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昭和六十二年

 

 

10

 

 岡谷組の本拠地は歌舞伎町二丁目の大久保公園の裏手にあった。

 五階建ての鉄筋ビルの一階と二階を組事務所として使い、それ以外のフロアには岡谷組のフロント企業が入っていた。

 不破が移動中の車から組事務所に電話をかけ、非常事態が発生したと連絡していた。そのためか鉄筋ビルの前には、複数の若い衆があたりを警戒するように睨みを利かせており、いつもより多くの組員が詰めていた。

 不破を乗せたハイエースはビルの前で停まった。彼は使い古しのスポーツウェアから黒のシャツとスラックスに着替えていた。同乗していた若い衆が車を一斉に降りる。

 荷室には寝袋があった。それを三人がかりで組事務所へと運ばせる。寝袋のなかには大人の男性が入っているため、三人がかりでも運搬にはだいぶ手こずっていた。

 若い衆に寝袋を運搬させ、不破は二階の会議室へと入った。本来なら若頭補佐を含めた執行部員が、組の運営などを話し合う場として使われる。椅子や長机は隅に積み上げられており、今はガランとした空間が広がっていた。

 組長の岡谷が奥でパイプ椅子に腰かけ、タバコをくゆらせながらラジオを聴いていた。

 糖尿病を患ってから、禁煙していたはずだった。しかし、吸わずにはいられないほど苛立っているようだった。

 ラジオはニュースを伝えていたが、不破たちの仕事が報じられる様子はない。中国大陸で生き別れになった兄弟が、約四十年ぶりに再会を果たしたという、中国残留孤児の帰国に関する話題を伝えていた。

 岡谷がラジオのスイッチを切った。

「来やがったか」

 不破は寝袋を会議室の真ん中に置かせると、岡谷の前で床に正座をして頭を下げた。

「申し訳ありません。今回はおれの不始末です」

「んなことはねえ。小指エンコ詰めようなんて考えんじゃねえぞ。今回はおれや近藤カシラにも責任がある。あの台湾人をうまく使いこなせると思い込んでたんだ。危ねえ野郎だとわかっていながらな。近藤カシラも四国からこっちに戻ってきてる。もうすぐツラを見せるだろうよ」

 岡谷がタバコを持った手で寝袋を指した。

「で、そっちのお客さんと話はできたのか?」

「はい」

 不破が立ち上がって寝袋のファスナーを下ろした。

 谷田部の汗まみれの顔が露わになった。彼は新鮮な空気を求めて深呼吸をした。彼の鼻は曲がっており、顔の下半分は乾いた鼻血がべっとりと貼りついている。

 不破たちはハッサンから真相を聞いたその足で、新宿七丁目にある谷田部のオフィスへと向かった。谷田部にはシラを切らせる暇を与えなかった。新たな拳銃を握って袋叩きにすると、手足を縛って寝袋に入れ、組事務所へと身柄をさらったのだ。

 岡谷が椅子から立ち上がった。寝袋の谷田部に近づいてしゃがみこんだ。

「この老いぼれにも教えてくれねえか。なんだってこの岡谷組をペテンにかけた。よその組から小遣いでも貰ったか?」

 岡谷が火のついたタバコを掌でもみ消した。口調こそ穏やかだったが、その表情はひどく険しい。

 谷田部はしきりに身体をよじらせた。

「どこからも貰ってなどいません! 組を裏切るつもりはなかったんだ」

 不破は谷田部の鼻を小突いた。

「言い訳はいらない。石国豪になにをされて、お前がなにをやったのか。それを短く説明しろ」

「か、監視に感づかれました。それだけでなく、あの男は私の事務所にも侵入して、保管していた調査報告書の一部を盗んでいったのです」

「なんとまあ」

 岡谷は呆れたようにため息をついた。

 谷田部は社員三名を使い、二十四時間体制で見張った。石国豪は歌舞伎町の台湾クラブや雀荘にしけこみ、近藤からもらったカネで放蕩三昧な生活を送っていた。

 だが、それは監視者の目をあざむくフリに過ぎなかった。石国豪は監視者の車のナンバーを頭に叩きこみ、知人に陸運局へ行かせると、車の所有者である調査会社の存在を嗅ぎつけた。

