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 室内に足を踏み入れると、大きな拍手で迎えられた。部屋の主である王英輝だけでなく、最高幹部や協力者たちが待ち受けていた。応接セットに座っていた全員が立ち上がる。
 王英輝が手を叩きながら不破に歩み寄ってきた。頭髪の生え際がいくらか後退し、顔には年相応のシワやシミができていたが、押しも押されもせぬ成長企業のトップらしい貫禄があった。アルマーニのダブルのスーツがよく似合っている。
「これでおれも枕を高くして眠れる。さすが岡谷の独眼竜だ」
「よしてください」
 不破は苦笑した。
 今年の大河ドラマ『独眼竜政宗』が、世間では人気を博しているようで、不破もあちこちで独眼竜などと呼ばれるようになった。
「照れるなよ。今じゃ若頭補佐ホサのお前が組を仕切ってるらしいじゃないか。よくやってくれた」
「兄さん」
 王英輝と抱擁を交わして肩を叩き合った。
 渡辺は期待以上の成果を上げた。彼は大型ダンプカーで標的を木っ端みじんに破壊した。半端な突っ込み方をすれば、ラーメン屋はますます意固地になって建物を補修してでも居座る可能性があった。
 大型ダンプカーは建物の柱を軒並み砕き、一階部分を完全に吹き飛ばした。渡辺自身も足を負傷して、近くの病院に担ぎ込まれた。
 常務の藪が言った。ブライトネスを古くから支える番頭格だ。
「先方も引き際を悟ったようだ。さっきうちに電話してきてね。犯罪者だの人でなしだのとギャンギャン罵ってはいたが、高級ホテルのスイートルームを用意させたら聞く耳を持つようになった」
「そうですか」
 社長室には警察官の尾崎の姿もあった。
 かつては新宿署防犯課に在籍し、ブライトネスや岡谷組に情報をもたらしてくれたが、二年前に戸塚署防犯課の課長に出世してからも腐ったままだ。警察官のくせにロレックスを手首に巻いている。相変わらず体格は貧相だったが、ベルトや靴もブランド品ばかりだった。
 不破は尾崎に訊いた。
「尾崎さん、運転手のほうはどうですか。野郎は余計なことは喋ってませんか」
「心配ご無用。四谷署から聞いた話じゃ、一貫して居眠り運転だったと供述してるようです。まだ事情を聴かれてますが、人を轢いたわけじゃありませんし、今夜中に釈放パイになるでしょう。四谷署の友人に妙なことを口走らせないよう見張らせてます」
 尾崎の腰は相変わらず低かった。課長として少なくない部下を指揮する立場になったというのに、カネのためなら年下のヤクザにも平気でへりくだる。顔を合わせるたびにムカつきを覚えたが、不破は顔には出さずに尾崎と握手を交わした。
「頼みます」
 不破は社長室の壁に向かった。出入口の正面にある壁にはブライトネスのロゴマークとともに、創業者である王大偉の肖像画が掲げられてある。肖像画に向かって手を合わせる。
 王大偉は九年前の冬に心不全で世を去った。今日も一族に貢献できたと、あの世にいる父に報告を済ませてから、応接セットのソファに腰を下ろした。
 王英輝は役員たちを見回して言った。
「地主はもちろん、今回のように市井のラーメン屋やアパート暮らしの賃借人までが知恵をつけてきた。今後はよりタフな交渉に臨まなければならないケースが増えるだろう。しかし、この時代の潮流に乗り遅れてはならない。四谷三丁目という頭痛の種が消えた今、西巣鴨の用地買収に全力で取りかかれる。藪さん、プロジェクトの進捗状況を教えてくれ」
 藪が書類を手にしながら現況を伝えた。
 西巣鴨一丁目でマンション開発のための用地買収を進めていたが、地主のひとりが先祖伝来の土地を売り渡すことはできないと、交渉に応じようとしないという。
 不破はタバコを吸いながら静かに耳を傾けた。不破の出番があるかどうかはわからない。しかし、藪の重い口ぶりから相当難航しているのが察せられた。
