6(承前)
「放せコラ!」
土居が両手を振り回して不破の腰や腹を殴打した。痛みはほとんどない。
ドラム缶には雨水がなみなみと溜まっていた。長いこと放置されているらしく、水は黒々と淀んでおり、近寄っただけで生乾きの雑巾みたいな悪臭がした。明らかに腐っていた。
不破は力をこめた。土居の頭をドラム缶に押しつける。
「止めろ、てめえ! ツラ覚えたかんな。殺す、殺してやる」
土居がわめき声をあげて抵抗した。だが、殴打されたダメージもあって抵抗する力は残っていないようだった。土居の頭をドラム缶の水に深々と沈めた。不破の左肘までが水に浸かる。
土居は身体をうなぎのようにくねらせ、彼が吐き出した息で水面にボコボコとあぶくが立つ。
土居を痛めつけながら車のほうを見やった。彼の手下たちはもはやリーダーを直視すらできずにいる。
ドラム缶の水のあぶくがなくなった。土居の肺から酸素がなくなったのを見計らって腕の力を弱める。土居が勢いよくドラム缶の水から頭を上げた。
大量の水が土居の頭とともに跳ね上がり、不破のトレーニングウェアも濡れ、彼の顔までしぶきが飛んできた。水はやはり汚れているらしく、ドブのようなきつい悪臭がした。目に入れば感染症は免れない。右目を守るために顔をそむけて回避する。
土居は咳を繰り返した。みっともなく洟をたらし、口を大きく開けて空気を取り入れようとする。吠える気力までいっぺんになくしたようだ。
不破は腕に力をこめ直した。充分な空気を与えずに、土居を再び汚水に沈めた。彼は汚水から脱出しようと、首や背中の筋肉を総動員させているが、その力はひどく頼りなかった。水面のあぶくの数も少ない。
八年も極道をやっていれば、礼儀作法はもちろんだが、ヤキの入れ方も自然と身につく。もっとも効率がいいのは水責めだと知った。いくら気合の入った人間でも、呼吸を止められれば抵抗力をなくす。肺は意思など関係なく酸素を欲するものだ。
「おい」
南場から心配そうに声をかけられた。
あぶくが完全になくなっていた。土居の身体から力が抜けていく。不破が汚水から引っ張り上げると、土居は鼻と口の両方から水を吐きながら激しく咳きこんだ。
「誰に命じられてやった」
不破が土居に問い質した。
しかし、会話どころではなかったらしい。土居は水を吐き終えると、今度は嘔吐した。ファミリーレストランの食い物と黄色い胃液をドラム缶のなかに吐き出す。
手加減はしなかった。土居の頭をドラム缶へ押しやり、嘔吐物が浮かんだ汚水に浸けようとする。
土居が苦しげに叫んだ。
「待て! 待ってくれ。新井、新井さんだ」
「なんだと?」
不破の心臓が大きく鳴った。
土居を引っ張り上げると、足をかけて地面に倒した。土居が尻もちをつき、なおも嘔吐を繰り返す。
不破は彼のパンチパーマを左手で掴んで訊いた。
「鞭馬会の新井正男か」
「そうだよ。新井さんからあのラブホテルのおっさんどもを襲えって言われたんだ。相手はけっこうな金持ちだから、ちょいと脅かせばいいカネになるからって」
不破は近藤を見やった。彼も思わぬ人物の名を耳にし、険しい表情を見せた。近藤が言った。
「なるほどな。あいつも戸山生まれだ。地元の大先輩にうまい話を持ちかけられたわけか。いくらもらった。その“おっさん”たちは一億も強請られてるんだ。二、三千万円ぐらい提示されたか」
「まさか! 五十万しかもらってねえ」
土居はだいぶツッパッて手を焼かせた。
しかし、ドブのような水をたらふく飲まされて根負けしたらしく真相を一気に語り出した。五十万円という金額を耳にし、三人の手下たちは、リーダーが半分以上も懐に入れていたとわかり、侮蔑の視線を土居に向けた。
土居も脅した相手の正体を聞かされてはいなかった。“おっさん”ふたりのヌード写真を撮ると、五十万円と引き換えにフィルムを新井に渡したという。
「あの落ちぶれヤクザが」
不破はドラム缶に思い切り蹴りを入れた。重いドラム缶が横に倒れ、大量の汚水をまき散らす。
ふいに脇腹がうずきだす。新井は新宿ヤクザの怖さを不破に教えてくれた男だった。
八年前、王一族が経営するボウリング場に現れては乱暴狼藉を働き、アルバイトの不破にも暴力を振るった。とんでもない怪力の持ち主で、16ポンドのボウリングボールを軽々と投げつけ、不破の肋骨をへし折った。
