最初から読む

 

平成八年

 

 

 

 不破のベントレーは百人町の狭い路地に入った。

 歌舞伎町の近くにある小さな病院で、二十四時間救急対応を行っている。繁華街の傍に位置するため、頭部打撲や四肢骨折といった外傷の治療を得意としており、多くの酔っ払いやチンピラヤクザを診てきた。

 夜間は正面玄関が閉まっており、路地に面した時間外出入口からしか入れない。今夜も深夜三時を過ぎているにもかかわらず、病院の周りには複数の救急車が停まっており、急患をストレッチャーに乗せた救急隊員が駆けていく。

 不破もベントレーを降りて病院へと駆けた。南場からの知らせを受け、運転手に命じて横須賀から猛スピードで戻ってきたのだ。護衛の紺野もついてくる。

 急いだところで意味はない。車のなかで南場や新宿署生安課の尾崎、知り合いのマスコミ関係者らと連絡を取ったが、誰もが暗い声で告げてきた。近藤雄也は刺殺されたと。おそらく事実なのだろうが、この目で見るまでは信じたくない。

 近藤雄也は職場の『アカプルコ』で首や腹を複数回刺され、この病院に緊急搬送された。運び込まれたときには、すでに出血性ショックにより心肺停止状態に陥っていた。

 輸血や心肺蘇生といった救命処置が行われたものの、すでに手の施しようがない状態だったらしい。頸動脈が切断され、体内の血液量の四十パーセント以上が失われていた。店内のパチンコ台や床は彼の血で真っ赤に染まった。

 犯人は複数だったらしく、雄也の職場が営業を終えた後、どこからか店内に忍び込んだ。残業中の店長や雄也と鉢合わせし、犯人たちはナイフを振り回して彼らを死傷させると、裏口から逃げ去っていった。警視庁は犯人の行方を血眼になって追っている最中だ。暴走族の元総長だった腕自慢の店長も、犯人たちに立ち向かって手の指を二本失い、顔を切られるなどの重傷を負い、別の病院に搬送されている。

 夜間受付に来意を告げてなかに入った。時間外出入口のすぐ傍が救急病棟で、病院関係者や患者でごった返していた。廊下には三角巾で腕を吊っているサラリーマン風の男や、頭に包帯を巻いてベソを掻く水商売風の女などがおり、酒の臭いが充満していた。顔をひどく腫れ上がらせたチンピラもいる。

 岡谷組の組員もこの病院には相当世話になっている。不破もしょっちゅう訪れていたが、今は見知らぬ施設に迷い込んだような違和感を覚えていた。廊下がうねうねと歪み、足枷をつけられた奴隷みたいに脚が重たい。

不破オヤジ、こちらです」

「ああ……」

 紺野の案内で地下へと向かった。手すりに掴まりながら階段を下る。

 この病院の霊安室は地下にある。一段下るたびに見えない足枷の重量が増した。地下二階のフロアまで降りた。霊安室はこの階の端の目立たぬ場所にある。

 不破はとっさに息を詰まらせた。霊安室の前の廊下にはポツリと長椅子が置かれ、そこには雄也の母親が力なく腰かけていた。隣には南場がうなだれながら座っていた。

 歩美はよほど慌てて駆けつけたらしく、パジャマにカーディガンを羽織っただけで、履物は樹脂素材のサンダルだった。睡眠中に凶報に接したのか、髪型も乱れたままだ。

 歩美と最後に会ったのは、三年前に執り行われた近藤の七回忌以来だった。近藤が生きていたころよりも痩せていたが、目の前にいる彼女は化粧もしていないためか幾分老けて見えた。頭髪の根元が白く、目尻や口元にはシワがある。彼女がもうすぐ五十歳になるのを思い出した。

 不破はとっさに動いて壁の陰に隠れた。歩美の見えない位置に立つ。心臓の鼓動が速まる。とてもではないが、彼女に合わせる顔がない。

 九年前、彼女にヤクザ社会から足を洗ってくれと懇願された。不破は彼女の頼みを拒んで大言壮語した。あなたがたをお守りすると。誰も手が出せないくらいに、大きくなってみせると。不破は両手で顔を覆った。

