8(承前)
部屋は猛獣が暴れたかのような有り様だった。赤々とついた電気ストーブは倒れ、畳の上は麻雀牌が散乱している。盛鉢や中華どんぶりがひっくり返り、リンゴや柿が転がっていた。部屋の真ん中には横倒しになったコタツがあった。ラシャ地の緑色の天板には銃弾による穴がふたつ開いている。
コタツの横には紺色の行動服を着た短髪の男が、頭から血を流したまま仰向けに倒れていた。側頭部に銃弾を浴びたらしく、顔面が血だらけだった。天板の陰には新井の情婦と思しき若い女がいた。ふかふかのナイトガウンを着ていたが、頭を抱えながらうつ伏せになってガタガタと身を震わせている。
標的の新井を探した。彼は部屋の隅におり、舎弟分の陰に隠れていた。セーター姿の舎弟分の鼻と胸は銃弾で穿たれており、すでに絶命しているのは明らかだった。新井は死体を抱きかかえて盾にしていた。クスリですっかりよれているとの情報だったが、目をランランと輝かせながら不破たちを睨みつけている。
「岡谷の者だな! こんな真似してどうなるかわかってんのか。鞭馬会と戦争する気か」
石国豪は首を少し傾げて狙いを新井に定めた。
七発入りのコルトは残りわずかなはずだ。新井の挑発を無視し、何度も自動拳銃を構え直す。死体が邪魔で命中させるのに苦慮しているようにも、ただ無邪気に射的を楽しんでいるだけのようにも見える。
新井が不破を指さした。
「岡谷んところの片目のクソガキだろうが! 覆面なんかしててもなんの意味もねえ。ひとつしかねえ目ん玉ですぐにバレるってんだよ。てめえみてえなハンパ者に、このおれが殺られるわけがねえ。てめえの右目も抉り出して、近藤に送りつけてやらあ」
新井はあたりに唾を飛ばして犬のように吠えた。
覚せい剤が効いているのか、絶望的な状況にもかかわらず臆した様子もなく前のめりに罵ってくる。
石国豪が新井に掌を向けた。
「静かにしろよ。近所迷惑だろう?」
「その訛り……台湾人か。岡谷のクソッタレが。よそ者なんかに頼りやがって。極道のやることか」
新井が歯を剥いた。
石国豪がコルトを発射した。くぐもった音の銃声がし、新井が盾にしていた舎弟分の額が砕けた。後ろにいた新井の顔に血や脳しょうが飛び散る。
「お前が笑わせるから外しちまったじゃねえか。極道がなんだって? 舎弟の陰なんかに隠れやがって。説得力がまるでねえ」
石国豪のコルトが弾切れを起こし、スライドが後退したままとなった。
新井がうめき声をあげながら舎弟分の股に手を伸ばした。コルトの弾切れを待っていたかのように舎弟分の死体を胸まで担ぎ上げる。往時よりも痩せ細ったとはいえ、新井の怪力は相変わらずのようだった。
不破が割って入ろうとした。しかし、石国豪は不破に弾切れのコルトを押しつけた。邪魔をするなと言わんばかりに。
「近藤! 出て来やがれ」
新井が吠えながら石国豪に死体を投げつけた。
数十キロにもなる屍がぶつかり、石国豪は面食らったように身体をよろめかせる。
新井はその隙を逃さなかった。ジャリジャリと小銭が擦れる音がした。彼はパンチの威力を増すために何枚もの硬貨を握りながら、石国豪の顔面めがけて右拳を振るった。肉を打つ音が鳴る。
しかし、顔面を叩かれたのは新井のほうだった。彼の顔が跳ね上がり、身体をぐらつかせる。手にしていた十円玉や百円玉がバラバラと畳のうえに散らばった。
石国豪が新井の拳を左手で受け流しながら、右の掌底を新井の顎に食らわせていた。カウンターをもろに浴び、新井の膝がガクリと落ちる。
石国豪はその隙を見逃さなかった。脇をしっかり締めたうえで左の肘打ちと右の掌底を新井の顔面に叩きこんだ。街のケンカ自慢の動きではなく、明らかに鍛錬を積んだ格闘家の打撃だった。肥満体型にもかかわらず、その素早さは軽量級のボクサーを思わせた。