 石国豪は調査会社に押し入ると、ぬしである谷田部を銃器で脅し上げ、会社の財産である調査報告書を押収した。大企業の経営者の浮気や官僚の性癖を記した機密書類だ。谷田部は徹底的に追い詰められ、岡谷組を裏切るように仕向けられた。調査から五日目のことだった。

 岡谷は冷えた目で谷田部を見下ろした。

「これだから警察官ヒネだったやつは信用できん。いくら脅されたとはいえ、あんな与太者ごときにひれ伏して、せっせと偽の報告書を書いて我々を嵌めるとはな。ソロバンも弾けないほど頭が悪いのか?」

「お言葉を返すようですが……あの男はただの与太者じゃない。身のこなしひとつとっても普通じゃなかった」

 谷田部は小さく首を横に振った。怯えた顔つきで岡谷を見上げる。

「盗人猛々しいぞ」

 不破は寝袋を蹴飛ばした。谷田部の腹をつま先でえぐる。彼は両目を固くつむって咳きこんだ。

 谷田部は石国豪に弱みを握られ、見張っているフリだけをした。岡谷組から調査の打ち切りを命じられるまで、偽の調査報告書を書き続けて乗り切るつもりでいた。

 石国豪はその間に動いた。岡谷組の目を盗んで、どこからか覚せい剤を仕入れ、パキスタン人グループに捌かせたのだ。あの男にとって新宿は異国の繁華街だ。だが、すでに多くの悪党仲間がこの土地に逃げ込んでいる。クスリを仕入れるだけの伝手を見つけるのはそう難しくはないだろう。

 不破は唇を噛んだ。石国豪は新宿に流れ着いたときから、病で衰えた自分をことさら印象づけ、不破にもへりくだってみせては油断を誘ったのだ。九年前にも煮え湯を飲ませただけでなく、またも裏を掻いてきた。

 岡谷が椅子に座り直した。

「どうもわからねえな。あれだけ悪知恵の働く野郎だ。そこらの不良外人に捌かせりゃ、うちや鞭馬会にすぐバレると気づくだろうに」

「……やつは戦争したがってるんです」

「どういうことだ」

 岡谷が眉をひそめた。

 不破は石国豪の言葉を思い出していた。九年前、あの男が歌舞伎町の風呂屋に行く途中で口にしていた。

 ――おれは期待したね。こいつは故郷クニに帰ったら、日本中を火の海にするような戦争を起こすだろうなってな。ところがそうはならなかった。

 石国豪は近藤に勝手な期待を押しつけていた。父親の王大偉を殺し、王一族を支配下に置き、日本の裏社会に君臨するきようゆうになる逸材だと。自分の思い描いた姿にならずに失望していた。

 若い衆の声が階下で響き渡った。会議室の窓から外を見下ろすと、組事務所の前に近藤のベントレーが停まっていた。階段を駆け上がる音がし、ダークスーツ姿の近藤が会議室に飛び込んできた。

 近藤は寝袋の谷田部を見下ろした。彼は頬を紅潮させ、目を大きく見開かせている。岡谷や不破も怯むほどの怒気を全身から放出させていた。谷田部は床に目を落として身を縮めた。