「隆次君」

 歩美から声をかけられた。

 不破の身体が反射的に痙攣した。悪質な悪戯がバレた子供のように、おずおずと陰から姿を現し、うつむきながら歩美のもとへ歩んだ。なんと言葉をかけていいのか、まるでわからない。

「……申し訳ありません」

 不破は廊下に跪いた。歩美が彼の行動を予期していたように不破の肩に触れた。彼女は霊安室のドアを指さした。

「あの子に早く会ってあげて。もう移されちゃうから」

 南場が放心したように呟いた。病人のような顔色だ。

「大塚の監察医務院で司法解剖に回されるそうだ。刑事デカどもがなかで待ってる」

「わかった」

 不破は歩美に深く頭を下げてから立ち上がった。霊安室のドアを開ける。

 不破の身体が強張った。霊安室は殺風景なクリーム色で、簡素な祭壇が設けられた小さな部屋だった。線香の匂いが鼻に届く。

 室内の中央には死体安置台があり、白いシーツに包まれて北向きに寝かされた遺体があった。顔には白い布が被せられてある。

 スーツ姿の刑事がふたりいた。ひとりは新宿署の尾崎で、もうひとりは知らない顔だった。ガッシリとした身体つきをした三十代くらいの男だった。

 不破は震える手で白い布をめくった。

「ああ……」

 勝手にうめき声が漏れた。深々と息を吐く。

 死体安置台に寝かされているのは雄也だ。トレードマークといえる分厚いレンズの眼鏡は外され、両目をつむっているけれど、実の子のように目をかけていたのだ。見間違えるはずはない。

 ひどい出血が死因となっただけに、雄也の顔色は石膏像のように白く、首には傷口をふさぐための縫合の痕が残っている。血痕は拭き取られているものの、耳の穴やうなじの毛は赤黒く汚れたままで、雄也の出血量の惨さを物語っていた。

 不破は雄也を覆うシーツを剥いだ。雄也の腹もまたムカデのように縫われた痕だらけだ。彼の両腕にも切創がいくつもあり、傷口からピンク色の筋肉や白い脂肪が見える。

 雄也は明らかに死んでいた。テレビのバラエティ番組みたいに、最後まで不破を驚かせるためのドッキリであってほしいと望んでいた。これが現実などではなく、ただの夢であってほしいとも。

「なぜだ……」

 老人のような声が漏れた。

「なぜ雄也がこんな目に遭わなければならない。こいつはまっとうなカタギだった。東大を出てブライトネスを牽引する選ばれし人間だったんだ」

 刑事の前で涙など見せたくはない。だが、涙声になっていく。不破はシーツをかけ直しながら雄也に語りかけた。

「だから言ったじゃないか。最高学府を出た学士様がギャンブル場の店員なんかいつまでもやるべきじゃないと。お前は父親に似て頑固だった」

 不破の膝が力を失った。リノリウムの床に両膝をつくと、死体安置台にしがみつきながら声をあげて泣いた。

 近藤が胸を撃たれて絶命したときが思い出された。顔色がみるみる白くなり、唇は紫色へと変わった。猛禽類のような鋭い目はビー玉のようになり、不破の目の前で呼吸を止めた。父親に続いて子までが惨死するとは。

 不破の役割は一族の盾となることだ。

 ――お前たちになにかあったときは全力で守る。それがおれのできる精一杯の恩返しだ。

 雄也にはそう大見得さえ切ってみせた。歌舞伎町の王などと呼ばれているというのに、大事な身内をおめおめと死なせた。自分も刃物で喉を切り裂いて、あの世に逝った雄也に謝罪したかった。