新井の顔面が真っ赤になった。右目と鼻から出血させると、ベニヤ板で覆われた窓まで吹き飛んだ。クスリで一時的にパワーを得たとはいえ、石国豪の打撃で脳震盪を起こしたのか、虚ろな目をしたまま壁にもたれてずるずると崩れ落ちた。
石国豪は不破を向いて笑った。おもちゃを手にした子供みたいに目を輝かせている。彼は新井に躍りかかって馬乗りになると、一方的に殴打し始めた。
新井は両腕で頭をかばい、脚をバタつかせて逃れようとするものの、石国豪の重い体重にのしかかられて身動きが取れていない。
「ほれ、どうした。極道の意地とやらを見せろ」
新井が悲鳴をあげた。
石国豪が彼の右目に親指を突っ込んでいるのが見えた。「もう止めて!」と情婦が天板に隠れながら訴える。
不破は肌が粟立つのを感じた。襲撃は成功を収めた。新井はもう虫の息であって、石国豪はこの戦いの功労者だ。
新井が再び悲鳴をあげた。右目に親指をグリグリと抉られている。
石国豪の異常性に戦慄した。子供がトンボの羽や首を面白半分にむしり取るように、この男は人間を破壊するのを心から楽しんでいた。
石国豪は不破に背を向け、新井を拷問するのに没頭していた。情婦がさかんに止めろと訴えるが、耳を貸さずに今度は新井の左手を掴んだ。小指をへし折ろうとしている。不破は右手の登山ナイフを握り直した。
石国豪は人の姿をした疫病神だ。生かしておけば岡谷組や王一族にも災厄をもたらしかねない。不破は殺意を消しながら石国豪へと静かに歩み寄り、彼のうなじに狙いを定めた。
近藤の顔がちらついた。石国豪を刺し殺したうえで、新井側の人間に殺害されたと偽装しても、彼の目を欺けるとは思えなかった。いくら不破を弟としてかわいがってくれたとはいえ、組織の命令に逆らって客人を殺したとすれば、近藤はヤクザとしてのスジを通して、不破にケジメをつけさせるだろう。歩美や雄也とも会えなくなる。
近藤に殺されたとしても文句はいえない。王大偉の息子として生まれ、岡谷の盃を受けた者である以上、不破には一族や組を守る義務がある。それが己の使命だとも。
登山ナイフを突き出そうとしたときだった。右脚に鋭い激痛が走った。不破は思わずうめいた。
「なんだと」
新井の情婦が不破の脚に絡みついていた。
情婦は右手に持った果物ナイフを逆手で握り、不破の大腿部を深々と突き刺していた。作業服のズボンに赤いシミが広がる。
「もう止めて……もう止めて」
情婦の声はか細い。しかし、声とは裏腹にしがみつく力は異様に強かった。
情婦が果物ナイフを引き抜いた。その途端に小便が漏れたかのように大量の液体が右脚を伝っていく。情婦はなおも果物ナイフで不破の太腿を突こうとする。
「ふざけやがって!」
不破は情婦の右手首を掴んだ。
右手首を加減せずにひねり上げると、情婦は苦痛のうめき声をあげて果物ナイフを落とした。脚を振り上げて情婦を払いのけた。大腿部に激痛が走る。
情婦はコタツの天板に背中をぶつけ、畳のうえにうつ伏せに倒れ伏した。
石国豪が新井からすばやく離れた。音もなく移動すると、情婦の背後に回り込む。左手で情婦の頭髪を掴み、右手を顎にそえた。勢いをつけてひねり回す。それは止める間もないほどの速さだった。
木の枝が折れたような音がしたかと思うと、情婦の顎は天井のほうを向いた。石国豪が首の骨をへし折ったのだ。彼女は身体を痙攣させた。瞳孔がみるみる開いていき、命の火が消えていくのがわかった。
石国豪は情婦を放り捨てる。彼の覆面や作業服もすでに血みどろだった。新井を一方的に殴打して返り血にまみれている。
「修羅場じゃ男も女も関係ねえ。だから、みな殺しにするのが一番だと言ったんだ。殺意が芽生えたんならさっさと殺れよ。ためらってる場合じゃねえのさ」
