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3(承前)


 不破少年の腹にボウリングのボールがまともに当たった。漬物石みたいに重い16ポンドのボールが砲弾と化して腹に衝突する。倒れるのを拒んでいた不破少年だったが、ボールの威力に負けて尻から倒れこんだ。中年男がボールを近くから投げつけてきたのだ。
 暴力には慣れていたつもりだが、これほどきつい一撃は左目を失ったとき以来だ。腹いっぱいに苦痛が広がっていき、胸に燃えるような痛みが走る。肋骨が折れたかもしれない。
 不破少年の右目が涙で潤む。エビのように身体を丸めて耐えるしかなかった。立ち上がることさえできない。麻里が顔を青ざめさせて近寄ろうとするが、手を小さく振って彼女を遠ざけた。やれるのはそれぐらいだけだ。
 中年男を見上げた。やつはトレイから二つ目のボールを手にした。重量のあるボールをお手玉のようにポンポンと弾ませる。とてつもない腕力の持ち主だ。
 中年男が蛇革の靴でアプローチに上がった。
「ガキってのは痛々しいもんだ。てめえ中心に地球が回ると思いこむ。下郎であるおれたちをカッコよく痛めつけて、ここから叩き出しちゃ、そこの姉ちゃんに熱いキスでもされてヒーローになるもんだと妄想する。そうはならねえと教えておいてやる」
 中年男が不破少年の傍で立ち止まった。ボールを両手で高く掲げる。
「こいつは勉強代だ。くれてやるよ」
 不破少年は息を詰まらせた。こんなところで死ぬというのか。全身が勝手に震えだし、血と涙で中年男の顔もよく見えない。
「止めて!」
 麻里が中年男に背中からしがみついた。
 中年男はボールを片手で持ったまま、ハエでも追い払うように片腕を振った。麻里に平手打ちを喰らわせたのだろう。肉を打つ甲高い音がし、彼女がアプローチに尻もちをついた。
「この下種野郎……」
 不破少年は中年男へ手を伸ばした。届かない。腹や胸の激痛が引かず、手足が鉛のように重かった。
 中年男が再びボールを掲げた。不破少年は手の甲で目をぬぐって中年男を睨みつけた。それが彼のできる唯一の抵抗だった。
 中年男がボールを投げつけた。だが、不破少年にではなかった。
 近藤が風のように駆けつけ、中年男は彼めがけてボールを放っていた。
 近藤が身体をひねってボールをかわした。ボールは凄まじい勢いでプラスチック製のベンチを砕く。
まさ
 近藤が中年男へと飛びついた。
 ネコ科の動物のごとく高々と飛翔して飛び蹴りを見舞った。チンピラたちを一撃で葬る鋭い蹴りで、正雄と呼ばれた中年男は両腕で顔を守ったものの、衝撃によって数メートルほど後退させられた。ファールラインを越え、レーンまで後ろに下がらされた。
 中年男のワイシャツの袖ボタンが弾け飛んだ。しかし、やつは近藤の飛び蹴りを防ぎきっていた。両腕を軽く振ってレーンを悠然と歩いて戻る。
「あーあ、ワイシャツだけじゃなく、お気に入りの革靴まで油まみれだ。近藤ちゃん、どうしてくれんだよ」
「どうもこうもない」
 近藤は中年男に上段蹴りを放った。
 中年男の顔面に当たる寸前でピタリと止める。近藤のフォームは相変わらず美しい。不破少年も公園でひそかに蹴りを真似して練習しているが、身体が硬いせいか、なにかコツがいるのか、てんで足が上がらなかった。
 美しいだけでなく力強さもこもっていたが、中年男も蹴りを読んでいたのか、驚く素振りすら見せずに鼻を鳴らすだけだった。この男もただ者ではない。
 近藤はゆっくりと足を下ろした。
「鞭馬会の本部長であるあら正雄さんともあろう者がが率先して嫌がらせとはな。今夜はとっとと消えろ。やることはやっただろう」
