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「なにもない。父親があんな状態なら食欲ぐらい失せる」
 王英輝はソファに身を預けた。
 英国製の高そうなセーターを着て、折り目のきっちりついたコットンパンツを穿いていた。靴はジョンロブの最高級品だ。不破が履いている安物とは格がまるで違い、本革が醸し出す独特のツヤは芸術的ですらある。
 ファッションに一分の隙もないからこそ、本人のやつれ方がより一層際立って見える。
「誰になにを吹き込まれたのか知らん。しかし、おれに問題はない。仕事が立て込んでいるうえに、親父の件でいろいろと準備に追われてる。寝る暇もないほど忙しかったのは事実だ」
 王英輝はポケットからラークの箱を取り出した。タバコを取り出そうとする。
「兄貴」
 近藤が壁を指さした。禁煙と大きく書かれた紙が貼られている。王英輝は苛立った様子でタバコをしまい直した。
 特別病室は別室も広かった。来客の応対や会議に使用されるだけあって、本革のソファの応接セットや重厚感のある執務机が置かれてある。
 王大偉との写真撮影をつつがなく終えると、息子たちの家族はめいめい病室を後にした。本人の調子がいくらいいといっても、心臓に疾患を抱えた重病人だ。王大偉はベッドに身を横たえていた。
 王英輝も挨拶もそこそこに帰ろうとしたが、近藤が声をかけて呼び止めたのだ。王英輝と近藤、不破の三人の兄弟のみが残って別室へ移動した。
 近藤が静かに切り出した。
「あんたは王一族の当主だ。その肩にのしかかる重圧は相当なものだろう。おまけに親父の件もある。おれたちには想像もできない苦労があるのは理解しているつもりだ」
「用件を言え。早く会社に戻らなきゃならないんだ」
 王英輝は膝をゆすった。
 別室のドアがノックされた。盆を手にした徐慧華が入ってくる。彼女の盆のうえには三人分のコーヒーカップが載っていた。室内がコーヒーの香りに包まれる。
「インスタントだけど」
 徐慧華はテーブルまでコーヒーを運んだ。
 ソーサーのうえに角砂糖とコーヒーミルクが添えられていた。近藤や不破の前に静かに置いた。高級レストランのウェイトレスのような丁寧な所作だ。
 王英輝が呆気に取られたように口を開けた。今の今になって徐慧華と近藤たちが一緒にいることに気づいたらしい。絶対に交わらないはずの徐慧華と腹違いの弟たちが同じ空間にいるだけでなく、コーヒーまで作って持ってくる母親の姿に仰天していた。
 彼以外の全員が写真撮影のときにたまげていたというのに、総帥の王英輝はずっとうわの空だった。一族内を騒然とさせた“緊張緩和デタント”をずっと認識していなかったのだ。
 王英輝は父親譲りの商才を持つ男。それが経済界の評判であり、不破たちも実力を認めている。それだけに今の彼が異常に見えた。
 徐慧華はなにも言わずに別室を出て行った。ただコーヒーをふるまっただけだが、充分すぎるほどの衝撃を王英輝に与えたようだ。
 王英輝の喉が大きく動いた。
「お前たち……いつからおふくろと」
「ついさっきさ。下の喫茶室で待機していたら、義母さんからおれたちも合流して親父を見舞えと言ってくれたんだ。一体何事かと思ったが、兄貴を見て事情を理解したよ。あんたを救ってやってほしいと、義母さんがSOSを出したのさ」
「なんだと……」
「父さんからも言われたよ。兄さんを守ってやってくれと。どちらも兄さんが危機に見舞われていることに気づいている」
 不破が近藤に続いて言った。父親にも気づかれていたと知り、王英輝の顔がますます強張っていく。
 近藤がコーヒーをひと口すすってから切り出した。
「女絡みか」
 王英輝は無言のままだった。
 対面に座る弟たちと目を合わせず、コーヒーに角砂糖を入れて、長々とスプーンでかき回す。上唇のうえに汗を浮かばせながら、対応に苦慮しているようだった。
 長兄とも約八年のつきあいになる。近藤のようにしょっちゅう顔を合わせてはいないが、彼の性格はおおむね把握していた。一族を率いるリーダーとして帝王学を徹底的に叩きこまれ、父に劣らぬカリスマ性を備えるために努力を惜しまなかった。二度のオイルショックで日本経済が大きく揺らぐなかでも、『ブライトネス』グループが右肩上がりの成長をし続けてきたのは王英輝の舵取りが優れていたからだ。
 その一方で彼のプライドはすこぶる高く、親兄弟にすら隙や弱みを見せまいとしていた。今では一族の人間でさえ気軽には近づけない。次兄の王智文のほうが開けっぴろげで親しみやすかった。
 王英輝はスプーンを置いた。コーヒーに目を落としながらかすれた声で言う。
「なぜそう思うんだ?」
「男が失敗する要因といえば、昔から相場が決まってる。酒、博奕、女の三つだ。兄貴は酒で乱れたりはしない。賭場に出入りしているなんて話も耳にしたことはない。ただ……」
 近藤が語尾を濁した。
「おれと妻の関係を考えれば、お見通しだと言いたいわけか」
 王英輝が小さく笑った。自嘲的で投げやりな笑い方だ。
 彼はしばらく笑い続けたが、やがて両手で顔を覆いだした。笑い声がすすり泣きへと変わり、両手の間から涙が滴り落ちる。
