所を改めて祝い、岡谷組の明るい未来について語り合った。