 近藤は新井を冷ややかに見つめた。
 新井が近藤に顔を近づけた。額がぶつかり合いそうなほどの距離まで迫る。
「そうしてやってもいいぜ。のろまな警察官ポリもボチボチやって来るからな」
 南場と徳山が後から走ってきた。
「兄貴っ」
 ふたりともおっとり刀で駆けつけたようで、肌着のうえに汚れたジャンパーや作業着を羽織っていた。常にサングラスを欠かさない南場も今はつぶらな瞳を露わにし、腹に白木の鞘のドスをしまっていた。ふたりはボウリング場の惨状を目にし、顔を汗まみれにしながら歯を剥いた。
「隆次!」
 南場が不破少年に駆け寄ってくれた。
 彼は下駄履きのままアプローチに上がった。ボウリングシューズに履き替えてほしかったが、今は心配してくれるだけで嬉しい。
「この野郎……こんな年端もいかねえガキ相手に」
 南場がドスを抜きはらった。徳山も作業着から折り畳みナイフを取り出す。
「やめておけ」
 近藤が舎弟ふたりを諫めた。だが、ふたりは新井に刃を向けたままだ。
「兄貴は戻っててください。おれらだけで懲役行きます。きっちりカタつけますから」
「よさねえか!」
 近藤が声を張り上げて叱り飛ばした。
 南場たちは引こうとせず、近藤に食ってかかる。南場が目を涙で潤ませながら吠えた。
「なんでです! このゴロツキどもにさんざん縄張りシマ荒らされて、カタギばかりか弟さんまでこんな目に遭わされたのに、芋引けっていうんですか」
 新井がせせら笑ってワイシャツの胸をはだけてみせた。
 桜吹雪の和彫りに混じり、富士山を思わせる山の形をした紋章が胸部の中央に彫られてあった。鞭馬会の上部団体である錦城連合の代紋らしい。
「この土地じゃちょいといい顔だけあって、バカな舎弟どもと違って立場ってもんをよく理解してるようだな。おれをブスリとやりゃ、錦城連合五千人の兵隊が津波のように押し寄せるだろうぜ」
「ああ。岡谷オヤジからも極力揉めるなと厳命されてる」
 近藤が淡々と答えた。南場たちが愕然とした表情に変わる。
 不破少年も同じだった。近藤の横顔を凝視する。
 極道の事情などわかりやしない。だが、あの強い近藤でさえもこれほどの理不尽に屈するのかと衝撃を受ける。
 新井が足を上げて革靴の底に目を落とした。
「自慢のローファーがオイルでヌルヌルだわ。これじゃやたら滑って帰るに帰れねえ」
 近藤は背広のポケットからハンカチを取り出した。
 それは歩美が丁寧にアイロンをかけていた舶来品だ。にもかかわらず、近藤はそれを新井に差し出した。
 新井はハンカチで革靴のオイルをぞんざいに拭い取った。ハンカチを床に放り捨て、痛みに苦しむ手下たちに命じた。
「てめえら、いつまで寝てやがんだ。今夜のところはこれで帰ってやるぞ。相手さんは自分が無力だってことを恥ずかし気もなく認めてやがる。こうもへりくだられちゃ聞いてやるのがスジってもんだ。弱いもんいじめは男を下げるからな」
 チンピラたちがヨロヨロと立ち上がった。ピンにまで頭を突っ込ませていた坊主頭も、口から血を滴らせながらレーンを這って戻って来る。
 痛手をこうむったチンピラたちが、不破少年を鬼の形相で睨みつけてきた。不破少年も歯を食いしばって睨み返す。
 近藤が駆けつけてくれなければ、新井は不破少年の頭にボールを投げつけていたはずだ。
 新井はハッタリではなく、本気の殺意を迸らせていた。そんな男が大組織の威光までちらつかせれば、たとえ近藤であっても尻尾を巻いて戦いを避けるものなのか。不破少年は歯を食いしばりながら床に落ちた油まみれのハンカチを見つめた。