若頭カシラ

 不破は頭を下げた。きつい制裁を覚悟していたが、近藤は不破の肩を軽く叩くだけだった。

 近藤は岡谷の前まで歩み寄って床に正座をした。

「ただ今、戻りました」

「お前のダチ公、大活躍してやがった」

「この不始末の責任はおれにあります。国豪の本音を見抜けぬまま、ここでの滞在を許してしまった」

「責任なら――」

 不破が口を挟もうとした。近藤から掌を向けられて制された。岡谷が近藤に訊く。

「どうするつもりだ」

「若頭の任を解いてください。一介の若衆となって、この手でケジメをつけます」

「ダメだな」

 岡谷はにべもなくはねつけた。二本目のタバコに自ら火をつけると、機関車のように勢いよく煙を吐いた。

「これはもうお前ひとりの問題じゃねえんだ。石国豪がコケにしたのは、お前だけじゃねえ。この岡谷組そのものだ。あの野郎の望みは戦争なんだってよ。その願いをきっちり叶えてやれ。岡谷組総出でやつを狩るのさ。ケジメ云々はその後だ」

 近藤は岡谷を見上げた。彼は親分になにかを言いかけたが、唇を固く結んで平伏した。

「……承知しました」

 近藤は意を決したように立ち上がった。周囲を圧するほどの怒気は消え失せ、いつものような冷静な顔つきに戻っていた。

「隆次、日月潭には?」

「組のもんを行かせました。新大久保の女の住処ヤサとやらにも。もぬけの殻だったそうです。印刷所にあの男の写真を大量にコピーさせて、全員にそれを持たせて捜させる予定でいます」

 近藤はうなずいてみせた。彼は土居に歩美へ電話するよう命じた。彼女に外出を控えさせるためだった。近藤邸には歩美だけでなく、今日は息子の雄也もいた。夏休み中にもかかわらず、部屋で勉学に打ちこんでいるはずだ。

 すでに近藤邸には屈強な若い衆を護衛につけさせている。人数も五人に増やした。

 石国豪の言葉が再び脳裏をよぎる。

 ――マンションなんて西洋長屋で、ガキと妻とこぢんまりとした幸せを掴んでやがった。反吐が出そうだ。

 あの男は近藤を憎んですらいた。親友のもっとも嫌がる方法を積極的に選ぶだろう。

若頭カシラ……」

 土居が青い顔をして受話器を握っていた。不破が訊いた。

「どうした」

「誰も電話に出ねえんです」

「バカな――」

 心臓がひときわ大きく鳴った。脳内で警報ベルが鳴り響く。

 不破と近藤は同時に会議室から駆け出していた。

 

11

 

 不破たちは息を弾ませた。

 組事務所から近藤の自宅は目と鼻の先だ。かえって車で移動するほうが時間がかかる。何人かの若衆を連れて組事務所を出た。歌舞伎町のホテル街を走り抜け、職安通りの歩行者信号も無視した。走行中の車を無理やり停止させて駆けた。

 近藤のマンションに着いたころには、不破と近藤のふたりだけとなっていた。正面玄関を潜り抜けると、不破たちは拳銃を抜き出した。近藤が持っていたのはコルトガバメントで、不破は知らないメーカーのリボルバーだ。いわゆる“サタデーナイトスペシャル”と呼ばれる安物の拳銃で、見た目からして安っぽさの漂う護身用の代物だった。

 ヤクザ社会では拳銃は使い捨て品だ。一発でも事件で使った拳銃は線条痕で特定される。そのため複数の仕事で使えず、その拳銃はもう捨てるしかない。

 名銃で知られるコルトに比べると心もとないが、それでも手ぶらでいるよりはマシだ。近藤とその家族を守るのに必要だった。

 ふたりはマンションの階段を駆け上がった。近藤は走りながらコルトのスライドを引き、薬室に弾薬を送り込んでいた。

 三階へと向かいながらも、なにかの間違いだと思いたかった。太陽は西に傾いており、歩美はいつも通りに夕食の準備に取りかかっているはずだ。雄也も一心不乱に勉学に打ちこんでいる。

 若い衆はどれも腕と度胸を兼ね備えた猛者で、さらに銃器まで持たせていたのだ。

 最上階の三階に到達すると、不破が外廊下に出てリボルバーを構えた。

 三階は二部屋のみがあり、どちらも近藤が所有していた。手前側の部屋は客人をもてなすための迎賓施設であり、ふだんは部屋住みの若い衆が寝泊まりしている。奥が近藤の自宅だ。