 現在の東京では猫の額のような土地に数十億の値がつく。それがどれだけ異常なのかは学のない不破でもわかった。
 それでもこれが今の流れだというのなら乗らないわけにはいかない。日経平均株価は約二年で二倍に上昇し、岡谷組のなかにも株式公開されたNTT株で大儲けした者がいた。濡れ手で粟の時代が到来している。
 ヤクザの世界も同じでカネがモノを言うご時世になった。岡谷組は東日本最大のヤクザ組織である天仁会の傘下団体だ。岡谷や近藤の座布団を上げるためにはもっと多額のカネが必要だった。
 社長室のドアがノックされた。ストライプのスーツを着た王心賢が入ってきた。分厚い書類やシステム手帳を抱えている。
「遅くなりました」
 王英輝が彼を手招きした。
「心賢、聞いたか。四谷三丁目の件は」
「もちろんです。叔父さん、今回はお世話になりました」
 王心賢は不破に向かって頭を下げた。
 厳しい部屋住み修行を耐え抜いた若衆のようなキビキビとした所作だった。不破は軽く手を上げた。
「しばらくだったな。お前の活躍は耳にしている」
「まだまだ若輩者です」
 王心賢は社長の長男だ。彼は今年の春からブライトネスの花形である不動産部門に就いていた。
 彼は父親と同じ道を歩んだ。慶應義塾大からカリフォルニア大に留学して経営学を学び、迷わずブライトネスへと就職した。次代を担うサラブレッドとして帝王学を叩きこまれた。
 ブライトネスグループ全体を把握するために、映画館やボウリング場の支配人などを務め、グループの礎を築いたレジャー部門の仕事を把握。
 二十六歳で関東や大阪にあるブライトネスビルのテナント管理部門を任された。一癖も二癖もある店子と友好な関係を築き、騒音や照明、臭気といった数々のトラブルを円滑に解決してみせた。
 色白で御曹司の匂いが隠せない父親と違い、今でもサッカーを趣味で続けているためか、常に真っ黒に日焼けしており、肉体も軍人のように引き締まっている。
「叔父さん、お話があります」
 王心賢は立ったままだった。思いつめたような表情で不破の傍から離れない。
「どうした。改まって」
「ブライトネスの端くれとして言わせてください。組の関係者を本社に連れてくるのは控えていただけませんか。若手社員が怖がって仕事にならないのです」
 王心賢は不破を見据えて言った。
 室内の空気が変わった。王英輝が顔をしかめて手を振った。
「お前、なにを言っている。うちの不動産部門の連中とどっこいどっこいだろう。むしろ極道から見習う点は大いにある。あれくらいの迫力と存在感がなければ、地主にも借地人にもナメられるばかりだ」
「待ってください」
 不破は兄に向かって首を横に振った。
 王心賢からの申し出に戸惑いを覚えながらも、この甥が恐怖を押し殺して真剣に意見しているのだとわかった。彼の脚はかすかにふるえている。
「こちらが配慮すべきだった。歌舞伎町に事務所があったころとは訳が違う。車のなかで待機するよう伝える」
 不破はタバコを揉み消して続けた。
「まだ、言いたいことがあるんじゃないのか?」
「はい」
 王心賢が再び頭を深々と下げた。
「叔父さんたちは新宿の有名人だ。だからこそ、本社への立ち入りは慎んでいただきたいのです。ブライトネスも今では全国を股にかける大企業へと成長しました。我が社にもブランドイメージというものがあります」
 王英輝がテーブルを激しく叩いた。銃声のような音が室内に轟いた。
「ふざけるな!」
 王英輝はソファから立ち上がった。
 息子のもとへと大股で近づき、彼の頬を容赦なく張り飛ばした。王心賢が上体をぐらつかせる。
「青二才のお前に会社のなにがわかる! 我が社がこれほどの成長を遂げられたのは傑志や隆次が身体を張ってくれたからだ。その大企業とやらでエリート面できるのは誰のおかげだと思ってる」
 王心賢は唇の端から血を流していた。
 加減のない平手打ちをしたたかに食らいながらも、姿勢をすぐに戻して父親と向き合う。
