2
酔いがだいぶ回っていた。
不破はワイシャツの第一ボタンを外して車のシートにもたれた。酒は強いほうだったが、六年ぶりの飲酒は身体に応えた。
義光一家の本部は赤坂にあり、そこの広間で不破の出所祝いが華々しく執り行われた。
参加者は同一家の親分衆だけでなく、上部団体である天仁会トップの桐山勝雄までがわざわざ顔を見せた。東日本のヤクザ界の頂点であり、“天皇”とまでいわれる老人が、不破に労いの言葉をかけたこともあって宴は異様な盛り上がりを見せた。
二次会は釜石が情婦にやらせている赤坂の日本料理店だった。老齢の親分たちを除いて、ほとんどの者が参加して、先輩ヤクザたちがお銚子を手にして不破に酌をしに来た。
悪名高い中国人マフィアを文字通り叩きのめしたのは、閉塞感の漂うヤクザ社会ではよほどのインパクトがあったらしく、もう六年前のことだというのに、不破はさんざん英雄扱いされて持ち上げられた。
不破を乗せたミニバンは赤坂を北西に走り、新大久保の職安通りへと至った。
車は歌舞伎町にある岡谷組事務所に向かっていた。義光一家での出所祝いを終えてから、不破の城である岡谷組に寄って顔を見せる予定だった。事務所には親分の帰りを待つ子分や舎弟たちが集まっている。
「停めてくれ」
不破は運転手の宇佐美に命じた。車は韓国食材店の前で停止した。
「どうかしましたか」
前列の土居が振り返った。
「少し飲み過ぎた。夜風に当たりながら事務所に行く。お前らは先に行ってろ」
土居と南場が顔を見合わせた。ふたりとも表情に当惑の色が表れていた。
不破は鼻で笑った。
「心配か?」
「そりゃな。この街の王のツラを知らねえ田舎者や酔っ払いがうようよしてる」
南場が先に降車した。最後列の不破が後に続いて、路肩に降り立つ。
不破は深呼吸をした。タバコの煙と豚肉の焼ける匂い、キムチやゴマ油の香りがした。昔から国際色の豊かな土地だったが、韓国料理店の数が一段と増えたようだった。日本語の看板に交じって、あちこちでハングル文字も目に入る。今年の日韓ワールドカップでは、韓国代表が大活躍したこともあり、このあたりは赤いユニフォームを着たコリアンでいっぱいになったという。
南場ひとりを連れて歩いた。職安通りの横断歩道を渡って北へと向かう。組事務所とは正反対の方角だったが、南場はなにも言おうとはしなかった。
やがて百人町の四階建てのマンションが見えてきた。そこはかつて近藤が暮らしていた住処だ。彼が存命だったときは、まるで自宅のように出入りしていた。あのころに比べて建物はいくらか古びて、外壁のところどころに黒いシミが浮かび、バルコニーの鉄柵は茶色く錆びていた。
不破は最上階の奥の部屋を見上げた。午前中から長時間にわたって酒を食らったが、まだ夜の八時を回ったところだ。部屋はすべてカーテンで覆われており、なかの様子はうかがえない。ただ部屋の灯りはついていた。
南場の腕を肘で突いた。
「あの人はまだ住んでるのか?」
「ああ。雄也に線香でも上げに行くのか?」
「まさか」
不破は顔をしかめた。行き交うカップルがそそくさと通り過ぎる。彼は手を振った。
「……行けるはずがない。南場は?」
「おれもさ。月命日にこそこそと霊園に行くくらいだ。姐さんがおれたちを見ずに済むよう日没あたりを狙ってな。雄也の三回忌や七回忌にも参列できなかった」
雄也は父親の近藤とともに豊島区の霊園で眠りについている。南場がタバコをくわえて火をつけた。
「今はもう元気を取り戻してるらしい。この近くで小さなアクセサリーショップを開いたのも聞いてるだろう」
「まあな……」
「挨拶……して行かねえか? せっかくここまで来たんだ」
