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平成八年

 

 

2(承前)

 

 不破も四十を過ぎ、当時の歩美の気持ちがわかるようになった。

 近藤と歩美の一粒種である雄也には、ゴト師といった犯罪者集団のうろつくギャンブル場ではなく、野蛮な暴力などとは無縁なオフィスで安全な毎日を送ってほしかった。

 雄也の目の腫れを見るだけで心が痛んだ。同時に凶暴な怒りが腹のなかでのたうち回り、彼に一発浴びせたチンピラを探し出し、王一族の人間に手を出せば、人生がいとも簡単に崩壊すると教えてやりたかった。

 極道の夫と義弟を持った歩美は、ずっとこんな哀苦と憤怒を抱えて生きてきたのだろう。雄也の身を案ずる立場になり、ようやく彼女の苦悩がわかった気がした。

「二代目、どうしたんですか。暗い顔をして。今夜はあなたの祝いの場でもある」

 不破のもとに喜田村がやって来た。酒をたらふく飲んだらしく、顔がすっかり赤らんでいた。

「挨拶回りから戻ってきたばかりなんでね」

「アジア最大の歓楽街を仕切る岡谷組の二代目ともなれば、集まるご祝儀も相当な金額になるでしょうな。そこでちょっと相談がありましてね」

 喜田村は屈託もなくカネの話を切り出した。雄也がそれを潮に立ち上がって喜田村に椅子を勧める。

「喜田村さん、どうぞお座りください」

「おう、すまない。君の噂は聞いてるよ。ブライトネスの有望株だとね」

 雄也は照れたように笑いながら一礼し、不破たちのもとから去った。

 喜田村は国会議員の秘書とはいえ、十名を超える秘書軍団を束ねる大物政治家の金庫番だ。黒々と染めた頭髪に整髪料をたっぷりとつけ、精力的な印象を振りまいていた。ダブルのジャケットにロレックスという格好で、政治家の秘書というよりも金貸しや風俗店経営者のようだ。

「おおかたバブルのころのように、現金ゲンナマの山を想像してるんでしょうが、業界はバブル崩壊と暴対法のダブルパンチで青息吐息ですよ。金銀の水引がついた豪華絢爛な祝儀袋を開けてみたら、なかにはたった数万円しか入ってなかったなんて例もあったくらいで」

「またまた。知り合いのマル暴刑事は、今度の襲名披露で億単位のカネが入ったはずだと断言してましたよ」

「単刀直入に訊きますが、今回は何枚いるんです」

「話が早くて助かります。おそらく秋には総選挙がある。だから余計に今年はノルマがきつくてね」

 喜田村はヤクザ以上に煙たがれている男だった。口を開けばパーティ券の購入や機関紙の定期購読、後援会の勧誘や献金の要請など、押し売りのようにたかることしか頭にないからだ。

 彼はもともと百科事典の売れっ子セールスマンだったらしく、他人から口八丁でカネを巻き上げるのを得意としていた。杉若がその厚顔さに目をつけて秘書に引き抜いたという。

 喜田村にとって政治家秘書は天職だった。他人の顔色などまったく意に介さずにパーティー券を押しつけ、杉若とコネを持てば子供の受験や就職にも有利なるからとハッタリを利かせた。共産主義の脅威をあおって多くのカネを集めた。

 喜田村が指を二本立てた。

「まだ二百枚は残ってます。弱りましたよ。二代目の仰るとおり、どこも今は景気が悪い。おれが顔を見せただけで、後援会の社長たちは貧乏神が来たとばかりに顔をしかめる」

「その二百枚、すべてうちで買い取ります。名義はどうとでもなるでしょう」

「本当ですか?」

 喜田村が驚いたように目を剥いた。

「その代わり、ブライトネスへの売り込みは少し待ってくれませんか。杉若家とは三代にもなる長いつきあいだ。先生を粗略に扱うつもりはありませんが、ブライトネスも経営の立て直しで精いっぱいだ」

「二代目がブライトネスの分まで肩代わりしてくださると?」

「ほんの少しの間だけですよ。心賢の経営努力が実を結んで、負債も着実に減ってきた。会社が再び成長した暁には、昔以上に先生を支援するよう助言しておきます」

「兄や甥っ子のためにひと肌脱ぐわけですか。さすが義理人情を重んじる侠客だ。ありがたい。私としても大いに助かる。今度ばかりは杉若オヤジに恥をかかせるんじゃないかと、内心びくびくしていたところなんですよ」

