序 平成二十二年春


 裁判長が主文後回しで判決文を読み上げたため、東京地裁一〇四号法廷は張りつめた空気に包まれた。
 同法廷は東京地裁のなかでも最大級の大きさだ。傍聴席は九十八席にもなり、席はびっしりと埋っている。
 傍聴希望者は八百人を超え、隣接された日比谷公園で行われた抽選の倍率は十一倍にも達していた。戦後史上もっとも凶悪と称された暴力団の首領の判決公判とあって、世間の関心の高さがうかがえた。
 暴力団が関与した事件の審理では、一般市民が参加する裁判員裁判から除外される場合が多い。今回も職業裁判官だけでの審理が進められていた。
 記者らは裁判長の言葉を聞き漏らすまいと必死でメモを取り、法廷画家はスケッチブックに鉛筆を走らせている。
 一般傍聴席も同様だった。記者クラブに加盟していない報道関係者やジャーナリストたちで占められ、裁判長の声に耳を傾けながらメモ帳と睨み合っていた。
 その一方、被告人の不破ふわ隆次りゆうじは、表情ひとつ変えずに裁判長を見つめていた。服装は愛用している高級ブランドのスウェットだ。ブランド名とロゴが大きく記された派手なもので、いかにもヤクザらしい格好であり、法廷だからといってなんの遠慮がいるかと、言外に主張しているようにも見える。
 不破は公判中、一度もスーツといったフォーマルな格好をしていない。裁判官の印象などまるで気にしていない様子だ。
 不破は関東の広域暴力団である天仁会てんじんかい義光よしみつ一家の傘下団体の組長だった。二代目岡谷おかや組がそれであり、“枝”と呼ばれる三次団体とはいえども、最盛期の構成員は約四百人に達した。池袋や新宿といった副都心を縄張りとする義光一家のなかでも、岡谷組の戦闘力と資金力は群を抜いていた。
 岡谷組の本拠地は新宿歌舞伎町にあり、いくつもの反社会的勢力が蠢くアジア最大級の歓楽街で、他の暴力団や外国人マフィアと熾烈な抗争を繰り広げてきた武闘派として知られていた。
 不破は往時に“歌舞伎町の王”と呼ばれた。ヤクザだけではなく、一般市民をも狙うようになってからは“歌舞伎町の狂王”と呼び名が変わった。
 不破に下されるのはおそらく死刑判決だ。しかし、不破はリラックスしたように背もたれに身体を預け、何度か首や肩を動かしては凝りをほぐす仕草を見せた。公判中は手錠も腰縄も外されている。
 彼は裁判長を退屈そうに見つめていたが、ときおり顔を傍聴席に向ける。
 不破と目が合った者の多くは、慌てたように視線をそらすか、蛇に睨まれた蛙のように身体を硬直させる。裏社会にも切り込むジャーナリストや、反骨心の塊な記者も例外ではない。彼の白濁した左目の瞳で見つめられると、心のなかをぶしつけに覗かれているような気分になるという。
 不破の母親は地方ドサ回りのストリッパーで、幼いころから全国各地を転々とした。
 不遇な少年時代を送ったらしく、土地土地の子供たちから酷いイジメを受け、東北の温泉地では石礫を顔に喰らい、左目の視力を完全に失っている。しかし、彼はおかげで見えないものまで見えるようになったとうそぶいている。
 それをヤクザ特有のハッタリや詐術と嘲笑う者は多い。己を大きく見せるための虚勢でしかないのかもしれないが、法廷内にいる人間が彼の青白い瞳に気圧されるか、不気味に思わずにはいられないのは事実だった。
 不破の左目は視力こそ失ったが、極道人生のなかではそれが迫力を生み、ヤクザ者同士の掛け合いや一般人への脅しに対して有効だったらしい。目は片方しか見えなかったが、喧嘩では無類の強さを誇り、警官隊に対しても平然と銃器で対抗し、特殊急襲部隊SATの狙撃班によって胸部を撃たれるまで、サブマシンガンをフルオートで打ち続けた。
 不破は約二ヶ月を警察病院で過ごし、回復に到ったと判断されると、殺人および銃刀法違反で逮捕された。その後は約七年を東京拘置所の檻の中で過ごしており、それだけ長期にわたって勾留され続ければ、精神が参って痩せ衰えるか、過食に走って肥えていくものだが、不破の体調はむしろシャバにいるときよりもよさそうだった。
