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2(承前)

 歩美がオムライスを大皿に盛りつけていた。
「刀というのは言いえて妙かも。新宿にはケンカ自慢が大勢いるけど、傑志さんが負けるのを一度も見たことないし。兵役にも就いてたしね」
「へ、兵役?」
「そんなことより食え。しっかり食っとかないと持たねえぞ。ボウリング場は力仕事だ」
 ちゃぶ台にオムライスが置かれた。不破少年はそのサイズに驚いた。
 女性の二の腕くらいもありそうな特大サイズで、大皿から黄色い卵焼きがはみだしている。少なくとも卵を四個は使っただろう。薄い卵焼きのうえには、ケチャップで赤いハートマークが描かれてあった。口のなかが唾液であふれ返る。
 近藤も特大オムライスを凝視した。彼は冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、コップに注いで一杯やっていた。
「ずいぶんと大盤振る舞いだな」
「心意気よ。弟さんなんでしょう? 早めに教えてくれてたらケーキぐらい買ってきたのに。冷めないうちに食べて」
「い、いただきます」
 大ぶりのスプーンを握り、オムライスを口に入れた。バターを贅沢に使ったらしく、こってりとしたケチャップライスと卵の味が口いっぱいに広がる。
 一度口に入れると、スプーンが止まらなかった。ケチャップライスに具が入っていないものの、かすかにカレー粉が入っているようだ。スパイスが効いていて食欲をさらにそそる。次々に飲みこんだせいで食道につかえた。慌てて胸を叩く。
 歩美がコップの水を持ってきてくれた。
「ゆっくり食べて。オムライスは逃げていかないから」
「こだなうまいオムライスは初めてです」
 コップの水で流しこむと、再びスプーンを握り直した。歩美が怪訝そうに不破少年の顔を覗きこむ。
「あら? 眼帯が」
「え?」
 不破少年は左目の眼帯に手をやった。
 眼帯のゴム紐が緩んでいた。王英輝に頬を引っぱたかれたさい、彼の右手にゴム紐が引っかかったせいで伸びてしまったらしい。眼帯が下にずれて左目が露になっていた。
「す、すまねっす」
 顔がカッと火照った。この人には見られたくなかった。不破少年は左目を手で覆い隠す。
 玄関近くにアタッシェケースを置いていた。そのなかに替えの眼帯がある。不破少年はアタッシェケースに手を伸ばす。
「待って」
 歩美に声をかけられた。彼女は不破少年の左目を見つめていた。不破少年は顔をそむける。
「み、見ねえでけろっす」
「どうして?」
 歩美が近づいてきた。サラダ油や卵の匂いに混じり、石鹸の香りがした。
「そりゃ恥ずかしいがら」
 不破少年の左手首に歩美がそっと触れた。
「見せて」
 心臓の鼓動が速くなった。
 不破少年は左手をどかした。なぜかそうしていた。いつもなら頑なに抵抗し、誰にも見せないようにしていたのに。
 歩美に左目をじっと見つめられた。彼女は真顔だ。不破少年の身体が自然と震えてくる。
 彼女にからかわれるのではないか。もしくは気持ち悪がられるのではないか。この人に拒まれるのが怖い。
 歩美が呟いた。
「きれい……」
「え?」
「マベパールみたいね」
「マ、マベ?」
「マベ貝という貝から取れる貴重な真珠よ。孔雀の羽みたいに虹色に輝くの。宝石みたいでとってもきれい」
「おれの目が……」
 不破少年の目に熱いものがこみ上げてきた。涙が頬を伝っていた。顔をうつむかせて手の甲で拭き取る。
「ご、ごめんなさい。とてもきれいだったから、つい見とれちゃって。無理に頼んでごめんなさい。つらい思いさせちゃったよね」
 歩美がちり紙を渡してくれた。不破少年は首を横に振る。
「んでねっす。嬉しくて仕方ねえんです。きれいだなんて言ってくれる人、今までいねがったがら」
 涙が止まってくれなかった。そればかりか嗚咽が漏れてしまう。王兄弟に罵られたときよりも感情を抑えられない。
 歩美のような人は初めてだった。大抵の人間は左目の瞳に怯み、同じ年ごろの子たちには気味悪がられた。
 ひどい噂もよく流された。失明の原因は石礫だったというのに、汚いストリッパー小屋なんかに寝泊まりしているからだの、母親が性病を放置したまま産んだからだのと、胸をえぐられるような嘘をばら撒かれた。あまりの悪意に我を忘れ、いじめっ子やガキ大将の頭を薪ざっぽうで叩きのめして回った。自分や母をバカにするな、二度とあざ笑うなと、祈るような思いで殴打した。いじめっ子らの兄や父親に袋叩きに遭うまで。
 他人には左目を見せずに生きてきた。寝るとき以外はずっと眼帯をして隠してきた。
「そうだったの……きれいよね?」
 歩美は近藤に訊いた。近藤もビールを飲みながら、不破少年の左目を見つめていた。
「おれにはげつちようせきに見える」
「ああ、そうかも」
 歩美は立ち上がって寝室に向かい、細い金色のチェーンがついたペンダントを手にして戻ってきた。
「これが月長石。ムーンストーンとも言われてる宝石よ。どう?」
 歩美が不破少年の傍に座り、ペンダントを見せてくれた。乳白色の宝石がついていた。彼女はペンダントの角度を変える。
「あ……」
 不破少年は目を見張った。
 月長石は柔らかな光沢を放っていた。石を傾けると青白い光を帯びる。ずっと見ていても飽きない不思議な輝き方だった。
「きれいです。すごくきれいだべ」
 歩美は月長石を指さした。
「それにね。石にはそれぞれ意味があるの。花言葉みたいものかな」
「そしたら、マベパールや月長石にも?」
「マベパールは純粋無垢や富。月長石には健康や幸運といった意味がこめられてる。こんな宝石そっくりの目をしているんだから、きっといい未来が待ってるはずよ」
 歩美は朗らかに言った。
 不破少年は畳に額をつけて土下座した。そうせずにはいられなかった。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
「お礼の言うのはこっちのほうよ。きれいな目を見せてくれてありがとう。頭を上げて」
 近藤からも声をかけられた。
「歩美の言うとおりだ。オムライスが冷めちまう」
「んだっすね」
 不破少年はちり紙で洟をかんだ。再びスプーンを握ってオムライスを食べ始める。あの世にいる母に謝りながら。
 ――本当の故郷に戻るの。あの人はきっとあなたを快く迎えてくれるはず。
 母の遺言を信じ切れていなかった。そればかりか、王兄弟と面会したさいは裏切られたとさえ思った。
 涙の味がするオムライスを頬張りながら、この土地に来たのは間違いではなかったと思い直した。

 

(つづく)