石国豪は唇についた血を舐めた。不破に向かって口角を上げる。
不破は凍りついた。石国豪に意図を読まれていたのだ。石国豪の後ろに近づきながらも、近藤とその家族が頭に浮かび、ほんのわずか躊躇したことまで。
「こりゃ動脈までスッパリやられてるかもな。手遅れかもしれねえぞ」
石国豪が不破の太腿を見下ろした。
不破は畳のうえに座り込んだ。身体がやけに重くなって立っていられなくなったのだ。血に濡れた作業ズボンが肌にピッタリと貼りつく。
慌てて止血法を試みた。太腿の傷口のうえから手ぬぐいをきつく押し当てる。しかし、手ぬぐいでは間に合わず、瞬く間に血液でぐっしょりと濡れそぼった。石国豪の言うとおり大腿動脈まで傷ついている可能性が高かった。血は動脈の血液特有の鮮やかな赤色だった。
不破は作業服を脱いで袖で傷口を縛った。新宿界隈で稼業に精を出していれば、流血沙汰はしょっちゅうで自分や他人の傷の応急手当をしてきた。それゆえにわかった。これは生命に関わる出血量だ。
「遊べる野郎だと聞いてたが、大したことねえな」
石国豪が登山ナイフで新井の腹をめった刺しにした。新井はすでに瀕死状態にあり、ろくに防ごうともせずに刃を急所に食らっていた。
不破の右目に汗が入りこんだ。出血性ショックの症状が現れつつある。冷汗が出て心拍数も速い。身体が急速にだるくなるうえに視界がぐにゃりと歪む。
傍には情婦の死体があった。彼女の死体に脚を乗せる。出血を少しでも抑えるため、傷口を心臓より高い位置に上げる。片脚を持ち上げるだけでもかなりの体力を使わなければならなかった。
血まみれの石国豪が不破に歩み寄った。
「ざまあねえな。せっかくアドバイスまでやったのによ。殺したかったら、グズグズしてねえですぐやれ」
「あんたは厄ネタだ。生かしておくわけにはいかなかった」
「不思議だよな。しょっちゅう言われんだよ。こんな素直なナイスガイだってのに」
石国豪が膝立ちになった。彼は不破の覆面を剥ぎ取ると登山ナイフを掲げた。彼の盛り上がった股間が目に入る。
「ド変態が」
石国豪は薄笑いを浮かべるだけだった。いくら罵ったところでカエルのツラに小便だ。
不破はため息をついた。この疫病神を殺せなかったのは残念だったが、これだけのドジを踏んだからには近藤に会わせる顔もない。
一階の玄関のほうで物音がした。引き戸が静かに開かれる音だ。外で見張りをしていた南場がしびれを切らして入ってきたようだった。二階に向かって控えめに声をかけてくる。
「おい、おい。大丈夫か。生きてるか」
石国豪が目を見開いた。不破の顔面めがけて登山ナイフを振り下ろす。
登山ナイフの風圧を頬に感じた。ドスっという重い衝撃音がしたものの、顔に痛みを感じなかった。登山ナイフは不破の頬の傍に突き刺さった。
不破は石国豪に目をやった。相変わらず気味の悪い笑みを湛えたままだ。ふいに少年時代を思い出す。よそ者の不破を肥溜めに放り込んで喜んでいた悪ガキどもと同じ表情だ。
「どういうつもりだ」
不破は言葉を発するのがやっとだった。石国豪に鼻を指で弾かれた。
「近藤の弟だろう。ここで救っておいたほうが、兄貴にもっと恩を売れるからな」
「殺せ……おれを殺せ」
呼吸が勝手に速くなった。声すらまともに出ない。
石国豪は不破の右脇と両膝に腕を伸ばすと、重量のある不破の身体をなんなく持ち上げた。
石国豪が修羅場を後にした。不破を抱えながら暗い階段を下りていく。
目が霞んでいく。本当はもうとっくに死んでいて、幽霊のようにさまよっているかのようだ。南場の声がかろうじて耳に届いたが、なにを言っているのかはわからない。
不破の視界が真っ暗になった。このままあの世に逝かせてほしいと祈りながら意識を失った。