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2(承前)

 不破少年は慌てて眼帯をつけ直した。桐箱を風呂敷に包み直して近藤の後を追った。王英輝の執務室を出ると、事務所の社員たちが直立して近藤に頭を下げている。
「お疲れ様でした!」
 社員たちは近藤にきちんと挨拶をしながらも、不破少年を見る目は冷ややかだった。なかには露骨に睨みつけてくる者さえいる。王兄弟とのやりとりを盗み聞きしていたのは、なにも近藤だけではなさそうだった。彼らの視線に耐えて、『ブライトネス』の事務所を後にして通路に出る。
 近藤がエレベーターのボタンを押していた。ほどなくしてエレベーターのドアが開き、近藤がなかへと乗りこむ。他に乗降客はいない。
 不破少年は乗るのをためらった。この剣呑な空気をまとったヤクザと一緒に乗るには、社長室に居座るよりも勇気がいる。
 近藤が開閉ボタンを押したまま訊いてきた。
「どうした。乗るのか乗らないのか」
「の、乗っず。乗ります」
 不破少年は己を叱咤した。このヤクザ者と一緒に事務所を出てきた以上、近藤に身を預けるしかないのだ。
 ふたりを乗せたエレベーターが下へと降りた。腹をくくったつもりでいても、ひどい息苦しさを覚える。
 近藤は壁の案内板を指した。一階のところには『新宿ブライトボウル』と記されたプレートがある。
「翌朝の九時までに顔を出せ。詳しいことはそこの連中に訊くといい」
「わがりました」
 エレベーターが一階につき、近藤とともに『ブライトネスビル』を出た。
 正面に見える噴水広場は夜が更けても依然として人でごった返していた。ただそこでたむろしている連中もいるが、その多くがボウリングをやるために並んでいるとわかった。『新宿ブライトボウル』の前には長い行列ができている。すぐ傍には『新宿ミラノボウル』もあり、そちらも寒風にさらされながら長い列を作っていた。
 不破少年がいた地方の歓楽街にも、新設されたボウリング場があった。浴衣を着た温泉客が熱心に球を転がしていたものだが、不破少年にはなにが面白いのかが未だ理解できずにいる。とにかく、人気が異様にあるのはわかった。人手が足りないというのは本当なのかもしれない。
 近藤は噴水広場を離れてコマ劇場を北に歩き出した。不破少年は彼に礼を述べた。
「あの……ありがとうございます。近藤さんがいねがったら、今頃みんなに袋叩きにされでだべ」
「だろうな」
 近藤はニコリともしなかった。通りは混雑しているにもかかわらず、海を割って歩くモーゼみたいに道ができていた。近藤の凍てつくような視線と危うい存在感を感じ取り、カップルや酔っ払いが慌てたように端によける。
「ご苦労様です」「近藤さん」
 法被を着たキャバレーの客引きや、酒場の店員らしき蝶ネクタイの男が近藤に挨拶をする。
 コマ劇場を通り過ぎると、やはり映画館などが入った大きなビルがあり、その隣には交番があった。書類仕事をしていた警察官と目が合ってしまう。
 警察官は学生服姿の不破少年を不審そうに見つめる。近藤がそれに気づき、自分のツレだというように、警察官に向かって不破少年を親指で指した。警察官は何事もなかったように、再び書類仕事に取りかかった。近藤は警察官にも顔が利くようだ。
 交番からさらに北へ行くと、急に夜闇が濃くなった。芋を洗うように混雑する歓楽街の隣は巨大な病院の建物がある。
 近藤は病院の脇の道を進んだ。パチンコ店や雑居ビルなどは急に見当たらなくなる。飲食店すらほとんどない。電柱に貼られた街区表示板には西大久保と記されてあった。歌舞伎町とは思いのほか小さな場所で、そこにあらゆる遊技場や飲食店が密集しているのだと知った。
 西大久保に入ると明るく快活な気配がなくなり、日本家屋の怪しげな連れ込み宿が密集していた。何組かの男女が闇夜にまぎれるように建物内に消えていく。
 電柱や壁際に立ちんぼらしき女たちがおり、ひっそりと静かに立っていた。顔の化粧は総じて分厚く、赤々とした口紅が暗闇のなかでもやけに目立つ。彼女たちも近藤には挨拶を欠かさなかった。
 歓楽街の真昼のような明るさのせいで、闇が濃い場所に目がなかなか慣れてくれない。街灯はあるものの、ひどく寂しげに感じられる。
 近藤の背中を見やった。彼に訊きたいことは山ほどある。不破少年を救ってくれた恩人だが、近藤という名のヤクザだとしか知らない。
