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 岡谷邸のある新宿一丁目の一角は静かだった。

 連日雨が降り続いているせいか、活気があまり感じられなかった。真昼にもかかわらず、空はどんよりと曇っており、歩行者の数も少ない。

 岡谷邸の前にベントレーを停めた。運転手や紺野を車内で待機させると、不破は包装紙に包まれた化粧箱を持って岡谷邸へと向かった。

 岡谷邸は四階建ての鉄筋ビルだ。かつては組の権勢を見せつけるような城塞であり、つねに複数の若い衆や客人が出入りし、二十四時間灯りが絶えない不夜城でもあった。

 駐車場や邸宅の前には、ぴかぴかに磨かれたロールスロイスやベンツが何台も停まり、まるで高級車のショールームのようだった。若い衆が邸宅の周りを一日に何度も掃除をするため、路上には塵ひとつ落ちてはいなかった。

 不破は正面玄関の前で屈んだ。空き缶とガムの包み紙が落ちていたからだ。それらを拾い上げてから呼び鈴を押した。

 不破は岡谷邸を見上げた。昔と違って火が消えたようだった。岡谷が正式に引退する前から訪れる者は少しずつ減り、もっぱらやって来るのは主治医、それにカタギのもとに嫁いだという娘がたまに顔を見せるぐらいだ。引退を決めてからは、世話係がひとりついているだけだった。

 玄関ドアの上には防犯カメラがついているが、今も稼働しているかどうか不破にはわからなかった。

 ややあってからドアが開いた。世話係のうえが顔を見せる。

「二代目、お疲れ様です」

 ジャージ姿の植木は真っ白になった頭を下げた。不破は声の音量を上げた。

岡谷オヤジは?」

「今日は調子がよさそうで、ビデオをご覧になってます」

「そうか」

 植木が玄関内へと招き入れてくれた。彼に化粧箱を渡す。なかには宇治茶の缶が収まっている。

 植木は岡谷組の最古参の組員で、すでに古希を過ぎており、会うたびに耳も遠くなっている。酒癖のあまりの悪さに組を二度追放され、ヘタも打って両手の小指はどちらもなかった。上に立てるほどの器量もなく、ろくなシノギも持てなかった老いぼれヤクザだが、岡谷に対する忠誠心は揺るぎなく、引退後の岡谷の介護をしている。

 不破は一階にある寝室へと向かった。かつては部屋住みの若者向けに使われた大部屋だった。岡谷の住居はかつて上階にあったが、持病と老化によって階段の上り下りがきつくなり、一階へと移り住むようになった。三階や四階は物置と化しているという。

 植木が指を弾いた。

「そういや、あれは役に立ちましたか」

「インチキくせえけどな。霊験あらたかだって評判だから、子としてはやれることはやっておきてえ」

「その気持ち、よくわかります」

 植木は感心したように相槌を打った。

 ここに住み込んでいる彼には、岡谷の毛髪や爪だのをひそかに集めさせた。関東某所にどんな病も払いのける有名な山伏がおり、加持祈祷のためには本人の髪や爪が必要なのだと植木に吹き込むと、彼は熱心にかき集めてくれた。

 不破は寝室のドアをノックした。室内からテレビの音声が盛大に聞こえてくる。

「隆次です」

「おお、入れ入れ」

 不破は一礼して寝室に入った。

 確かに今日の岡谷は調子がよさそうだった。先日の継承式で体力を使い果たし、しばらくは寝てばかりの暮らしを送っていたという。今もパジャマ姿ではあったが、布団のうえに寝っ転がりながら大画面のテレビを凝視していた。昨年の話題作の映画『スピード』のようで、若い主人公が悪役のデニス・ホッパーと地下鉄で肉弾戦を繰り広げていた。

 テレビの前には、レンタルビデオ店の青い貸出し袋があり、何本ものビデオテープがぎっしりとつまっていた。大衆劇場『モンマルトル』のタニマチだっただけに、映画や演劇には昔から目がなかった。映画製作会社のプロデューサーに乗せられ、ゴミのような映画に出資までした過去もある。