 不破は浅い呼吸を繰り返した。しゃっくりが止まらず、鼻水が口に流れ込んでくる。ハンカチで拭き取りもせず尾崎に訊いた。

「誰がやった」

 尾崎が顔をしかめた。

「まだ捜査は始まったばかりでなんとも言えんのですよ。あやふやな情報ネタを今の親分に吹きこむわけには――」

「つべこべ言わずによこせ。目白のマンションをくれてやる。バブル崩壊で値が下がったとはいえ、あんたの退職金よりも高い値がつく。現金ゲンナマが欲しけりゃ、若いもんに用意させる。渋るようなら」

 不破は床に手をついて立ち上がった。右拳を握りこんで刑事たちに近寄る。

 尾崎は降伏したように両手を上げた。

「わかりました。こちらも悔やみの言葉を述べるために、この部屋で待っていたわけじゃない。私は一銭もいりませんよ。こっちとしても黙ってられません。ブライトネスは重要な取引先で、雄也君の職場は私の庭でもあった」

「誰がやりやがった」

 尾崎の襟首を掴んだ。さほど力をこめたつもりはなかったが、彼のワイシャツのボタンが弾け飛んだ。

「第二機動捜査隊キソウ若松わかまつ巡査部長です。この事件の初動捜査を担当してる。嫁さんが教育熱心でしてね。ブライトネスの王子たちのように値の張る名門校に通わせたがってる。そのためには爪に火を灯す生活を送らなきゃならんのですが、若松君はうっかりコレに嵌って積立預金をすっからかんにしちまった」

 尾崎がパチンコのハンドルを握るフリをしてみせた。若松は下を向いたまま言った。

「今夜中になんとかしないと嫁さんにバレちまうんです。四百万円用意しないと」

「誰がやった」

 尾崎の襟首から手を放した。若松に顔を近づけると、彼は尾崎に救いを求めるように視線を向けた。

「尾崎課長……」

「ガキじゃあるまいし、てめえで決めやがれ。女房子供に去られちまうと泡食ってるお前に、こうして危ない橋を渡って助け船を出してやったというのにグズグズ言い出しやがって。親分は見てのとおり大変お怒りだ。ボコボコにぶん殴られたうえに、家庭なんかぶっ壊れちまえばいいんだ」

 尾崎がボタンを拾い上げた。

 不破は若松の頭髪を左手で掴んだ。彼の頭髪を下に引っ張り、強制的に前屈みにさせると、顔面に膝蹴りを叩きこもうとした。若松が早口で喋り出した。

「待て! 中国人だ。店長が証言してる。犯人ホシたちは覆面でツラを隠していたが、店長たちを刺して逃げていった。現場にはケースに入った電子部品が落ちていた。パチンコ台に裏ロム仕掛けるために忍び込んだらしい」

「中国人だと……」

 不破の脳裏に任海狼の血走った目が浮かんだ。

 頭が憤怒で熱くなっていく。身体を起こそうとする若松の頭をさらに下に押しやる。若松がさらに続けた。

「防犯カメラにも映ってる。ふたりとも年齢は若そうだったが、正体はまだ掴めてはいない。ふたりとも一目でわかる安物のスウェットを着用していた。映像をコピーして渡してもいい!」

 不破は力を抜いた。

 若松は身体を起こし、頭髪を慌ててなでつけた。ヤクザごときに恐れをなした己を恥じているようだった。怒りと屈辱で腹を立てているが、不破と目を合わせようとしない。若松はふてくされたように舌打ちした。

「今わかってるのはそれだけだ。カネは用意してくれんだろうな」

「若いもんに一時間以内で届けさせる」

 不破は涙でアイパッチを外した。

 アイパッチは涙でびしょ濡れだった。失明したとはいえ、涙腺や涙道は機能している。白く濁った瞳を見せつけると、若松は怯んだ顔に変わった。

「続報があれば持ってこい。そのたびにボーナスをくれてやる。あんたの好きな確変連チャンってやつだ」

「あ、ああ……」

 若松は相槌を打った。

 しかし、不破とはもう関わりたくないと顔に書いてある。左目は暗闇しか見えないが、時として他人の本心を炙り出してみせる。嘘を巧みに吐けるタイプではなさそうだった。

 不破はアイパッチをつけ直した。再び床に跪いてハンカチで涙や洟を拭き取った。雄也はもうこの部屋を離れる。それでも汚したまま後にするわけにはいかない。死体安置台のシーツのシワを伸ばし、手を合わせて雄也の冥福を祈った。