 喜田村はすがるように両手で不破の右手を握りしめた。不破は心のなかで舌打ちした。

 ブライトネスがバブル崩壊で巨額の負債を抱え、いくつもの持ちビルを手放し、社用車のタイヤひとつ買い替えるのに難渋している時期があった。喜田村はそんなときですら平気な顔で現れては、一枚二万円のパーティ券を大量に売り込みにきたものだった。

 王一族は親台派の杉若の有力支援者であり続けた。しかし、王心賢自身は政治に対する関心は薄く、杉若への多額の企業献金やパーティ券の購入を苦々しく思っていたという。

 喜田村が持ち込むパーティ券のなかには、朝食会や平日の昼間に行う勉強会もある。タニマチの企業にチケットだけを買わせ、じっさいにはパーティを開きもせずにカネをすべて懐に入れているという噂もあるほどだ。ハイエナのような政治屋から一族を守るのも己の使命だと心得ていた。

 不破は椅子から立ち上がった。次に実兄を救わなければならない。そのために隣の円卓にいる尾崎へと近づいた。

 

 

 歌舞伎町の東通りはいつも以上に狭苦しかった。歩行者が多くて車が思うように進まない。

 本来なら西日が照りつける夕方の時間帯だというのに、本格的に梅雨の季節に入ったらしく、今日は朝からうっとうしい雨が降り続けていた。

 すでに街灯や店の看板には灯りがともっており、客引きや歩行者が傘を差していた。歩行者の傘が不破の車に当たりそうになるが、それが高級車のベントレー・ターボRだとわかると、歩行者は慌てて道路脇に飛びのいた。

 不破は腕時計に目を落とした。王大偉の形見の品だ。周りの目を釘づけにするような高級感こそないが、着けていると自分もまた彼の後継者なのだという自覚が湧いてくる。毎日ゼンマイを巻かなければならないが、その作業そのものが愛おしかった。時計の針は四時半を指し示していた。

 不破は隣の南場に呼びかけた。

「兄弟、歩いていくとするか。そっちのほうが早い」

「そうしよう。うー、いてえ。座ってるほうがつらいぜ」

 南場は顔をしかめながら腰を叩いた。

 彼は先月まで初代岡谷組の本部長として、毎日のように事務所に詰めて勤勉に働いた。机にかじりついて厄介な雑務をこなし続けるうちに、腰痛と痔ろうに悩まされるようになった。

 弟分にあたる不破を二代目として推したのは彼だった。二代目岡谷組体制が発足すると、彼は舎弟頭となって若い不破を支え続けてくれている。

 ドアを開けて車から降りようとした。助手席にいた組長秘書のこん啓介けいすけが慌てた様子で複数の傘を用意した。

不破オヤジ、ちょっと待ってください」

「傘なんかいらねえよ」

「傘はいらないとしても、このあたりはいろいろ物騒ですから」

 紺野は真剣な表情で答えて、ベントレーから降り立った。南場が苦笑する。

「どう見てもおれたちが一番物騒だろうがよ。ジョークのつもりなのかね」

「そう言うな。治安のいいエリアじゃないのは確かだ」

 紺野がすばやくあたりをチェックした。その目はやけに鋭い。

 彼の肩書は組長秘書だが、おもな仕事は不破の護衛だ。

 スーツ姿の客引きが低姿勢で挨拶をしに来たかと思えば、ミニスカートを穿いた街娼がさりげなく紺野から遠ざかっていく。

 紺野はすべての歯をダメにするほどトルエンに溺れていた小僧だったが、岡谷組の正式な組員になると荒事にも率先して加わり、周囲に実力を認められていった。かつてパキスタン人のクスリの密売人の拉致にも関与した。ケンカがとりわけ強いわけではないが、上海出身のりゆうまん三人を刺して刑務所暮らしを送るなど、行き腰のある若衆として認められていた。

 紺野がひどく警戒するのも無理はなかった。傘を差した歩行者たちが話す言葉は中国語だ。さっきの街娼もマレーシア人か中国人と思われた。今の歌舞伎町は中国人に乗っ取られたと訳知り顔で言う雑誌記者やジャーナリストもいる。