 不破の右目に汗が入り込んだ。汗を手の甲で拭いながら瞬きを繰り返す。ダメだ、こんなのはあってはならない――心のなかで呟く。

 近藤もまた汗みどろだ。彼も異変を察知したらしく、奥歯をきつく噛み締めている。

 外廊下には二台のビデオカメラが睨みを利かせていた。部屋の玄関前に備えつけられており、三階に何者かがやって来た時点で、組員が顔を見せるはずだった。幹部のふたりがこうして拳銃を手にして上がってきたとなればなおさらだ。

 手前側の部屋の玄関ドアが静かに開いた。不破はリボルバーを向ける。

 すぎもとという名の坊主頭の若手組員だった。ヤクザには珍しく大学出身者で、柔道部で揉まれた実力者だった。柔道での勝負となれば、不破とも互角に渡り合える数少ない組員で、その腕を見込まれて護衛を命じられた。普段着ているTシャツは胸の筋肉ではち切れそうなほどだ。

 杉本が床を這って外廊下へと出てきた。両手は血に染まっている。Tシャツもすでに真っ赤だった。

「なにがあった」

 近藤が杉本に駆け寄った。

 杉本が手を震わせながら、隣の近藤の部屋を指さす。口をパクパクと必死に動かし、なにかを言おうとするものの、声を出せずにいる。杉本は外廊下に倒れ込んだ。

 そのときだった。近藤の部屋から三発の銃声が轟いた。不破はとっさに身を伏せて拳銃を玄関ドアに向けた。ドアが開かれる様子はなく、外からでは様子はわからない。銃声がしたきりで、物音が聞こえてこない。近藤と顔を見合わせた。彼の顔は青ざめている。

 不破は身を起こしてドアへ飛びついた。ドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。不破が玄関ドアを一気に開け放つ。硝煙の火薬臭さが鼻につく。

 玄関の土間や廊下には血痕が残されていた。シューズボックスの上に飾られてあった鉢植えが土間に落ちて砕けている。

「歩美! 雄也」

 近藤が部屋のなかへ勢いよく飛び込んだ。靴を履いたまま廊下を踏みしめる。不破も彼の後を追う。

 廊下の先にあるのはダイニングへとつながる扉だ。近藤が扉を思い切り蹴った。扉が勢いよく開かれ、室内の様子が明らかになる。不破は思わずうめいた。

 食事用のテーブルが横倒しになっており、ふたりの行動服姿の組員が倒れていた。一方は頬と鼻を穿たれて身を横たえ、もう一方は壁に背中を預けたまま床にへたり込んでいる。どちらも急所から血を流しており、フローリングに血だまりを作っていた。

 近藤が先にダイニングへと飛び込み、隣室の八畳の和室に銃口を向けた。そこは近藤一家の憩いの場だった。不破や組員もよくそこで麻雀やトランプに興じ、大型テレビで野球やボクシング中継を観戦した。

「国豪!」

 近藤が和室に銃口を向けた。不破もダイニングへと足を踏み入れて和室を見やる。

 ダイニングと和室の空間は硝煙で白く濁っていた。右目が硝煙でつんとしみるものの、石国豪が和室の中央に立っているのがわかった。不破もリボルバーを石国豪に向ける。

「姐さん!」

 不破は吠えた。石国豪の傍には歩美もいた。

「雄也は無事よ」

 彼女は畳のうえに片膝をついたまま、石国豪の顔を見上げていた。目を血走らせ、犬歯を剥いていた。鬼のような厳しい表情だ。石国豪に拳銃を突きつけられても、臆する様子は見られない。夫と同じく気迫を感じさせる。