「お愉しみのところすみません」

「愉しんでねえよ。ド派手で退屈はしねえがな」

 岡谷はリモコンでテレビの音声を消した。布団からゆっくり起き上がると、隣の座卓の前であぐらを掻いた。

「あちこち挨拶回りしたせいで、少し太ったんじゃねえか? どこの土地のもんも、岡谷の二代目ともなりゃメンツにかけてもてなそうとするからな」

「そうですね。少しばかり」

 不破は腹を叩いてみせた。座卓の前に正座をする。岡谷は咳をしながら笑った。テレビに映るキアヌ・リーヴスを指した。

「どうせお前のことだから、このあんちゃんの身体みたいに、ムキムキになるんだろうがな」

「どうでしょう。おれもそろそろ年齢が年齢ですから、若いときのようにはいきません」

 植木がさっそく宇治茶を淹れて運んできた。

 ふたりは茶を啜りながら、窓に目をやって雨天を眺め、植木が寝室から遠ざかるのを待った。

 岡谷は探るように不破を見上げた。

「悩みがあるってツラだな。なんか問題でも起きたか」

「わかりますか」

「長いつきあいだ。引退した老いぼれと茶飲み話がしたくて来たわけじゃねえだろう。警察サツか中国人か。それともどっかの組がイチャモンつけてきたか」

「じつは……」

 不破は大きく息を吸い込んだ。

 なにをどう話すべきかは、邸宅を訪れる前から決めていた。にもかかわらず、いざとなると言葉が出てこなくなるものだ。

 不破はスーツの内ポケットから折り畳まれた書類を取り出した。座卓のうえに書類を広げる。

「なんだい、そいつは」

岡谷オヤジはDNA型鑑定はご存じですか?」

「そりゃ知ってるさ。ヤクザやってたんだからよ。詳しい仕組みまではわからねえが、警察サツも捜査に取り入れてるし、裁判所だって証拠として認定してる。少し前にもそいつが決め手になって、幼児殺しの犯人が捕まったんだろう。血や精液だけじゃなく、髪の毛だの唾液だのからでもわかるって――」

 岡谷は言葉を途中で打ち切った。植木のいる台所のほうに目を向ける。

「……待てよ。あいつ最近やたらと床を這いつくばったり、野良犬みてえに屑籠を漁ってたな」

「おれが集めるように命じました。岡谷オヤジの毛髪や爪、その他もろもろを」

「どういうつもりだ」

「説明するまでもないでしょう。読んでください」

 不破は書類を岡谷のほうに向けた。岡谷の細い喉が大きく動く。

 岡谷は不破の顔を凝視してから、老眼鏡を手にして書類に目を落とした。

 書類は日本の大手総合化学メーカーの子会社から届いた私的鑑定結果報告書だった。この会社は四年前から親子鑑定サービス業務を行っている。被験者は不破自身と岡谷で、鑑定に必要なサンプルを同社に提出。その結果がこうして届いたのだ。

 結果報告書には“鑑定ID”や“検体ID”、ポリメラーゼ連鎖反応などと小難しい横文字が出て来るものの、老いた岡谷でも理解できる一文が結果にはっきりと記されてあった――擬父は子供の生物的な父親と鑑定できる。父権肯定確率は99・99パーセントを超えているとも。擬父は岡谷を指し、子供は不破を意味した。ついに実の父親を探し当てたのだ。

 父親探しには時間と手間がかかった。十八年前に太腿を刺されて瀕死の重傷を負い、自分の本当の血液型を知ってから、探偵に依頼して母親について調べもさせた。

 当時は母を知る人物はまだ多く存在した。不破は調査費用には糸目をつけずに調べさせたものの、やがて真実を知るのが恐ろしくなり、探偵に調査をストップさせたり、何年も間が空いてから調査の再開を命じた。

 躊躇している間に母を知る人物は徐々に亡くなっていくか、認知症を患うなどして記憶をなくしていった。母を覚えている人物が新たに見つかりもしたが、有紀子と男女関係にあった人物といえば、『モンマルトル』の経営者だった王大偉しかいないと答えた。