 不破は南場らとともに東通りを北に歩いた。雨の勢いは大したほどではなく、雨粒は生温かいくらいだった。

 右手に小さな路地が見えてきた。精力剤を売りにした品のない薬局と、ヤクザが経営しているポルノショップの間にあり、なぜかセンター街などと呼ばれていた。

 道の両側には古い木造建築物が並び、複雑に絡み合った電線が蜘蛛の巣のごとく無秩序に張り巡らされてある。小さなスタンドバーや焼き鳥屋、スナックなどが軒を連ねている。

 すでに営業を始めている赤ちょうちんの居酒屋があり、路地の水溜まりに灯りが照らされていた。映画『ブレードランナー』のような幻想的で混沌とした風景に見えなくもない。

 赤ちょうちんの居酒屋は、かつて『燕雲亭えんうんてい』という汚い北京料理店が入っており、もっぱら中国人の溜まり場として知られていた。歌舞伎町には燕雲亭に限らず、その手の料理店や賭場、クラブがいくつかあった。

 ひと昔前までは台湾人が大挙して歌舞伎町に進出してきたものだった。しかし、台湾の景気がずっと上向きだったのに加え、バブル崩壊によって日本の景気が悪くなり、女たちも台湾系流氓も徐々に故郷へ帰っていった。

 台湾人が去った後に流れ込んできたのが、大陸系の中国人だった。血縁や地縁をなによりも重んじる彼らは、北京系や上海系、福建系、東北系と地域ごとにグループを形成し、非合法のシノギにも手を出して存在感を露にしていった。

 中国人マフィアの存在が世に広く知られたのは二年前。舞台はその燕雲亭だった。この店はこぢんまりとした料理店を営みながら、三階にはいくつもの雀卓を設置するなど賭場としての顔を持っていた。むしろ、そちらのほうが本業だった。

 この料理店兼賭場に上海バンの構成員五名が、ナイフや包丁を手に乱入し、店員や客に問答無用で襲いかかった。店員と客はなます切りにされ、室内は血みどろと化したという。

 店員と客の二名がその場で息の根を止められ、店長は一命を取り留めたものの、手足や腹を数十か所も刺されたという。

 事件はマスコミの格好のネタとなった。上海幇が犯行に使用した凶器は、アウトドア用のシースナイフやスーパーで売っている文化包丁だったが、スポーツ紙や週刊誌はこぞって「凶器は青龍刀」と書き立て、中国人マフィアの凶悪さを喧伝した。

 犯行の動機は麻雀賭博をめぐってのつまらぬいざこざが原因だったらしいが、燕雲亭が北京料理店であったことから“上海幇対北京幇による仁義なき抗争”などという物語もこしらえられた。新宿で働く中国人労働者が急増しており、しかも事件現場は歌舞伎町のど真ん中とあって、中国人マフィアに対する幻想が急速に膨らんでいった。

 ヤクザは暴対法ですっかり牙を抜かれてナリを潜めているが、中国人マフィアは端金で青龍刀を振り回し、たった数万円で殺しや誘拐も厭わない飢えた狼のような連中なのだと。

 新宿署の尾崎もそんな情報を強固に信じる人間のひとりだ。かつてはうわばみのようにタダ酒を飲み干していたが、だいぶ年を重ねて弱くなったうえに高粱酒をガブガブとったせいで、昨夜はひどく酔っぱらっていた。

 ――二代目、あんたは歌舞伎町の王じゃねえのかい? 今や歌舞伎町で聞こえてくるのは中国語ばかりじゃないか。うちのカイシャでも、ヤクザよりりゆうまんのほうがなにをしでかすかわからねえと警戒してるぜ。中共政府の息がかかったスパイだというやつもいる。あんな輩どもをいつまでのさばらせておくんだ。不良外人に近藤カシラられた組じゃないか。いつまででかい顔させておくんだ。

 尾崎は場所柄も考えずに言いたい放題だった。台湾にルーツを持つ華僑や華人たちの集まりだというのに。

 ヤクザを法で雁字搦めにしておきながら、一体どの口で言いやがるのか。尾崎をシメてやりたいところだったが、不良警官にも三分の理はあり、中国人マフィアが数を増やしているのは事実ではあった。

 赤ちょうちんの酒場の斜め向かいに、中華料理店『翠苑すいえん』があった。同じ中華料理店といっても、王一族が利用する富貴菜館とはなにもかもが対照的だ。

 店舗の外壁はラッカースプレーの落書きだらけで、おまけに悪ガキが好みそうなステッカーや下品なピンクチラシがベタベタと貼られている。準備中を示す札が出入口のドアにかけられてあったが、店内には複数の人間がいるらしく、油で黒く汚れた換気扇が大量の煙を吐き出していた。