当時、新井が属する鞭馬会は、関東の巨大組織である錦城連合の傘下に入り、大組織の威光を笠に着てやりたい放題だった。歌舞伎町を手中に収めようとし、岡谷組の縄張りを荒らしまくり、王一族の領地にも土足で踏み込んだ。
だが、鞭馬会は痛烈な反撃を食らった。岡谷組と王一族が政官界を動かし、鞭馬会の若い衆を買収してトップの村上建策と副会長、そして新井を四谷署に逮捕させたのだ。
会長の村上は暴力行為等処罰法違反で起訴されて二年の懲役生活を余儀なくされ、新井にいたっては仮釈放中の身だったため、残りの弁当と合わせて六年間も水戸刑務所で過ごす羽目になった。
鞭馬会は会長が懲役暮らしをしている間は、一転して守りに入っていたが、村上が出所すると再び勢いを取り戻した。岡谷組と正面から事を構えるような真似こそしないが、錦城連合が韓国や台湾から大量に仕入れた覚せい剤を新宿一帯に売りさばいて莫大な利益を得た。
新井は二年前の昭和五十一年に満期出所している。鞭馬会の幹部として復帰したものの、かつてのような存在感はないという。六年間も留守にしていれば、会内の人間関係も大きく変わる。親分を懲役に行かせたヘタ打ちヤクザなどと仲間内から陰口を叩かれ、年下の舎弟たちは彼が不在の間に力をつけた。
今の新井は新宿駅南口あたりの連れ込み宿で、もっぱら日雇い労働者向けの管理売春をやって糊口をしのいでいるという。
「……殺りに行きましょう。今からでも」
不破が近藤に訴えた。
近藤はうなずいてはくれなかった。南場に頭を小突かれた。
「そう簡単に行くか」
「どうしてです! 鞭馬会がまた懲りずに攻めに来たってことでしょうが。うかうかしてたら『ブライトネス』の経営まで乗っ取られかねない。なんで芋引くんですか」
不破は怒鳴った。
近藤が大股で歩み寄ってくると、左拳を不破の顔に叩きつけた。固い衝撃で頭を揺さぶられ、鼻の奥がツンと痛んだかと思うと、鼻から生温かい血が流れだした。
「それでも王一族の男か。跳ね上がるのも大概にしろ」
「……すみません」
近藤の拳は怒りに震えていた。それが不破を冷静にさせた。
不破自身も簡単に殺しなどやれないとわかっていながら、相手があの新井だとわかって頭に血が上ってしまった。
近藤は南場に指示を出した。電話で岡谷へ報告するようにと。南場はバラック小屋へと駆けていく。
「岡谷の知恵も借りよう。案外この兄さんのほうが策士で、おれたちをペテンにかけてるだけかもしれない」
近藤はコルトを土居に向けた。
土居は地面に正座をして「嘘じゃねえ、嘘じゃねえんです」と、壊れたレコードのようにわめいた。おそらく土居は真実を口にしているだろう。
新井が冷や飯を食わされていようがいまいが、あの男が鞭馬会の幹部であるのは変わらなかった。激情の赴くままに新井を殺害すれば、鞭馬会もメンツにかけて激烈な報復を行うだろう。歌舞伎町の利権の掌握は錦城連合の悲願だ。すでに鞭馬会の息のかかったバーやパブが歌舞伎町内にはいくつもある。
岡谷組が仕切るには、歌舞伎町はあまりに大きくなりすぎた。岡谷も錦城連合や関西系暴力団と対抗するため、もはや一本独鈷でやっていくのは不可能と判断し、東日本最大の暴力団である天仁会の傘下に入るのを望んでいる。
そうなる前に鞭馬会が仕掛けてきたとも取れた。ムショ帰りの窓際幹部をあえて生贄として使い、岡谷組を挑発して抗争に持ち込もうとしているのかもしれなかった。
もちろん抗争ともなれば、警察組織がそれをみすみす見逃すはずはなかった。都内最大の繁華街でドンパチが起きれば、警察も躍起になって組織の壊滅を目論むだろう。鞭馬会と岡谷組の両方が共倒れしてもおかしくはない。
不破は空を見上げた。夜闇が徐々に薄れて青藍色になり、夜明けを迎えようとしている。近藤たちの推理は見事に的中し、王英輝の地位を脅かす犯人の正体は割れた。
だからといって、喜べる空気ではなかった。近藤は表情を消して中空を睨んでいる。岡谷組の将来を背負って立つ冷静沈着な若手幹部という評判だが、本当は気性の激しい男なのを知っていた。彼もまた腸を煮えくり返らせているはずで、今からでも鞭馬会の事務所に殴り込みをかけたいと思っているに違いなかった。
「大変です!」
南場がバラック小屋から飛び出してきた。よほど慌てていたらしく、鉄屑につまずいて転びそうになっていた。
「どうした。岡谷に連絡取れたのか」
近藤が訊き返すと、南場が歌舞伎町の方角を指さした。
「ブライトネスビルに……」
不破と近藤は顔を見合わせた。