「叔父さんたちの功績は重々承知してます。一族の者として誇りに思っています。ただし、我々はカタギの企業人であって、叔父さんたちは裏社会に生きる極道だ。混ざり合うことを世間が許してくれるはずがない」
「知った口を」
 王英輝が再び右手を振り上げた。
 不破がすばやく立ち上がり、王英輝の右腕を掴んだ。ふたりの間に割って入る。
「兄さん、落ち着いてくれ」
 凍りついていた藪や尾崎も遅れて立ち上がった。一族の当主と御曹司をなだめにかかり、ふたりをそれぞれ離れた位置のソファに座らせる。
 王英輝は震える手でテーブルの湯呑みに手を伸ばした。日本茶を一気に飲み干す。
「世間が許してくれないだと。くだらん戯言だ。この世は白いものと黒いものが混ざり合ってできている。銀行がヤクザの企業舎弟に何百億も貸しつけて、一流企業が総会屋を飼ってる時代だぞ」
「私には……そんなことが長く続くとはどうしても思えません。叔父さんたちの力を否定するつもりはありませんが、数十年もかけて築いたブライトネスの社会的信用を一夜にして失うことにもなりかねない」
 王英輝の顔は再び朱に染まった。湯飲みを息子に投げつけかねないほどの怒気を感じる。
 不破は軽く手を上げた。
「兄さん、おれにも言わせてもらっていいかい?」
 王英輝がけしかけるように手を振った。
「言え言え、独眼竜。その坊やに現実を教えてやれ。二、三発殴ってくれても構わない」
「おれは心賢の言うとおりだと思ってる」
「な、なにを。お前までなにを言い出す」
近藤アニキが常々言ってました。おれたちは黒子に徹しなければならないと。にもかかわらず、知らず知らずに分をわきまえず、こんな明るいところにまで足を踏み入れてしまった。ブライトネスは立派な大企業だ。おれのようなヤクザ者が平気で出入りするのはいかにもまずい。ここを訪れるのは今日で最後だ」
 王心賢は床に正座をし、不破に向かって土下座をした。
「叔父さん、すみません」
「頭を上げてくれ。よくぞ言ってくれた」
 不破は王心賢の前で膝立ちになった。
 王心賢はしばらく床に額をつけたままだった。洟をすする音がして、彼が泣いているのがわかった。不破の胸まで熱くなる。
 この若者は次代の当主になれる。それだけの器を感じさせた。強面の叔父に対しても堂々と意見をし、父親に厳しく叱責されても怯まない気骨があった。男を売るのが商売のヤクザ社会でも、これほど胆力のある人間はなかなかいない。
 不破は自尊心を傷つけられた。一族のために何度も血を流したこのおれに。一抹の寂しさも覚えた。怒りもある。
 王英輝の威光も借りて、この生意気な甥にカマシを入れ、今後も大きな顔をしてブライトネスに出入りをし、社員たちにもとことん存在感を示しておく。
 それがヤクザの常套手段だったが、あの世にいる父がそんなことを望むはずはない。自分は一族を守るための騎士であり、卑しい寄生虫などではない。不破はそのことを久しぶりに思い出した。
 王心賢の腕を掴んだ。
「もうよせ。ブライトネスのプリンスが、いつまでも土下座なんかするな。お前は堂々と生きるべきなんだ」
「叔父さん、すみません……すみません」
 不破は王心賢をソファに座らせた。彼は何度も詫びの言葉を口にしていた。
 不破はスラックスの裾を払い、社長室を後にしようとした。部屋のドアに手をかける。
 王英輝が引き留めるように追いかけてきた。この兄は昔の美人局の件を解決させてから、不破の実力をずっと買ってくれている。
「いいのか。言われっぱなしで」
「言われっぱなしもなにも。今回は心賢が正しい。あいつを叱らないでやってください。黒子としての分をわきまえるだけで、会社はこれまでどおり陰から支えます」
「わかった。近々、一杯やろう」
「上等なシャンパンを。祝い酒がまだです」
 不破は微笑を湛えてみせた。王英輝と固い握手を交わす。
 不破は社長室から出ると、ミーティングスペースにいた舎弟たちを連れ、ブライトネスを後にした。

 

(つづく)