 不破は思わず近藤を見やった。近藤は静かに兄を見守るだけだった。
「助けてくれ。こんなのがバレたらおれは破滅だ」
「秘密は守るさ。親父や義母さんはもちろん、智文兄さんにも秘密にして事を済ませる。それがおれたちの稼業だ。愛人と揉めたのか?」
「おれに愛人などいない。杉若の二代目の漁色癖は知っているだろう。これもビジネスだと割り切って……あいつのくだらん遊びにつきあいすぎた。そのせいで……」
 王英輝はポツリポツリと打ち明けた。
 杉若とは王大偉と懇意にしている国会議員のすぎわかとくろうを指した。
 戦前の杉若は内務省の官僚として順調に出世し、終戦後は占領軍との折衝を担当した。多数のGHQ高官や米軍将校とコネを築き、同世代の王大偉と親交を深めるようになった。
 杉若はアメリカ式の文化や民主主義を学びながら、巨大官庁の内務省の解体に直面し、さらに国内の左傾化に強い危機感を覚え、四十歳で霞が関を去って政治家へと転身した。
 彼は実家のある中国地方に戻って衆議院選挙で当選し、昭和三十年の保守合同のさいに与党自政党に所属。自主憲法の制定や再軍備を訴えるなど、自政党内における右派政治家の代表格として頭角を現した。
 杉若は内務官僚としての経験を買われ、自治大臣や建設大臣を歴任し、現在は傍流とはいえ派閥の領袖として、自政党内に一定の影響力を持ち続けた。
 王大偉とは四半世紀を超えた交流があり、昭和四十七年の日台断交のさいには、杉若が発起人のひとりとなって自政党内の親台派議員を集めて日華協力懇談会を組織。中華民国の立法委員となった王大偉とともに日台関係の維持に尽力した。
 杉若は歌舞伎町のブライトネスビルにも頻繁に足を運び、王大偉を始めとして、中華民国を支持する華僑華人と会合を重ねた。
 不破も議員バッジをつけた杉若の姿をよく見かけた。ビルの前まで黒塗りのセンチュリーで乗りつけ、そのたびに王英輝や社員たちがへりくだって杉若を出迎えた。
 王英輝は日本で生まれ育った日本人であり、父親の故郷である台湾に対する思いは薄い。むしろ、面倒な政治の渦に飛びこむ父の行動には批判的ですらあった。独裁政治で台湾を牛耳る蒋介石と蒋経国の親子は、中国ブームに沸く日本では不人気で、敵が増えるばかりだと嘆いていた。杉若のような親台派議員とは距離を置きたがってさえいた。
 しかし、王英輝はその考えを百八十度転換させた。杉若は自政党内では傍流であっても、最強官庁といわれた内務省の元高級官僚だ。霞が関の人間たちとは昔ながらのつきあいがあった。
 近年の『ブライトネス』は、歌舞伎町という歓楽街の一娯楽業者ではない。不動産業にも進出を果たした複合企業だ。
 宅地開発を本格的に手掛けるようになってからは、その土地の自治体や有力者はもちろん、建設省にも充分な根回しをする必要があった。杉若の紹介により多くの現役官僚や首長、地方の役人とコネを築いて円滑に開発を進められたのだ。今では杉若と自政党への献金を欠かさず、選挙のさいには社員を運動員として選挙区に送り込んでいるほどだ。
 王英輝が言う二代目とは、杉若の長男であるぜんいちだった。
 善一は大卒後、数年の商社勤務を経てから政界入りを目指し、父の公設秘書や大臣秘書官を務め、十五年以上にわたって杉若を支えた。
 秘書と言っても、十人を超える秘書軍団や地元の支持者からは“若”などと呼ばれており、仕事の大半を他の秘書に押しつけて遊んでばかりいる放蕩息子だともいわれている。杉若は今期での引退をほのめかしており、善一が父の地盤を引き継ぐらしい。
 王英輝は横のソファに置いていた手提げカバンを手に取った。手を震わせながらファスナーを開ける。
 衝撃的なのは王英輝の泣きっ面だ。涙や洟で顔をぐしゃぐしゃに濡らし、恥ずかしさからか顔を真っ赤にさせていた。これほどまでに脆さを見せる長兄の姿に戸惑いさえ覚える。
 王英輝が取り出したのはE判の小さな写真だ。
「このざまだ」
 近藤が王英輝から写真を受け取った。それに目を落として顔をしかめる。
「これは……」
 不破も写真に目をやった。
 写真には全裸の男ふたりが写っていた。花柄の真っ赤な絨毯のうえで正座をさせられている。男たちの後ろにはでかい回転ベッドがあった。ラブホテルの一室だ。
 ヤクザ稼業をしているかぎり、この手の写真は珍しくない。男たちは典型的な美人局にでも遭ったらしく、女をエサに恐喝目的で撮影されたものと思われた。
 問題は写っているふたりの全裸の男だ。ひとりは髪型がすっかり崩れた王英輝だ。目に涙を溜めながらレンズを見上げている。よほどきつい脅しを受けたのか、泣き笑いのような力のない表情だ。
 隣には太鼓腹の中年男がいた。こちらも頭髪をグシャグシャに乱したうえに、おびただしい鼻血で顔の下半分を赤く汚していた。顔面をこっぴどく殴打されたらしく、片頬が赤く腫れあがっており、胸毛だらけの胸部に血の滴が点々とついている。二代目こと杉若善一だ。洟をたらしながら眉尻を下げ、許しを乞うような情けない顔をしていた。
 近藤が無表情になった。重大な事態に直面したときほど、この腹違いの兄は感情を表に出さなくなる。

 

(つづく)