「なに言ってんだ」
不破は鼻で笑った。
南場の顔は真剣だった。すがるような目で見上げてくる。酔っぱらっていないのは長年のつきあいでわかった。
南場の気持ちは痛いほどわかった。不破も同じ考えを抱きながら足を延ばしたのだ。ふたりにとってあの部屋が“家”だった。近藤一家が家の温もりを教えてくれた。
歩美は不破たちをおそらく温かく迎えるだろう。キッチンに立ってフライパンを温める歩美の姿が目に浮かぶ。バターとケチャップの匂いまで嗅いだような気になる。
近藤夫妻とダイニングで酒杯を重ね、雄也も交えてトランプやテレビゲームに興じた記憶が押し寄せてくる。南場の申し出に思わずうなずきそうになる。
不破は肩を落とした。
「会えるはずないだろう。おれたちは疫病神だ。違うか?」
思わぬ懐古や感傷が、不破たちの信念を捻じ曲げようとしている。久しぶりに酒を飲み過ぎたせいかもしれない。
「……だよな」
南場も我に返ったように目を伏せた。
歩美に会う資格などありはしなかった。彼女のためなら身体を張ると誓いながら、彼女の願いをことごとくはねつけてきた。ヤクザから足を洗えないか、せめて流血沙汰は避けられないか――彼女から哀願されても拒み続けた。
不破は彼女の部屋を見上げながら掌を合わせた。そうせずにいられなかった。最愛の息子まで理不尽に亡くし、一年ほどは入退院を繰り返す生活を送ったという。夫と息子の死をやっと乗り越え、生きる目的を持てたというのに、不破はまたも彼女の意に沿わぬ行動に出ようとしていた。
「すみません……すみません」
謝罪の言葉を口にしながら、しばらく頭を垂れ続けた。南場はもうなにも言おうとはしなかった。
不破は“家”に向かって頭を下げてから踵を返した。子分たちが待つ組事務所へと歩む。歌舞伎町方面へと向かいながら、ケータイで電話をかけた。
呼び出し音がしばらく鳴ってから相手が出た。ブライトネスの現社長である王心賢だ。
〈叔父さん……〉
「久しぶりだな。今日になってシャバに出たところだ」
〈お勤め、ご苦労さまでした〉
王心賢の声はよそよそしかった。
かつては不破を叔父として慕ってくれた時期もあった。しかし、今は反社会的勢力を警戒する企業経営者の態度だ。
〈出所されたことは聞いておりました。横須賀にいる父が今週末にお祝いをしたいと企画しているとか。立場上、私は参加できませんが〉
「どうしてだ。会社に尽くした叔父を差し置いて、それ以外に大切な用事があるのか?」
不破は問い詰めながら大久保通りの横断歩道を渡った。王心賢も冷静な口調を崩さなかった。
〈叔父さんには感謝しています。ですが、ブライトネスは本格的に生まれ変わりました。暴力団とは完全に決別し、子会社の平社員に至るまで、交流は一切認めないと厳命してきたんです。副社長の智文叔父にもね。トップである私がそれを厳守しないわけにはいかないでしょう〉
「いや、お前はおれと会うさ。会わなきゃならない理由が山ほどある。杉若代議士の後ろ暗い政治資金ひとつ取ってもな」
ブライトネスと杉若家は数十年にわたって深い関係にあり、王心賢は経営が苦しいなかでも、ずっと杉若を支え続けてきた。
与党自政党や政治資金団体を通じて杉若個人へと流れる迂回献金から、他人名義による政治献金や政治資金パーティ券の購入も当たり前のようにやってきた。ブライトネスはそれらのダーティな資金集めに手を貸していた。
王心賢が露骨にため息をついた。
〈あれほどブライトネスの盾となってくれた叔父さんが、今度はうちに対してゆすりたかりの真似をしようというのですか。叔父さんが不在の間に岡谷組が規模縮小を余儀なくされたとは聞いていますが、まさかそれほど苦境に追い込まれているとは〉