 元凶の石国豪は両手に拳銃を持っていた。左手で歩美に向けているのは、台湾陸軍の制式拳銃である自動拳銃のT75シヨウチアンだ。右手には銃身の短いリボルバーがあり、銃口を近藤に向けている。

 彼はライトグリーンのスポーツウェアの上下を身に着けており、先日のランニング姿とは一転して軽快で活動的に見えた。そのスポーツウェアも黒色火薬と血で汚れている。

 和室もまたダイニングと同じく荒れ切っていた。座卓はひっくり返され、畳のうえには砕けたグラスや食器の欠片が散らばっている。大型テレビもテレビ台から落ちている。

 歩美が生存していることに安堵しながらも、心臓を鷲掴みされているような感覚に陥った。彼女の白い足は細かい傷がつき、出血で真っ赤だった。石国豪に殴打されたのか、片頬を赤く腫れ上がらせている。

 やつの脳天に弾丸を叩きこんでやりたいが、トリガーを引ける状況にはない。

 石国豪は舌打ちした。

「もう来やがったのかよ。お前の女房とガキを殺して、もっと焚きつける予定だったんだけどな」

「お前がおれを軽蔑していたのは知っている。だけど、ここまで憎んでいたというのか?」

 近藤がコルトで狙いをつけながらうなった。

 彼の腕ならば確実に仕留められる距離だ。しかし、撃てそうにはない。石国豪はふたつの拳銃のトリガーに指をかけている。

「わかってねえな。憎んでなんかいねえよ。ベタ惚れだからやったんじゃねえか。近藤傑志。お前はおれのヒーローだぞ。兵役時代を思い出せ。お前は同僚からどんだけひでえイジメに遭おうが、二倍にも三倍にも仕返ししてたじゃねえか。営倉に送られようが、過酷な訓練をやらされようが、音を上げるどころか腕と気合で黙らせた。ナイフみたいに尖っててよ。日本に戻ったら警察ポリもヤクザも皆殺しにして、父親も吊るしてやると息巻いてたじゃねえか」

「ガキのたわごとだ。おれはもう昔とは違う。お前だってわかってただろう」

「違うね。戯言じゃねえ」

 石国豪が歩美の頭に自動拳銃を押しつけた。

「兵役時代が本当のお前なんだよ。今だって腹も据わっているし、腕だって鈍っちゃいねえようだ。この女がお前から怒りと牙を抜き取っちまったんだ。おれがシャキっと動いていられる時間はわずかだ。お前とでかい花火を打ち上げてえんだよ」

「イカれやがって……殺してやる」

「いいねえ。その調子だ」

 不破はふたりのやり取りを注視しつつ、玄関のほうに目を走らせた。

若頭カシラ!」

 若い衆の数名がようやく追いつき、肩で息をしながら部屋に入ってこようとした。

 不破は軽く首を振って押し留めた。血気盛んな連中がなだれ込めば、石国豪を暴発させるおそれがある。

 右目をこらした。どうにかしてこの現状を打破する方法はないものかと。近藤も同じ考えのようだった。怒りで全身を震わせているものの、歩美を助けるために頭脳をフル回転させているのがわかる。

 そのときだった。歩美の視線が石国豪から不破たちへと移った。歩美と目がしっかりと合う。

 彼女の瞳には強い光があった。イカれた殺し屋に命を握られているというのに、まったく怯む様子を見せていない。

 石国豪は狡知に長けた怪物だ。しかし、あの男でも見誤る。拳銃を突きつけているのは、非力で怯え切ったカタギの女ではない。肝の据わった極道のおんなだ。石国豪の隙を虎視眈々と狙っているに違いない。

 近藤が一転して殺気を消した。肩をガクリと落とし、深々と息を吐きながら、コルトの安全装置をかけて和室に放った。コルトが重い音を立てながら畳のうえを滑った。

 石国豪が汚物でも見るようにコルトに目をやった。

「なんだよ、こりゃ。殺すんじゃねえのか」

「これがおれの正体だ。女房子供なしじゃ生きられない。日本中を火の海にするどころか、新宿ジユクで揉め事もなるべく避けて暮らしてきたんだ。お前はありもしないおれの姿を追い求めていただけだ」