 調査は暗礁に乗り上げたかに思えた。しかし、真実を知る鍵は鏡に映る己の顔にあった。年齢を重ねていくうちに、自分の顔の輪郭や目の位置が、ある人物と似てきていると気づいた。それは王大偉ではなく、渡世上の父親のほうだった。

 岡谷の手が震え出した。大振りな湯飲みを掴むと、喉を鳴らしてぬるくなった宇治茶を飲み干した。

 不破が先に口を開いた。

「『モンマルトル』のタニマチだった立場を利用して、お袋を無理やり手籠めにでもしたのか?」

 岡谷は驚いたように顔を上げた。頬を一発張られたような表情だった。

 岡谷は否定するように首を横に振ったかと思うと、ケンカで叩きのめされたチンピラみたいに目を伏せた。掛け合いの名人ともいわれ、幾多の無頼漢や極道を口八丁手八丁でやりこめてきた古強者だったが、ひどく打ちのめされたように口を弱々しく動かすのみだ。彼は絞り出すように言った。

「……惚れていたんだ。おれのほうが」

「なに?」

 岡谷は意を決したように語気を強めた。

「王大偉なんかよりも愛していた。おれのほうが。あいつを」

「説明していただけませんか」

「女房を覚せい剤ポンで亡くし、おれは後添いを探していた。闇市で成功して、新宿ジユクで顔を売っていたおれは、ぶらりと立ち寄った『モンマルトル』で有紀子を見た。たまげたよ。巻き毛が似合って、若いころのシャーリー・テンプルに似ててな。演技やダンスもよかったが、タップはもう熟練の域に達してた。一目ぼれだよ。その日のうちに王大偉に応援させてくれと頼みこんだもんさ」

 岡谷は不破の湯呑みにも手を伸ばした。彼の宇治茶をも勢いよく飲むと、目を遠くに向けながら昔について語り出した。

 新宿の顔役として名を売った岡谷に対し、『モンマルトル』の経営者だった王大偉は苦境に立たされていた。戦禍を免れた俳優たちを呼び戻し、有紀子のような華のある新人を育成しても、当時は舞踏や寸劇などよりも、身も蓋もないヌードショーといった即物的なエロが受けに受けた。時代の流れには勝てずに苦戦を強いられた。それでも、岡谷は俳優たちにご祝儀を配ったり、チケットを大量に購入するなどして『モンマルトル』を支え続けた。

「それだけ劇団に尽くしたからには、女優をモノにしても構わないと思ったわけか」

 不破は感情を殺して言った。それでも険の含んだ物言いになってしまう。岡谷は座卓に目を落として続けた。

「王大偉とは闇市時代からの盟友だ。それでも許せなかったことがある。妾を持てるほどの器もないのに、有紀子とデキていたのに加えて、彼女をスターにもしてやれなかった。しかし、おれは違う。すでに充分顔は売れていたし、商売のほうだって順調だった。有名劇場の支配人や芸能関係者の知り合いだって山ほどいた。王大偉に見切りをつけて、おれの女になってくれれば、あいつはスターになれたはずだった」

「『おれの女になってくれれば』か」

「王大偉の二号でいるよりマシだったはずだ。嫁の尻に敷かれているうえに、当時は甲斐性すらなかった」

 岡谷は唇を震わせた。身勝手な言い分ではあったが、少なくとも嘘をついているようには見えなかった。

 王大偉と岡谷は義兄弟の関係にあった。王大偉は岡谷より四つ年上で、互いに古い人間とあって、岡谷のほうが兄貴分として常に彼を立てていた。岡谷の口から王大偉に対する批判や悪口を聞いたことがない。だが、今の岡谷の瞳には嫉妬の色がありありと表れていた。

「だが、母はあんたを選ばなかった」

「王大偉はおれにないものを持っていた。良家の育ちなだけあって、そこらの学者や批評家よりも教養があった。レビューや演劇、映画に対する造詣が深い。有紀子もそこに惹かれたんだろう。あの男の大衆文化への愛は本物だった。切った張ったしか知らない野蛮な極道よりもな」