「好きに解釈するといい。しょせんヤクザだ」
〈そのヤクザの神通力が通じる時代じゃないのですよ。うちの店舗に銃弾でも撃ち込みますか。たしかに客や社員が怯えて、短期的なダメージを与えられるかもしれない。しかし、そちらはどうなりますか。叔父さんは再び塀のなかに押しやられ、組は壊滅の憂き目に遭うでしょう〉
「やり方はいろいろある。銃器やトラックなんか使わなくともな。マスコミにリークするやり方もあれば、今時らしくネットの掲示板に書き殴ってもいい」
〈がっかりさせないでください。新宿の独眼竜が、カタカタとキーボードを叩いて誹謗中傷ですか〉
「いろんなやり方があると言いたいだけだ」
〈それもお勧めできませんね。杉若先生は大臣経験者で党の重要ポストを歴任した大物です。あの尾崎さんも今や先生で、私が彼の後援会長だ。警視庁とは太いパイプができましたし、屈強な警察OBを幹部や正社員として迎えています。つまらない嫌がらせをするたびに、叔父さんは残り少ないシノギや組員を失っていくだけで――〉
「こんな方法もある」
不破は王心賢の言葉を遮って提案した。
「お前の体毛や爪、洟をかんだティッシュ、使用済みのコンドームをかき集める」
王心賢の息を呑む音がした。彼は饒舌だったが、一転して沈黙した。
不破はさらに南下して職安通りの横断歩道を渡った。自分の庭である歓楽街に足を踏み入れると、キャッチと思しきラフな格好の中年男たちから次々に頭を下げられた。長髪のホストやヒョウ柄のワンピースのホステスが脇に退いて道を譲る。
不破は冷静な口調を心掛けた。
「任海狼は最期に口を割ってたんだよ。お前の名前を出した」
王心賢は依然として黙っていた。電話自体は通じているらしく、かろうじて彼の息遣いが耳に届く。
不破はケータイを握りしめた。
「おれは容易に信じたりはしなかった。会社を守るためならおれにも毅然と意見するお前が、札つきの中国人マフィアにこっそりと殺しの依頼なんかを持ちかけるはずがないと。それこそ悪党に会社を食い物にされかねない。おれの知る王心賢はそんな愚か者ではない。それに、雄也はおれたちの大切な身内だ。パチンコ店の売上をアップさせた東大出のエリートとはいえ、まだまだ尻の青い小僧でしかなかった。お前の地位を脅かすような男でもなく、あいつ自身もそんな野心はこれっぽっちもなかった」
〈……さっきからなんの話をしてるんです。刑務所に長くいたせいで妄想癖が出て来たんじゃありませんか?〉
王心賢が軽い口調で返してきた。しかし、その声は震えている。
「妄想であってくれたほうがよかった。六年もの月日があれば、お前が何者なのかを調べ尽くせる。お前が王英輝の血を一滴も引いていないこともわかってるんだ。偽者が貴公子ヅラして一族の中心にいたことも」
王心賢が短い悲鳴をあげた。同時に通話が切られる。
電話での会話だけで、彼が慌てふためいたのがわかった。そして確信した。王心賢は不破と同じだったのだ。
任海狼は不破に殴殺される直前、王心賢の名前を吐いた。王心賢にも言ったとおり、とても容易に信じられなかった。あの東北幇の首領はイタチの最後っ屁とばかりに、不破と王心賢の仲を裂くために口にした可能性が高かった。
王心賢も少年時代は近藤家にも出入りし、近藤夫妻や不破たちと食卓を囲んだ。彼は幼かった雄也の面倒を見たり、勉強を教えてやったりもした。
雄也は己も同じ王一族の血を引く者として、ブライトネスの経営を立て直そうと、東大を優秀な成績で卒業すると、パンチパーマの荒くれ者や中卒の若者と一緒になって現場に立ち続けた。かりに王心賢が雄也を疎んじていたとしても、中国人マフィアを使って抹殺を企むなど、とても受け入れられるような話ではなかった。