 新井が麻里にウインクする。
「また近々寄らせてもらうぜ。そのときは手取り足取りコーチしてくれや」
 麻里はアプローチにへたりこんだまま、悔し涙を流しながらタオルを投げつけた。タオルは新井まで届かず、彼の足元に落ちるだけだった。
 アプローチから下りる新井に、近藤が振り返って声をかけた。
「近々寄れる日など来やしないさ。おれはへりくだってもいない」
「あん?」
「単に事実を口にしただけだ。次のご来店には最低でも五年はかかる」
 新井の顔から余裕が消え失せた。
「てめえ、まさか……」
「おれは親切心で消えろと言ったんだ。早く旅支度を済ませておけとな。知らない仲じゃねえから教えといてやる。四谷署は今夜、逮捕状フダ捜索差押許可ガザ状を取った。早朝に事務所と住処ヤサに押し込む気でいるそうだ。お前だけじゃない。村上会長と副会長の身柄ガラも押さえる気でいる」
「デタラメこいてんじゃねえぞ! なんで会長まで逮捕パクられなきゃならねえ」
 新井が血相を変え、近藤に向かって手を伸ばした。近藤はその手を払いのけた。
「容疑は二か月前、お前と副会長が新入りにたんと木刀背負わせて全治三週間のケガをさせたからだそうだ。会長にちゃんと教育しとけと言われてやったそうじゃないか」
「なんで警察サツやお前らがそれを……」
「その新入りが組から逃げて、被害届を出したからに決まってるだろう。身から出た錆だな。大手の傘下に加われて浮かれるあまり、新入りの素性もロクに調べなかったからだ。仮釈放カリシヤクの身で弁当持ちのくせに大暴れしたのが裏目に出たな」
「あの新入り……てめえんところの人間だな! 警察サツともグルになりやがって」
「少しばかり知恵を働かせたまでだ」
 近藤が微笑んだ。ボウリング場に現れてから、彼は初めて笑ってみせた。
 不破少年にはまだうまく事情が理解できない。しかし、勝ち誇っていた新井が一転して土俵際へと追いこまれたのはわかった。南場と徳山が武器をしまう。
 近藤が三週間前に言った言葉を思い出した――連中とのいざこざもじきにケリがつく。あれは気休めでもその場しのぎでもなかったのだ。
新宿ジユクの片隅でネチョネチョやってりゃいいものを、調子に乗って好き放題暴れやがって。王大偉を始めとして、ここらの顔役たちはすでにカンカンだよ。おれたち以上にお前らに対してな。カタギさんを本気で怒らせれば、おれたちはたちまち干上がっちまう。錦城のバッジなんぞもらって、その原則さえ忘れちまったようだな」
「うるせえ!」
 新井が右拳を振り回した。
 いかにも重たそうなパンチだったが、近藤は予期していたかのように後ろへ下がってパンチをかわした。軽やかにステップを踏みながら笑う。
「ここが気に入ったようだな。シャバでのごくわずかな時間を女や酒じゃなく、ボウリングに費やすのも悪くない。やり方ならおれが教えてやる」
「ちくしょうが」
 新井は踵を返した。
 もはや近藤の相手をしている場合ではないといわんばかりに早足でボウリング場から出て行こうとした。舎弟のチンピラたちが足をよろつかせながらついていく。
「兄貴、ま、待ってくださいよ」
 やじ馬と化した客が新井たちを遠巻きに見物していたが、新井の怒気を恐れてちりぢりになる。
「正雄、話は終わってねえぞ」
 近藤が声を張り上げた。新井がボウリング場の出入口の扉に手をかけたときだった。新井が憤怒の表情で振り返る。
 近藤が指でピストルの形を作った。
「もう一度やってみろ。今度は殺す」
 新井は扉を蹴飛ばしてボウリング場から姿を消した。舎弟たちも悔しまぎれに唾を吐いて出て行く。

 

(つづく)