「にもかかわらず、あんたは不破有紀子を追いかけ回した。母から聞いてたよ。新橋のキャバレーで働いて、それなりに稼いでいたけれど、ヤクザの幹部に愛人にさせられそうになったから東京から逃げたんだと。あんたのことだったんだな」

「……おれは強引に行くしか知らぬゴロツキだった。あの不破有紀子に酔っ払いの酌婦なんかさせるわけにはいかないと、店に通いつめて説き伏せた。立派な女優や歌手になるべきだと。おれは本気だった」

 不破は座卓に力をこめて右拳を振り下ろした。けたたましい音を立て、岡谷は背をのけぞらせた。

「なにが本気だ……母が逃げるのは当然だ。手籠めにされたヤクザにスターにしてやると言われたところで信じられるか。母はあんたにつきまとわれて恐怖したんだ」

「強引で身勝手だったのは認める。だけど、お前だって覚えてるだろう。不破有紀子の華と美貌を。軽やかなステップを。あいつがいるべき場所は立派な劇場や銀幕で、あんな酒場じゃなかった」

 不破の視界が怒りで歪んでいく。腹のなかが燃えるように熱くなった。この男が実の父親とはやはり信じたくない。

 ここを訪れたのは真実を知るためであり、今さら岡谷を吊し上げるつもりなどなかった。岡谷は率直に過去について語ってくれており、不破に対して協力的とさえいえた。それでも、神経を逆なでされているような気分になる。不破はうめいた。

「覚えてねえよ……物心ついたときには酒の臭いを四六時中振りまいて、化粧焼けして肌はシミだらけだった。美容もへったくれもない。母が小屋のステージに立つたびに、酔った温泉客どもから聞くに堪えない罵声を浴びせられてた。なにが幸せだ。あんたのせいでガキのおれまでこんな目に遭った」

 不破はアイパッチに覆われた左目を指した。岡谷が顔を上げて不破を直視した。

「ひでえことをしたと思っていたよ。ずっと心に棘が刺さっているようだった。だから……お前が有紀子の遺骨を持ってこの街に現れたと知って驚いたんだ。お前がバカ正直にブライトネスビルに行って、王大偉の倅だと主張したところで、王英輝たちが歓迎してくれるとは思えねえ。冷たく追い返されるのがオチだと思って、近藤に連絡を取ってお前を保護させたんだ」

「あんたが近藤アニキに……」

 オムライスの香りがふいに蘇ってきた。

 まだ歌舞伎町二丁目が西大久保という地名だったころだ。長兄や次兄にこっぴどく追い返されそうになり、近藤が自宅に泊まらせてくれたばかりか、兄たちを説得してボウリング場の従業員として雇わせてくれたのだ。

 岡谷が続けた。

「近藤はお前と同じ王大偉の妾腹だ。義理人情にだって厚い。有紀子に逃げられたときのような失敗は繰り返したくない。今度は密かにお前を見守ることにした。案の定、近藤はお前をいたく気に入り、なにくれと世話を焼いた。王大偉の会社に入れて平穏な暮らしを送らせると。だが、お前は頑なに極道の道を進みたがった。そのときに気づいたよ。こいつは王大偉の息子なんかじゃない。ヤクザもんのおれのガキなんだと」

 不破は言葉を失った。岡谷の観察眼は並ではない。温和で調整型の親分を装いながら、相手をじっくり見極めて弱点を探し、時には不良警官や政治家と謀って痛烈な一撃を加える。

 不破が自分の顔を見続けて、もしやと勘づいたぐらいだ。もし岡谷が父親であるのなら、とっくに気づいていてもおかしくはない。だが、盃を交わした時点で見抜かれていたとは思ってなかった。

 岡谷は報告書を座卓のうえに置いた。

「厳しい部屋住み修行でケツ割ってくれりゃいいと思った。それなのにお前と来たら、近藤という見本がいたせいか、立派な極道に仕上がっていった。こうなりゃ仕方ねえと、おれも腹くくってお前を見守ることにした。おれの血を引いてるからと、えこひいきして組を継がせたわけじゃねえ」