任海狼のくだらない悪あがき。不破が王一族の血など引いておらず、本当の父親を捜し当てた一件がなければ、そう結論づけていただろう。
不破は塀のなかから南場と土居に命じた。先代組長の岡谷のDNAを採取したときと同じく、王心賢の毛髪やタバコの吸い殻などを集めさせたのだ。愛社精神に欠けたブライトネスの総務課社員を買収し、社長室から出たゴミを岡谷組に届けさせた。横須賀で静かに暮らす王英輝の家から出るゴミも回収。DNA型鑑定を行わせた。
王心賢の両親は、結婚当初から仲は冷めきっていた。王英輝には学生時代から交際していた女性がいたが、母親の徐慧華の指導に従って別れ、財閥系不動産企業の役員の娘である前田律子をめとった。偉大な父を越えようとし、ブライトネスという城を大きくするためだった。
経営者として辣腕を振るった王英輝だったが、家庭人としては失格だった。当の本人もそれを認めている。家に帰るのはつねに深夜であり、夜は国会議員の杉若とともに派手な女遊びに興じた。その挙句に鞭馬会の美人局に引っかかって思わぬ火傷を負ってもいる。夫婦関係は破綻しているも同然で、バブル崩壊で王英輝が会社を傾かせると、律子は彼のもとから去っている。夫が不倫に明け暮れていたのだ。妻だけが貞操を守り通すいわれはない。
DNA型鑑定の結果は不破の予想通りだった。結果報告書に記された父権肯定確率は0パーセント。王心賢は王英輝の息子などではなく、王一族の血を継いでいないと判明したのだ。
現在の律子は、王英輝が所有していた新宿区若松町の高級マンションに住み、父親の遺産で穏やかな暮らしを送っていた。
南場が律子に接触してDNA型鑑定の結果報告書を突きつけて迫ると、彼女は夫以外の男性と不倫関係にあったことを認めた。王英輝のもとに嫁入りしたものの、彼が欲していたのは自分ではなく、父親とのコネだとわかり、王英輝以外の男性とひそかに関係を持つようになった。
律子は王心賢の本当の父親についても語った。鞭馬会に出入りしていた鹿児島出身のチンピラで、新宿の路上でナンパされたのをきっかけにつきあったという。暴力バーのバーテンだったらしく、背中にスジ彫りを入れただけの半端者だった。当時組幹部だった村上のシゴキに耐え切れず、さっさと尻尾を巻いて故郷に逃げ帰るような男だったという。その男は数年後に覚せい剤の密売に関わり、鹿児島県警に逮捕されている。王心賢は一族の当主の血筋を引くどころか、くだらぬ与太者の倅に過ぎなかった。
律子は子供時代の王心賢から何度か質問されていたという――僕は本当にお父さんの子なの。
不破はそれを聞いて理解した。血に縛られていたのは、不破だけではなかったのだ。
不破のケータイが震えた。通話ボタンを押して電話に出ると、王心賢の荒い息遣いが耳に届いた。不破が訊いた。
「どうするか決めたか」
〈明日にでもお会いしましょう。私も叔父さんの出所祝いをしたい〉
王心賢は場所と時間を指定してきた。
場所は王一族の迎賓館である『富貴菜館』だ。時間は営業時間後の夜十二時だった。
「いいぞ。ご馳走になろうじゃないか。派手にやろう」
不破は弾んだ声で応じた。
夜の大久保公園が見えてくる。組事務所は公園の裏手のビルにある。
いつもなら公園の周りは街娼だらけとなるが、今日はひとりも見かけなかった。王の帰還を待ちかねた岡谷組の組員が路上を埋め尽くしていたからだ。
不破が姿を現すと組員たちが一列に整列した。軽く手を上げて子分たちを労った。