3(承前)
隣の南場が顔をしかめた。子分たち全員が武器を所持していた。自動拳銃まで持っているやつもいる。見た目こそ渋谷のチーマー崩れにしか見えないが、連中の本性を垣間見たような気がした。
新宿署の尾崎は、任海狼を日本に棲みついた癌と口を極めて罵った。カタギの若い優男風にすら見えるが、その半生は怒りと暴力にまみれていた。
任海狼は江戸川区にある残留孤児の一時入所施設で家族と過ごした。貧乏で日本語も話せなかった彼はイジメや差別の対象となり、己の身を守るために同じ境遇の仲間と“龍星軍”を結成。仲間の妹が暴走族に集団暴行されたのを機に激しい抗争を繰り広げた。
龍星軍の戦いは凄まじく、日本社会への憤怒をエネルギーとし、ためらいなく刃物で人を刺し、時には火炎瓶まで投げつけて江戸川区だけでなく、関東中の暴走族を次々に支配下に置いた。現在では江戸川区だけでなく、北区や八王子市などに支部があるという。
任海狼は龍星軍の結成メンバーのひとりで、十六歳で抗争に加わると、文化包丁で相手を次々に刺して白旗を上げさせた。
彼は降伏した相手全員の腕を鉄パイプでへし折ったうえで、ペニスにタバコの火を押しつけた。龍星軍を結成したときからヤクザ者として生きる覚悟を決めていたらしく、少年院に送られてからも更生することなく龍星軍の幹部となった。
自衛のために生まれた龍星軍は、やがて屈服させた暴走族とともにギャングと化した。中国人経営の店に対するみかじめ料の要求、パチンコの裏ロムの販売やゴト行為、不良外国人を使った車上荒らしや貴金属店への強盗など多岐にわたる。
任海狼は故郷の中国東北部の悪党とつるんで人身売買にも絡み、三十歳にして日本の東北幇の顔役となった。上海幇が歌舞伎町で暴れすぎて警察に追われると、入れ替わるように歌舞伎町に進出し、中国人クラブや非合法の雀荘を経営するようになった。
不破は紺野に呼びかけた。
「おれたちは初対面の仲だ。誤解を招くような行動をするな。ゆっくりと開けろ」
任海狼が柔和な顔つきに戻った。
「恐れ入ります。私たちはひどく臆病な人間の集まりなものですから。じつのところ、あの岡谷組の親分直々にいらっしゃると聞いて、朝からずっとびくびくしていたんですよ」
紺野がセカンドバッグから分厚い茶封筒を取り出した。不破はそれを受け取ってテーブルに置いた。茶封筒を任海狼のほうへと押しやる。
任海狼は怪訝そうに茶封筒を手に取った。中身を確かめる。なかには現金五百万円が入っている。
「こちらは?」
「そっちの賭場でツケ払いで遊んでいる客がいる。王英輝という実業家だ。そのツケを払いに来た」
「王英輝さんなら確かにうちの上得意ですが。しかし、あの方と親分さんとは……」
「実兄だよ。腹違いだがな」
「本当ですか……岡谷組とブライトネスが近しい関係にあるとは聞いてましたが」
任海狼が目を見開いた。
彼は不破と王英輝の関係を本当に知らなかったのだろう。岡谷組組長の実兄だとわかっていれば、鼻の骨が折れるまで暴行を加えたりはしなかったはずだ。
王英輝は昨夜も賭場に出入りしていた。恒例行事である弟の誕生会まですっぽかして。
マンション麻雀で最初こそ好調に勝っていたものの、その後はツキに見放されたように一人負けが続いた。ついには証拠もないまま対戦相手に難癖をつけ出した。コンビ打ちでイカサマをしていると。王英輝はコワモテの店員たちからその場で袋叩きに遭った。顔に何発も鉄拳を浴び、血の池ができるほど鼻血を流してノックアウトされて店から叩き出されたという。
不破は茶封筒を指した。
「兄のこれまでのツケと迷惑料を含めて五百万円。受け取ってもらえないだろうか」
「王英輝氏のツケといえば、たしか二百万円程度だったはず」
「もちろん条件がある。兄を賭場に出入りさせないでほしい。あの人は病気だ」
「そうでしたか……」