 不破はドアを開けて翡翠苑のなかに入った。羊肉とスパイス、ニンニクといった強烈な匂いがした。ボスの出身地に合わせて東北料理がメインのようだ。まだ開店前にもかかわらず、店主と思しき中年男が熱心に串焼きを何本も焼きながら、中華包丁で野菜を刻んでいる。

 店内は思ったよりも広く、カウンター席だけではなく、複数のテーブル席があった。

 東北幇ボスの任海狼レンハイランが四人掛けのテーブルをひとりで独占していた。隣のテーブルには三人の子分たちが控えている。

 任海狼は一見すると中国人マフィアの老板ボスには見えない。裏社会の人間というより、下北沢の古着屋の店員といった見た目で、木村拓哉のように頭髪を肩まで伸ばしていた。

 派手な銀製のバックルが特徴のベルトに濃い色のブルージーンズ、黄色いTシャツという格好で、手首には有名スポーツメーカーのリストバンドをつけていた。

 隣のテーブルに控えている子分も、ボスに影響されているのか、バスケのタンクトップにバンダナ、パーカーにキャップといったストリートファッションで着飾っている。強奪や転売で話題にもなったエア・ジョーダンを履いている若者もいた。

 任海狼はマフィア臭さを極力消しているようで、彫り物の類は見られない。サーフィンを趣味としているらしく、健康的に肌が焼けている。

「親分、お初にお目にかかります。こんな汚い店にお越しいただき恐縮しております。任海狼と言います。以後、お見知りおきください」

 任海狼はまっすぐに立ち上がり、両手をぴんと伸ばして頭を深々と下げた。日本での暮らしが長いせいか、格好も所作も日本人と変わらない。日本語にも訛りがない。

 任海狼と握手を交わした。同じテーブルに向き合い、不破の隣に南場が座った。護衛の紺野はカウンター席に腰かける。硬い表情を浮かべながら相手を見張る。

「こちらこそ急に時間を作ってもらって感謝している。もっと早く会いたかった」

「マスター、ビールと料理を」

 任海狼は店主に声をかけた。

 店主が瓶ビールとグラスを運んできた。子分たちが立ち上がって店主とともに料理を運ぶ。

 任海狼が不破に訊いた。

「苦手な食材はありませんか?」

「いや。どれも旨そうだ」

「汚い店ですが本場の味が楽しめるんです」

 運ばれてきたのは、もっぱら中国東北部の料理だった。スパイスで赤く染まった羊肉の串焼きや、ジャガイモを細切りにした冷菜、豆苗のニンニク炒めなどだ。ニンニクのいい香りがする。食事の相手が、腹のうちのわからぬ東北幇の頭目でなければ、素直に腹の虫が鳴っていたはずだ。

 任海狼はいわゆる残留孤児二世だった。父親が残留孤児だったらしく、八十年代前半に黒竜江省から両親や弟とともに帰国した。

 経済格差を利用して手っ取り早く稼ごうとする留学生崩れや不法滞在者と異なり、任海狼一派は日本にしっかりと根を下ろしている。彼自身も帰国と同時に日本国籍を取得し、豊原海彦とよはらうみひこという日本名を持っていた。隣のテーブルにいる子分たちも同様と思われた。互いに中国語でボソボソと囁き合っているが、日本語を正確に理解できる連中と思われた。

 任海狼がビール瓶を手にして不破たちのグラスにビールを丁寧に注いだ。不破たちはグラスを軽く合わせてビールを飲んだ。任海狼は手の甲で泡をぬぐった。

「冷めないうちにどうぞ」

 任海狼から料理を勧められたが、不破は掌を向けて本題に入った。東北幇の頭目と舌鼓を打つために来たわけではない。

「その前に話を済ませよう。そちらも落ち着かないだろう。こうして時間を作ってもらったのは他でもない」

 不破は紺野に視線を向けた。紺野は張りつめた顔でセカンドバッグのファスナーを開ける。

 任海狼たちの間に緊張が走った。彼は鋭い目で紺野を見やった。子分たちが衣服の裾をめくり、腹や腰にすばやく手を突っこむ。

 

 

(つづく)