「わかってます。あんたも組もそんな甘いもんじゃない」

「それでどうする。おれの財産目当てで親子鑑定なんかしたわけじゃねえだろう」

「無論です」

 不破は報告書を手にした。ゴルフボールのサイズになるまで丸めて口に放った。

 岡谷を見据えながら咀嚼して報告書を呑み込んだ。

「おれの目的はふたつあった。父親が誰かを特定すること。また、その事実を知る人間には口を閉じていてもらうこと。あんたに鑑定結果を知らせたのも釘を刺しておくためだ。おれが引いているのは王大偉の血であって、あんたの血なんかじゃないんだと。棺桶に入るその日まで、このことは黙っていてもらう」

「言われなくたってそうするさ。穏やかにくたばりてえ」

 岡谷が湯呑みを手にした。

 彼は宇治茶を口にしたかと思うと、湯呑みを持った右手で不破のこめかみを狙って殴りかかってきた。

 不破は左腕を上げた。湯呑みによる攻撃を上腕で防いだ。歩行もまともにままならぬ老人とは思えぬ力だ。ぬるくなった宇治茶の飛沫を顔に浴びる。

「王大偉のなにがそんなにいいというんだ!」

 岡谷が顔を真っ赤にさせて吠えた。

 彼がこれほど感情をむき出しにするのを初めて見た。岡谷は再び湯呑みで殴打してくる。不破はあえて左腕を下げ、黙って攻撃を食らった。鈍い衝撃音が鳴ってこめかみに痛みが走る。

「王大偉がお前になにをしてやった! 女房の顔色をうかがって、有紀子をこの街から追い出したばかりか、戻ってきたお前を可愛がるどころか、極道なんかにしやがった。なぜだと思う。本妻に生ませたガキ以外をてめえの子供と見なしていなかったからだ。汚れ仕事をさせる道具としてしか見ていなかったからだ」

「黙れよ」

「お前はなにかってえと、王一族の一員でいるのを自慢してやがったな。憐れな野郎だ。あいつらの守り神になった気でいるのかもしれねえが、あいつらはお前をケツ拭く下人としか思ってねえぞ。ケツ拭く価値もなくなりゃ、守り神どころか疫病神と忌み嫌われる」

「黙れ!」

 不破は右手を伸ばした。岡谷の首を鷲掴みにする。

 岡谷は湯呑みを取り落として息を詰まらせた。顔をみるみる青ざめさせていく。不破はすぐに首から手を放した。

 岡谷は座卓に突っ伏して苦しげに咳きこんだ。なおも右手を振るって座卓を叩く。

「有紀子もお前も、なぜおれのほうを向いてくれない!」

 岡谷は声をあげて泣き出した。座卓の天板が涙で濡れていく。その泣き声は老いた獣の咆哮のようだった。

 岡谷が涙するところを見たのは二度目だ。一度目は近藤の通夜のときだった。次代の岡谷組を背負う傑物だっただけに、ハンカチで目を何度も拭ってしのび泣いていた。

 今は違った。もはや見栄をかなぐり捨てたかのような慟哭だった。この侠客と出会って四半世紀になる。超然とした親分を長きにわたって演じながら、これほどの激情を秘めていたのかと驚かされる。

 不破は立ち上がって寝室のドアを開けた。廊下の奥に台所があり、そこに植木がいた。テーブルセットの椅子に座って、煎餅を齧りながら漫画を読んでいた。岡谷とはでかい音が鳴るインターフォンでやりとりしている。

 不破は息を吐いた。彼の耳が遠くて幸いだった。もし岡谷とのやりとりを聞いているようであれば、彼の口を封じなければならなかった。

「さよならだ、岡谷オヤジ

 泣き伏す岡谷を残して、不破は静かに寝室を出た。忍び足で玄関へと向かい、植木に気づかれることなく岡谷邸を後にした。

 

※本作には「妾腹」など、現在では不適切とされている用語・表現が使用されていますが、作品の時代性を鑑みてそのままにしております

 

 

(つづく)