「嘘だね」

「嘘じゃねえ。これが事実だ」

 近藤が不破に顎で命じた。拳銃を捨てろと。石国豪が唇を歪めた。

「おい、てめえもだ。片目のあんちゃん。おれがなんでてめえを生かしたと思う。見どころがあったからだ。てめえも牙を抜かれてんのか」

「ああ、そうさ」

 不破も無念そうにリボルバーを和室に放った。

 リボルバーが畳のうえで弾んだ。石国豪の目が一瞬だけリボルバーに奪われる。

 歩美が動いた。彼女が石国豪の左手首を両手で握った。銃口がそれる。彼の左手にあるT75手槍が火を噴き、弾丸が畳にめり込んだ。石国豪の顔が強張る。

「なんだてめえ!」

 石国豪が左腕を大きく振って、歩美を払いのけようとする。彼女はしつこくしがみつき、さらに顔を近づけて彼の左手首に噛みついた。石国豪が苦痛で顔を歪ませた。彼は右手のリボルバーを歩美の側頭部に向ける。

 不破と近藤が和室に飛び込んだ。石国豪がトリガーを引く前に、不破たちは拳と脚を突き出していた。不破が左拳で顔面に正拳突きを繰り出し、近藤が腹に前蹴りを放つ。

 石国豪は突きと蹴りの両方を食らって吹き飛んだ。壁際の桐ダンスに背中を激しく打ちつけ、ずるずると腰を落として尻もちをついた。石国豪の左手からT75手槍が離れる。

 九年前であれば、歩美も不破たちも無事では済まなかったはずだ。石国豪は糖尿病が悪化し、指先に痛みを感じていた。トリガーをすばやく引けるだけの瞬発力が失われていた。

 まだ勝負はついていない。不破は石国豪に躍りかかった。石国豪は鼻血を出し、頭をふらつかせていた。しかし、その右手にはリボルバーがある。

 石国豪が鼻血を舐めながらリボルバーを不破に向けようとする。不破がその前に回し蹴りを放っていた。不破の右脛が石国豪の右手を弾く。リボルバーが火を噴き、弾丸が天井のほうへ飛ぶ。

 不破は左腕を伸ばして石国豪のリボルバーを掴んだ。レンコンと言われる弾倉を握って発砲を防ぎ、リボルバーを奪い取ろうと引っ張る。病で弱った石国豪には、もはや素手喧嘩ステゴロで不破や近藤に対抗できる力は残っていないだろう。銃火器を奪取してしまえば終わりだ。

 不破は左手に力をこめた。リボルバーをもぎ取ろうとするものの、石国豪はしぶとく拳銃を手放そうとしない。

「クソ野郎が!」

 不破は右拳を鉄槌のように振り下ろした。

 石国豪の細くなった右手首を打つ。骨ごと折らんばかりに再び鉄槌を食らわせるが、石国豪の右手は拳銃から離れない。むしろ、彼は不敵な笑みを浮かべている。

「牙を取り戻せ」

「うるせえ!」

 不破がさらに鉄槌を打った。空手の試割りのように拳を振り下ろす。石国豪の右手首が真っ赤に腫れ上がる。

「危ない!」

 近藤が叫んだ。

 彼は畳のうえに落ちたコルトを拾い上げていた。安全装置を外して銃口を石国豪に向ける。

 不破は目を見張った。石国豪の左手にはなぜか小型の自動拳銃が握られていた。

 露になった左足首にアンクルホルスターが見える。この男は第三の拳銃を所持していたのだ。不破がリボルバーに気を取られている隙に、足首から小型拳銃を抜き出したのだ。

 石国豪が小型拳銃を発砲した。銃口から火が噴き出すのが見えた。コルトの発砲音も鼓膜を震わせる。

 石国豪が首を大きくのけぞらせた。額に銃弾を浴びると、後頭部を桐ダンスに打ちつけ、ガクリと頭を垂れる。

 彼の右手から急速に力が抜けていく。しぶとく持っていたリボルバーをようやく手放す。不破は奪い取ったリボルバーを両手で握り、石国豪の後頭部に狙いをつけた。全弾を打ち尽くすつもりでトリガーに指をかける。