 彼の弁護士によれば、拘置所で出される三度の食事をきれいに食べ、運動の時間ではジョギングに励み、独居房ではひたすら筋トレに勤しんでいたらしい。彼の両隣には屈強な刑務官がついているが、彼らに見劣りしない岩のような肉体を維持している。
 逮捕される前よりも体形は引き締まっており、ほどなく還暦を迎えようというのに、肌は不気味なほど張りがあり、右目の眼光は歌舞伎町に君臨していたころと変わらず鋭い。
 裁判長が老眼鏡をかけながら、朗々と判決文を読み上げている。
 被告人がいかに不遇な幼少期を送ったとはいえ、その後に起こした数々の凶悪犯罪は到底許されるはずはなく、身勝手で肥大化した欲望を満たすために罪もない一般市民や政治家を死に至らせた罪に対しては厳罰をもって――。
 不破がふいに口を開いた。
「ここらでいいだろう」
 ヤクザは総じて地声がでかい。不破の声はさらに大きく、法廷内に響き渡った。裁判長の言葉が途中で掻き消され、傍聴席がにわかにざわめきだす。
 裁判長が眉根をひそめた。老眼鏡のフレームに触れて、被告人席のほうを見た。
「なにがいいというのですか?」
「死刑なんだろ。能書きはたくさんだ。どうせなにもかも茶番だしな」
 裁判長が語気を強めた。
「ここはあなたが自由に発言していい場ではありません。これ以上発言すれば退廷を命じます」
「やってみなよ。王たるこのおれに、小役人ごときが調子に乗るな」
 裁判長の顔が朱に染まる。自分を落ち着かせるかのように深呼吸をしてから告げた。
「被告人に退廷を命じます」
 両脇の刑務官たちが不破の身体に触れようとした。それよりも早く、不破が先に椅子から立ち上がっていた。
 不破の動きは速かった。右の刑務官の顔面に肘打ちを見舞い、左の刑務官には肩で体当たりを喰らわせた。
 右の刑務官は鼻から血を噴き出して姿勢を崩し、左の刑務官は衝撃で柵を乗り越え、傍聴席にまで転がり落ちた。緊張感に満ちていた静寂は完全に消し飛び、あちこちから悲鳴があがった。裁判長は机の下に隠れ、検察官は出入口のドアへと駆ける。
「どいつもこいつも偽物だ」
 不破は声を張り上げて笑い、鼻血にまみれた刑務官の顔面に鉄拳を叩き込む。
 刑務官の血が被告人席や弁護人席にまで飛び散り、不破のスウェットも赤く染まった。法廷内の誰もが驚きながらも、なぜこの荒くれ者が狂王などと呼ばれたのかを思い知る。
 不破は足を振り上げると、履いていたサンダルを飛ばした。脱げたサンダルは裁判長の席に当たった。
「おれだけが本物だ。いいか、よく耳をかっぽじって聞いておけ。おれだけが本物なんだ! 本物の王だ!」
 不破の演説は、長くは続かなかった。
 法廷のドアが激しい音を立てて開き、法廷警備員が大勢なだれこんできた。一刻も早く取り押さえようと、洪水のように押し寄せる。
 不破は両腕を掲げた。胸を貸してやるといわんばかりに。法廷警備員が不破にタックルを仕掛け、六人がかりで不破を床に押し倒した。勢いのすさまじさに、被告人席の長椅子がひっくり返り、不破は手足を押さえられる。
「退廷、退廷させなさい」
 裁判長が机にしがみついて吠えた。
 頭突きを喰らった刑務官が、憤怒の表情で不破の腕をねじり上げて、後ろ手にして手錠をかける。
 刑務官は腰縄までつける余裕まではなかった。不破は法廷警備員と刑務官に両手両足を押さえられ、まるで神輿のように担ぎ上げられる。
 不破は額を切ったらしく、顔が血に染まっていた。
「この血こそ本物だ」
 裁きの場から連れ去られても、彼の笑い声が法廷にまで届いた。
 その日のメディアは、不破の獰猛な凶暴性で持ちきりとなった。彼が逮捕されてから九年もの月日が経ち、歌舞伎町を恐怖に陥れた二代目岡谷組の存在は忘れ去られようとしていた。
 今日の報道を知った歌舞伎町の住人たちは、嫌でも“狂王”を思い出す羽目となり、ある者は恐怖で身体を凍てつかせ、またある者は嫌悪で口を歪めた。

 

(つづく)