任海狼は茶封筒から百万円の束を抜き出し、パラパラとめくりながら言った。
「親分は不思議なことをしますね」
「どこが?」
「これまでいろんな暴走族と喧嘩をしました。先輩面したヤクザが出てきて、あれこれと因縁をふっかけられたものです」
「王英輝がおれの実兄だと知って驚いたかい」
「身構えましたよ。知らなかったとはいえ、親分のお兄さんをゴテゴテに痛めつけてしまった。どんなケジメをつけさせられるのかと」
「兄はまっとうなカタギだ。賭場を荒らすための鉄砲玉じゃない。岡谷組が放った刺客などと思われては困るし、これを火種にして揉める気もない。それを理解してもらいたくて時間を作ってもらった」
「わかりました。約束は厳守します。歌舞伎町はもちろんですが、うちがやってる都内各所の賭場に回状を回して、王英輝氏を出入禁止にするよう指示しておきます」
「話が早くて助かるよ」
任海狼は茶封筒を子分に渡した。子分たちは口々に中国語でなにかを言う。
任海狼がにこやかにビール瓶を手にした。不破のグラスに注ぐ。
「ご家族を大切に思ってらっしゃるのですね」
「ああ。一族全員を守ってやりたいと思ってる」
不破がビール瓶を受け取った。
任海狼のグラスに注ぎ返すフリを見せ、不破は笑顔を浮かべたままビール瓶を逆手で握りしめた。椅子からすばやく立ち上がり、任海狼の子分の頭をビール瓶で殴りつけた。重く鈍い音が鳴り響く。
武器を取り出させる暇を与えず、不破は右腕を振るって残りふたりの頭を殴打した。ビール瓶は砕けなかったが、ラベルが血痕でべっとりと汚れる。
子分三名は頭を抱えながらテーブルに突っ伏し、あるいは椅子から崩れ落ちてうずくまる。額を割られて床を血に染める者もいた。
不破の行動は南場や紺野も予期していなかったらしく、ふたりは石像のように硬直していた。任海狼もただ唖然とした様子だった。
不破は茶封筒を持った任海狼の子分を顎で指した。彼らの口調を真似て中国語で言った。
「岡谷組といっても大したことねえな。まるでビビってやがる」
ビール瓶を床に転がる別の子分に放った。
「例の法律が怖くて身動き取れねえのさ。ヤクザはマジで終わりだ」
不破が任海狼を冷ややかに見つめた。
「ヘタクソな中国語だが、聞こえなくはないだろう。よその国の言葉を必死に学んだのはお前らだけじゃないってことだ。おれの顔を立てておきながら、子分には好き放題に言わせておくんだな。あんたの教育がなっていないのか、それともこれがあんたの嘘偽りのない本音なのか?」
十五のころから中国語を少しずつ学んでいた。王大偉の三人の息子たちは全員が中国語を達者に操れ、不破だけがずっと話せずにいたからだ。近藤が亡くなってからは家庭教師を雇い、本格的に中国語を学び続けた。
紺野がセカンドバッグからリボルバーを抜き出した。中華包丁を手にした店主に拳銃を向ける。南場も羊肉の刺さった金属製の串を握ってうなる。
「下手に出りゃナメた口叩きやがって」
「本心を聞かせてくれよ」
不破は拳を脇の下に引き、いつでも正拳突きを打てる姿勢を取った。
任海狼は“包丁任”などと異名をつけられるほど、刃物を持ったケンカを得意としていた。今も刃物を所持しているかどうかは不明だが、返答次第では鉄拳を顔面に見舞うつもりだった。
不破は拳を握りしめた。彼の拳は日々の部位鍛錬で鉛色の拳ダコがいくつもでき、岩やサザエのような形になった。任海狼の目が不破の右拳に吸い寄せられる。
任海狼が小さく両手を上げた。忌々しそうに唇を曲げ、恨みがましそうに不破を見上げる。それが彼の本来の顔と思われた。
「もう聞いただろ。子分はあんたらをナメていたし、おれ自身もあんたらをクソナメてた」
不破は気合の声とともに殴りかかった。
任海狼の顔面めがけて正拳突きを放つ。任海狼は顎に力をこめて目を固くつむった。彼の長髪が拳の風圧でなびく。