「傑志さん!」

 歩美が大声で叫んだ。不破は近藤のほうを向いた。

「兄貴!」

 思わず悲鳴を上げる。リボルバーを放り捨てる。

 近藤の胸が血で濡れていた。白いワイシャツがみるみる赤く染まっていく。近藤は訝しむように胸を手にやった。血に染まった手を不思議そうに見やり、がくりと畳のうえに膝をついた。うつ伏せに倒れる。

「救急車だ!」

 不破は玄関に向かって吠えた。

 ストップを命じられていた若い衆がダイニングへと入ってきた。近藤の姿にうろたえる。

「早く呼ばねえか!」

 不破はリボルバーを若い衆に投げつけた。

「だけど、呼んだら警察ポリが――」

「早く呼びなさい!」

 歩美が若い衆に厳しい口調で命じた。若い衆のひとりが電話機の受話器を取る。若い衆たちが部屋中の拳銃を拾い上げた。

 不破は近藤を仰向けにした。着ていたシャツを脱いで、近藤の胸に押し当てる。

 歩美もクッションで傷口を覆った。圧迫止血法で流血を少しでも防ごうとするが、生温かい血が湧き水のように噴き出してくる。石国豪の銃弾が、彼の心臓か動脈を損傷させたのだと悟る。

「なにかの間違いだ!」

 不破が叫んだ。声がみっともなく裏返る。

シャツやクッションが瞬く間にぐっしょりと血で濡れそぼる。現実を受け入れられない。

「う、撃たれたのか?」

「大した傷じゃねえよ。大丈夫だ、大丈夫だ」

 大丈夫なはずはなかった。近藤の顔は魚の腹みたいに白い。唇は紫色に変わり、瞳の焦点が合わなくなる。

「……雄也は無事か?」

 近藤は天井を見上げながら囁いた。歩美がクッションを両手で押さえながら答えた。

「お風呂場に隠れてる。無事だから」

「寒い……」

 近藤の息が浅くなった。不破は息を呑みこんだ。近藤の瞳孔が開いていく。

「ダメだ! 気をしっかり持て」

 不破は涙声になりながら訴えた。だが、近藤の呼吸が停止する。

 不破はクッションのうえに両手を重ねた。肘を伸ばしたまま強く押して心臓マッサージを行う。胸から出血をしている人間に心臓マッサージなどしていいのかどうかは知らなかった。それでも、やらずにはいられない。

 歩美も近藤の顎を上げて気道を確保すると、口を密着させて人工呼吸を始める。不破たちの両手は血でずぶ濡れで、火薬の臭いが薄れると、室内は血の生臭さに支配されていく。

「救急車はまだか!」

 受話器を持った若い衆に怒鳴りつけた。若い衆もさかんに電話相手に怒声を浴びせている。

 若い衆の隣には雄也が立っていた。放心した様子で近藤を見つめている。不破は反射的に雄也から目をそらした。合わせる顔がない。

「すまない、すまない!」

 不破は心臓マッサージをしながら雄也に謝った。胸をしきりに圧迫しても、近藤はなんの反応も示さない。

 ――血の秘密は守られたじゃねえか。

 不破自身の声がどこかから聞こえた。

「うるせえ!」

 不破はわめき声でかき消した。

 遠くでサイレンが鳴っていた。歩美が涙で顔を濡らしながら近藤と唇を重ねる。それは人工呼吸というよりも、別れの口づけをしているように映った。

 

(つづく)