 ようやく忌まわしい現実を直視できた気がした。自分がこれからなにをすべきかも。心のなかで雄也に別れを告げ、霊安室のドアノブに手をかけた。

 尾崎に声をかけられた。

「東北幇を疑ってます?」

「どうしてそう思う」

 不破は振り返った。尾崎は不破の右手の拳ダコを顎で指した。

「すでに噂になってます。親分が“包丁レン”のクソガキどもにビール瓶で礼儀を叩きこんだと。新宿署のマル暴たちも大はしゃぎしてました。やつらは暴走族ゾクやってたころ、星紅せいこうなんか掲げて、警視庁うちの交番やパトカーを襲ってやがったんです。そんなにこの国が気に食わねえのなら、とっとと故郷クニ帰りゃいいのに。今じゃご立派な犯罪組織に育っちまった」

「それで?」

「中国人といってもいろんな連中がいるってことです。そこらの留学生崩れかもしれんし、上海や福建かもしれません。中国語を話していたからといって、赤い国から来た連中とは言えません。最近はめっきり見かけなくなったが、近藤さんを射殺したような台湾系の不良かもしれない。警官やカタギに平気で機関銃をぶっ放すような輩です」

「あんたは黙って情報ネタをよこせ」

 不破は尾崎に命じてドアを開けた。

 長椅子に座っていた歩美と目が合った。彼女は不破が霊安室から出て来るのを待ち受けていたようだった。不破はたじろいだ。

 歩美は泣きはらした目を見開いて立ち上がった。両手で不破の右手を包むようにして掴んだ。久しぶりに彼女の温もりを感じた。

「ダメ」

 歩美はきっぱりと言い放った。彼女は不破の意図を見抜いていた。

 九年前の記憶が蘇ってきた。彼女はかつて言ってくれたものだった――私の支えはあなたと雄也だから。

 彼女は夫を亡くしたばかりか、愛息にも先立たれてしまった。もう残っているのは不破だけなのだ。歩美の手の甲には血管が浮き、加齢でシワの数も増えた。それでも握る手は力強い。

「もう足を洗ってとは言わない。ただ、もう血を流すのは止めて……どうか」

 不破は天井を見上げた。歩美に泣き顔を見られたくなかった。

 近藤家で過ごした日々が脳裏をよぎった。近藤と歩美、それに雄也と食卓を幾度も囲んだ。不破がこれだけ頑健な身体になれたのも、つらい部屋住み修業に耐えられたのも、近藤家という温かな住処があったからだ。

 ――あなたがたをお守りします。おれはくたばらない。それどころか、おれはもっと大きくなる。誰も手が出せないくらいに。

 歩美にもかつて言い張った。勘違いも甚だしかったのだ。

 守られていたのは不破のほうだった。ケンカで叩きのめされて傷を負っても、よその組織と揉めて張りつめた毎日が続いても、歩美や雄也が心の拠り所だった。

 歩美には幸せになってほしかった。近藤がこの世を去ったとき、彼女の願いを聞いて極道から足を洗っていれば、雄也は死ななくて済んだかもしれない。

 歩美が今も不破を案じてくれているのがわかった。痛いほどに。彼女のために「わかりました」と答えてやりたかった。

 歩美の顔を直視できない。その場しのぎの嘘をついても、彼女はすぐに見破るだろう。不破の左目なんかより、他人の心をあっさりと見抜く。

「……歩美さん、すみません」

 不破はうつむきながら右手をゆっくり引いた。彼女の手の温もりが消え去る。

 歩美に背を向けて歩き出した。彼女が静かに言った。

「血にだけは縛られないで」

 否定も肯定もせずに遠ざかった。ごめんなさい。歩美に心のなかで深く詫びつつ、不破は報復の絵図を描いていた。

 

 

(つづく)