不破の右拳は任海狼に触れる寸前で止まっていた。任海狼が頬を歪めながらゆっくりと目を開けた。その目は涙で潤んでいた。
「分をわきまえろ。さもなければ一匹残らず狩り殺す」
任海狼は赤い目で不破を見上げた。視線で射殺してやるといわんばかりの形相だ。
いっぱしの老板となっても、現状にはまったく満足などせず、憤怒を燃料にして生きている男のツラをしていた。不破にとっては好ましい展開だった。政治家のような腹の探り合いを長々とやるより、感情むき出しでぶつかりあうほうが性に合っている。
南場が椅子に座ったまま、床に倒れた任海狼の子分を蹴り上げた。子分はビール瓶を手にして立ち上がろうとしていた。南場に胃袋を蹴られて再び床を這いつくばる。
任海狼は低くうなった。茶封筒を指さす。
「カネは返さねえぞ」
「もちろんだ。ただし約束は守ってもらう。兄を借金漬けにしてブライトネスにまで食いこむ気だったんだろうが、おれの目の黒いうちは絶対に許さん。ブライトネスのパチンコホールやボウリング場で、お前らの姿を見かけたらさらって埋める。レストランやゲームセンターで見かけたらやっぱり埋める。理解したか」
不破が右拳を再び固めた。任海狼が根負けしたように視線をそらして答えた。
「……わかった」
不破は腕時計に目をやった。
「互いに忙しい身だ。手っ取り早く話がついてなによりだ」
不破は振り返って出入口へと歩んだ。南場と紺野たちに背中を守らせる。
翡翠苑を後にして雨のなかを歩いた。紺野が携帯電話で運転手に連絡を取り、車を大急ぎで回すように連絡した。紺野はバケツの水でも浴びたかのように汗でビッショリと濡れていた。セカンドバッグのなかの拳銃を握ったまま、ギラついた視線をあたりに向けている。
不破は南場に訊いた。
「どう思う?」
「よかったんじゃねえかな。料理囲んでヘラヘラ笑いながら話するより、よっぽど効果的だったんじゃねえか。うちを見る目も少しは変わるだろう」
「そうだといいが」
「あのサーファー兄ちゃんが相当な武勇伝の持ち主なのは知ってるけどよ、その一方でソロバンもきっちり弾けそうなタイプにも見えた。石国豪みたいな狂犬はそうそういねえよ」
「たまにいたじゃないか」
近藤の死に直面してから九年。その間にも、歌舞伎町にはいろんな人間が流れ込んできた。
親分にライフルを向けて地元にいられなくなった厄ネタの九州ヤクザ。イランイラク戦争の戦場で恐怖の感情が麻痺し、新宿中のヤクザ組織に戦いを挑んできたイラン人グループの首領。歌舞伎町の掟を理解しないまま来日し、安物の拳銃を持って岡谷組の事務所に押し込み強盗をしてきた元共産ゲリラのフィリピン人などだ。自分の命をも粗雑に扱う連中で、石国豪と似たような狂気をまとった男たちだった。そうした人間は岡谷組が積極的に捕えて処分した。
任海狼は生意気な中国人マフィアであり、自身も前科にまみれた凶悪犯だ。屈辱と貧苦にあえいだ十代のころの怒りを今も溜めこんでいる。しかし、血と暴力で築き上げた地位を投げ捨てる気もなさそうだった。岡谷組とぶつかれば警察も黙ってはおらず、上海幇のように散り散りになる運命は避けられない。気に食わぬ敵とも手を組む狡猾さを感じ取っていた。
不破は南場に告げた。
「王英輝のために横須賀の海辺に家を借りた。新宿にいたんじゃ、治るものも治らなくなる。家政婦も雇った。あたりにはパチンコ店もない静かな場所で、酒やギャンブルに嵌り過ぎた人間を診てくれる施設があるらしい」
「わかった。若い衆にそれとなく見張らせる。もしサーファー兄ちゃんが相変わらず王英輝にちょっかいを出すようなら――」
「消すさ。跡形がなくなるまで」
不破は電柱に向かって正拳突きを繰り出した。
右拳がコンクリート製の柱に衝突した。鈍器で殴りつけたような重い音が鳴り、路地を歩いていたホステスが目を丸くした。