 王兄弟との会話で、自分と同じく王大偉の妾の子だと知った。それが本当ならば、不破少年にとって腹違いの兄にあたる。彼の母親も『モンマルトル』の関係者だったのだろうか。近藤も母のことを知っていたのか。妾の子でありながら、嫡流の王兄弟にもへりくだる様子を見せず、彼らに対して堂々と自分の意見を述べていた。一族からも一目置かれている証拠だ。どんなふうに生きれば、自分も近藤のようになれるのか……。
 いろいろ訊きたかったけれど、近藤がまともに答えてくれそうな気もしなかった。そもそも、不破少年を救い出してくれたのかもまだわからないのだ。
 疑念はますます膨らんでいく。やはり人気のない場所まで連れていき、二度と王一族に近づかぬようリンチを加える気ではないか。人を痛めつけるには最適といえる広い駐車場もある。それとも組事務所に連れていく気なのか。心臓の鼓動が速まり、荷物を握る手が汗でぐっしょりと濡れる。
 近藤は駐車場の隣にある二階建てのアパートへと向かった。金属製の外階段を上がる。
「ここは?」
 不破少年が訊くと、近藤が振り返った。
「おれの住処ヤサだ。明日からバリバリ働くんだ。こんな真冬に野宿アオカンして風邪でも引かれたら、おれが恥をかく。なにせ兄貴たちに意見までしたんだ」
「お、おれを泊めてけんのがっす」
 近藤は怪訝そうに眉をひそめた。
「どこに連れていかれると思ったんだ。『ブライトネス』の社員寮はいっぱいだ。空きが出るまで、おれの住処ヤサで過ごせ」
 近藤は二階の角部屋の前に立ってドアに鍵を挿した。
 不破少年は外階段を上りながらも、まだ警戒を解いてはいなかった。
 ヤクザの住処ヤサなのだ。そこには若い組員が何人も待機しており、不破少年を叩きのめす準備をしているかもしれない。もう安々と人を信じてはならない。アタッシェケースを振り回せるようにハンドルをしっかりと握り直す。
「帰ったぞ」
 近藤がドアを開けて部屋に入った。不破少年は腕に力をこめて後に続いた。
「お帰りなさい。早かったわね」
 若い女の声がした。ヤクザの住処ヤサにいる人間とは思えない澄んだ声だった。熱したアイロン独特の香りがする。
 部屋は二間だった。六畳の和室の真ん中で、若い女性が座りながらアイロンがけをしていた。男物のワイシャツのしわを伸ばしていた。目鼻立ちがくっきりとした美しい顔の女性で、肩までありそうな赤みがかった頭髪をゴムで縛っている。
 室内は反射式の大きな石油ストーブがあり、アイロンの熱と相まって室内は暑いくらいだ。女性は白いセーターのうえに使いこまれた赤い綿入れを着こんでおり、ぬいぐるみのようにもこもことしている。不破少年は思わず面食らう。
 一分の隙もなく洋装を着こなす近藤とはまるで対照的だ。ヤクザの女というより、ごく普通に会社で事務員でもしてそうに見える。自分と同じく田舎から出て来たような素朴な感じすらした。
 若い女はアイロンがけの手を止め、不破少年をまじまじと見つめた。
「珍しいお客さん。いつものヒロシとジロウじゃないのね。この子は?」
「おれの弟らしい」
「え、ええ?」
 若い女が目を丸くした。アイロンのスイッチを切って立ち上がった。アイロン台を慌てて片づける。
「渡世上の弟分……とかじゃなくて、血を分けた弟ってこと?」
「腹違いだがな」
 近藤がコートとスーツを脱ぎ、六畳間の隣の部屋に入っていた。寝室のようで敷布団の一部が見えた。
 不破少年は土間に立ったまま室内を見つめた。ヤクザの住処というからには、ダボシャツ姿の不潔な男たちが、四六時中酒をかっくらいながら麻雀などの博奕に精を出しているものと思っていた。
 じっさい、母と東北をさすらっているとき、土地の顔役からあてがわれた下宿屋の部屋の隣がヤクザたちのたまり場だった。
 麻雀の洗牌シーハイといった騒音が一晩も二晩も続いていた。夏などは暑さから逃がれるため、連中は部屋の引き戸も開けっぱなしにしていた。昼間は甲子園の野球賭博に熱を上げ、高校球児の一挙一動に興奮し、夜は麻雀や花札で夜通し騒いでいた。
 彼らの部屋の前には、店屋物の皿や丼が洗われずに積みっぱなしで、室内はゴミだらけで日本酒の一升瓶の空き瓶だけでなく、汚れた注射器なんかも転がっていた。絵に描いたような荒んだ暮らしを送っていたものだった。

 

(つづく)